2008年 12月 30日
バンコク1977 |
そういうと、大抵の人は驚いた顔になって、「その頃のバンコクは現在と違って、随分と鄙びた田舎町だったんでしょうね」といいますが、そんなことはありません。
現在のように高層ビルが林立してないだけで、トゥクトゥクが黒い排気ガスを撒き散らしながら走り回っている、とても活気のある大都会でした。
そのときバンコクで泊まったホテルは、ニューペプリ通りのPホテルで、部屋代は1泊380バーツだったことを覚えています。
ただし、当時の為替レートは、1ドル=300円=20バーツでしたから、1バーツは15円で、1泊380バーツで5700円したことになります。
Pホテルは、部屋の広さを別にすれば、日本でいうビジネスホテルに相当するホテルで、1977頃には、日本でも5700円も出せば、ビジネスホテルに泊まることができたことを考えると、
ホテルの料金に関しては、当時、日本とタイの間にはそれほど差がなかったといえます。
このPホテルはその後、私のバンコクでの定宿になって、2005年7月にタイに行ったときにも泊まったのですが、部屋代は1977年当時のおよそ倍の750バーツまで値上がりしていたものの、
逆に円換算では2025円(1バーツ=2.7円で計算)で、3分の1近く値下がりしていて、この間の¥の上昇がいかに凄まじかったかよくわかります。
さて1977年当時のバンコクのゲイ事情ですが、このときホテルの売店で買ったポケットサイズのガイドブックのFRIENDLY MENというページに、シーロム=スリウォン地区のゲイバーの名前が7、8軒、記載されていました。
この中で現在もまだ営業しているのはトワイライトだけで、偶々、私がこのとき行った店もトワイライトでした。
店は現在と同じ場所にありましたが、スリウォンに着いて、タクシーを降りた途端、バンコク名物のバケツの水をひっくり返したような激しいスコールが降ってきて、
道の反対側のトワイライトの入り口に着いたときは全身ずぶ濡れになってしまいました。
身体からポタポタ雨しずくを落としながら、あの狭い階段を昇って2階の店に入って行くと、まだ時間が早かったせいか、客は私のほかにはだれもいません。
ボーイは全部で36人いて、現在みたいに裸ではなく、全員、長袖のシャツに長いパンツといういでたちでした。
カウンターの位置は今と同じですが、現在、ソファや椅子が置いてあるスペースにはなにもなくて、片隅に置かれてあるジュークボックスから流れ出る音楽に合わせて、ボーイが2人、ジルバを踊ってました。
カウンターの中には本物(多分)の中年女性のメガネをかけたママさんがいて、もう1人30半ばのチーママといった感じの小太りのオネエっぽいマネージャーの男がいました。
英語が話せたのはこのチーママだけで、ボーイが全部で36人いることを教えてくれたのも彼です。
36人もいたら選ぶのが大変だったろう、と思われるかもしれませんが、そうでもなかったです。
店に入ると、笑顔のボーイたちが私のまわりに集まってきたのですが、近くに立っていた小柄だけど引き締まった身体つきの、
タイ人特有の無邪気で愛らしい笑みを顔に浮かべたボーイを見た瞬間、彼を気に入ってしまい、オフすることに決めてしまったからです。
店に入ってから5分も経っていなかったと思います。
チーママにそのボーイをオフしたいというと、翌朝、彼に米ドルで25ドル(当時のレートで7500円)払って欲しいといわれました。
はっきりとは覚えていないのですが、そのとき店には連れ出し料のようなものは払わなかったと思います。
で、そのボーイを連れてホテルに戻ったのですが、彼は英語が一言も話せず、私はタイ語が一言も話せないにもかかわらず、ヤルことをヤルにはなんの支障もなく、楽しい一夜を過ごしたのでした。
翌朝、ルームサービスで頼んだ朝食を彼と一緒に食べていたら、フロントから電話があって、店の人間が彼を迎えにきているといいます。
わざわざ迎えにくるなんて大層だな、と思いながらボーイと一緒にホテルのロビーまで降りていくと、チーママがいて、「よければ、これから50ドルで『ファックショー』を見せるけど、見に行かないか」と誘われました。
客が少なくて店が不景気だったのか、それとも私が上客というか、良いカモに見られたのかよくわかりませんが、
