2009年 05月 29日
ブッシュマンと日本人を愛した南アの作家 |
南アフリカ生まれのイギリス国籍の作家、ローレンス・ヴァン・デル・ポスト(1906-1996)(写真左)は、小説家やノンフィクション作家としての活動のほかに、ジャーナリスト、軍人、農場経営者、探検家、ドキュメンタリーフィルムのディレクター、反アパルトヘイト活動家などの多彩な活動歴を持ち、
晩年にはイギリスのチャールス皇太子の「グル」(精神的指導者)としても知られていました。
そんな多才な彼の人生の3つのキーワードは、「ブッシュマン」、「日本人」、「ユング」です。
ローレンス・ヴァン・デル・ポストは、1906年に南アフリカのオレンジ自由州にボーア人の入植者の息子として生まれます。
ボーア人とは、1620年に宗教上の迫害から逃れて南アフリカにやって来てこの地にコロニーを営んだオランダ系の入植者で、「ボーア」はオランダ語で「農耕者」を意味する言葉です。
ボーア人が開拓したケープ・コロニーは、のちに大英帝国に編入されますが、イギリスの支配を嫌ったボーア人は、グレートトレックと呼ばれる沿岸部から内陸部への再入植を行い、トランスヴァール共和国とオレンジ自由国を建国します。
しかし、この2つの国で発見されたダイヤモンドと金の利権をめぐり、イギリスとの間で戦争が起ります。
これが世に名高いボーア戦争で、最終的にイギリス軍に敗れはするものの、このときのボーア人の勇敢な戦いぶりは、今でも語り草になっています。
ただし、南アフリカで悪名高いアパルトヘイト(人種隔離政策)を推し進めたのも、このボーア人の子孫であるアフリカーナです。
ヴァン・デル・ポストは、このボーア人の貴族の家系に生まれるのですが、ブッシュマンの血を引く黒人の乳母に育てられ、乳母の語るブッシュマンの民話を聞きながら成長します。
その結果、白人であるにもかかわらず、ブッシュマンに特別な親近感を抱くようになります。
学校を卒業後、新聞記者になるのですが、偶々、南アフリカに来ていた日本人の新聞記者と知り合った縁で、ケープタウンの港に来航していた日本船「かなだ丸」の船長に紹介され、招待されて日本を訪れることになります。
このかなだ丸の船長、森勝衛との友情は生涯にわたって続くことになるのですが、かなだ丸に乗って日本を訪れたヴァン・デル・ポストはそこで「文明化されたブッシュマン」を発見するのです。
「文明化されたブッシュマン」とは日本人のことで、もちろん褒め言葉です。
発達した文明の下で生活しながら、ブッシュマンと同様、自然を愛し、畏敬する素朴なアニミズムの精神を失っていない日本人と出会って彼は感激し、大の日本ファンになるのです。
彼は約1年間、日本に滞在し、日本語を学ぶのですが、それがのちに彼の命を救うことになります。
第二次大戦が勃発すると、彼は英国陸軍に志願し、1942年にジャワ島で英国陸軍将校としてコマンドを指揮しているところを日本兵に見つかって捕らえられるのですが、
彼を銃で撃とうとする日本兵に向かって日本語で命乞いをして、九死に一生を得るのです。
以前、NHKで放映されたヴァン・デル・ポストの生涯を回顧する番組に出演した彼がそのとき日本兵に向かって叫んだ日本語を披露していましたが、
それは「拙者、怪しいものではござらぬ」みたいな、ひどく時代がかった日本語で、敵の白人兵からいきなりそんな日本語で話しかけられた日本兵はさぞかし面くらったことでしょう。
命を助けられた彼は日本軍の捕虜収容所に入れられて、捕虜として辛酸をなめます。
捕虜収容所で彼は、戦前、日本を訪れたときに出会った親切で礼儀正しい日本人が持つ残虐な一面を目にするのです。
このときの体験に基づいて書かれたのが小説「影の獄にて」で、のちに大島渚監督によって映画化され、「戦場のメリークリスマス」というタイトルで公開されます。
私は小説のイメージが損なわれるのが嫌だったので、この映画は観てないのですが(私は大島渚を映画監督としてまったく評価していません)、
小説は日本人と西洋人という、まったく異なる価値観を持つ2つの人種が戦場という極限状況で対立する悲劇を描きながらも、そのような対立から人種の違いを超えた共感や理解が生まれる様子を描いて感動的です。
日本人を深く愛していたヴァン・デル・ポストは、収容所で酷い目に遭っても、日本人を憎み切れず、捕虜に対して残虐行為を働いた罪で死刑判決を受けた日本兵に対しても同情の心を示すのです。
もっとも、この小説は第二次大戦中の日本兵を好意的に描いたということで、欧米では大変、評判が悪く、彼の著書の中ではほとんど無視されているそうです。
日本軍の無条件降伏とともに捕虜収容所を釈放されたヴァン・デル・ポストは軍務に復帰して、マウントバッテン将軍の幕僚となり、大佐として退役したときには、その軍功によりCBE勲章を授与されます。
戦後、南アフリカに戻ったヴァン・デル・ポストは、農業を営むかたわら、イギリス政府の要請を受けてアフリカ各地を探検し、それをドキュメンタリー映画に記録する仕事をしますが、
1954年から1955年にかけておこなったカラハリ砂漠の探検で、子供の頃からの夢だった、文明に染まっていない、昔ながらの伝統的な狩猟採集生活をおくっているブッシュマンを発見します。
このときの探検を記録した著書「カラハリの失われた世界」は世界的なベストセラーになり、ヴァン・デル・ポストの名を一躍、高めます。
この本には滅びゆく種族、ブッシュマンに対する著者の愛惜の念がよく表れていて、いかに彼がブッシュマンを愛していたかがよくわかります。
その後、彼はスイスのチューリッヒを訪れたときに、夢分析で有名な心理学者のユングと知り合い、肝胆相照らす仲になります。
アメリカ・インディアンの神話に傾倒していたユングとブッシュマンの民話を聞いて育ったヴァン・デル・ポストは、互いの内に自分と共通するものを見出したのでしょう。
ヴァン・デル・ポストの生涯の業績としてもうひとつ忘れてはならないのは、その反アパルトへイト活動家としての実績です。
アパルトヘイト政策を推し進めたボーア人として生まれながら、彼はジャーナリストとしてデビューした若い頃から一貫して南アのアパルトヘイト政策を批判し続け、
晩年、イギリス国籍を取得してイギリスに移住してからも、南アフリカにおける白人と黒人の紛争の調停者として頻繁に南アフリカに招かれて、故国の白人と黒人の融和のために尽力します。
彼の死後、彼に批判的な著者による彼の伝記が出版され、彼の著作には多くの嘘が書かれていることや、14歳の少女と関係して子供を産ませた過去が暴露され、
彼に対するバッシングともいうべき批判がまき起こりますが、それでも彼が書いた小説やノンフィクション作品の価値は変わりませんし、
人種を超えた