チーママは、ボーイの出迎えを口実に、私を「ファックショー」に勧誘するために、わざわざホテルまでやってきたのです。
50ドル(1万5000円)という料金はいま考えると、けっこうな値段だったような気もしますが、そのときはヨーロッパで仕事した帰りで、懐が暖かかったせいもあり、
好奇心も手伝って、そのファックショーなるものを見にいくことに決めました。
それでみんなで一緒にトゥクトゥクに乗って出発したのですが、貧相な顔をしたトゥクトゥクの運転手のオヤジが、運転しながらときどき、後部座席でボーイとチーママの間に挟まれて座っている私を振り返って、わけ知り顔にニヤニヤ笑うので、照れくさかったのを覚えています。
我々を乗せたトゥクトゥクは、チャオプラヤ河を渡り、トンブリ地区に入っていったのですが、30分ほど走って着いたところは大きな高床式の家でした。
家の前庭では、昨晩、髪をアップに結って、黒いドレスに真珠のネックレスというシックな装いでバーのカウンターの中にいたママさんが、
丈の詰まったピッチリしたブラウスにサロンと呼ばれる腰巻の典型的なタイの庶民の女性の格好で米を洗っていて、
そのまわりをニワトリが鳴きながら走り回っているという、とてもバンコクとは思えない鄙びた雰囲気のところでした。
そしてチーママに促されて、家の中に入ってみると、なんとその家には昨晩、バーで出合った36人の男の子が全員いたのです!
男の子たちは田舎から出てきて、この家で共同生活しながら、バーボーイとして働いているとのことでした。
昨晩、店にいたときはみんな、長袖のシャツに長いパンツというこざっぱりした格好をしていたのですが、そのときは全員、上半身裸の短パン姿で、殆どの男の子が身体にイレズミをしていて、ちょっと異様な雰囲気でした。
実は私がホテルに持ち帰ったボーイも胸に大きな虎のイレズミをしていたのですが、当時のタイでは、現在以上にイレズミをする男が多かったような気がします。
みんなニコニコ笑って私を歓迎してくれたのですが、何十人ものイレズミ姿の若い男にいっせいに見られたときは緊張してしまいました。
チーママは私を2階の4畳半くらいの狭い部屋に案内しました。
そこはどうやらママさんの寝室らしく、部屋の殆どを大きなダブルベッドが占領していて、周囲の壁にはママさんのものらしい衣装がいっぱいぶら下がっている所帯じみた雰囲気の部屋でした。
そして、なんとファックショーはその部屋でおこなわれたのです!
ベッドの傍の小さな椅子に腰かけて待っていると、チーママがまだガキといった感じの少年を連れてきて、私の目の前のベッドでセックスをやり始めたのです。
チーママがウケ役をやり、少年がタチ役をやったのですが、少年が裸になったとき、彼がタチ役に選ばれた理由がわかりました。
子供っぽい顔に似合わないデカマラの持ち主だったのです。
チーママは、少年にバックを掘られながら、脚を大きく開いて、結合部が私によく見えるようにして、わざとらしいヨガリ声をあげたりして大熱演でしたが、私は見ていて白けるばかりでした。
なんというか、場所があまりに所帯じみているというか、生活臭が漂う空間で、「ファックショー」を鑑賞するような隠微な雰囲気とはほど遠かったのです。
チーママは「よければ、あなたも参加できる」といいましたが、「冗談じゃない」という感じで、ひたすら早く終わって欲しいという気分でした。
やっと「ファックショー」が終わって、お義理の拍手をして、チーママに50ドル払って、またトゥクトゥクに乗ってホテルに戻ったのですが、
「ファックショー」はつまらなかったものの、36人のゲイバーの男の子が共同生活している珍しい光景を見ることができたので、それを考えると50ドルは惜しいとは思いませんでした。
それから10年ほど経って、またバンコクに行ったときに、トワイライトに立ち寄ったのですが、ママさんもチーママも健在でした。
そのときは女装していたチーママに、
「オレのことを覚えているかい?」
と訊いたら、
「覚えてる」
と答えました。
ホンマかいな!!
しかし、これが本当に覚えていたりするので、タイ人は、なかなか油断できません。
「世界OTOKO紀行」
by jack4africa
| 2008-12-30 03:02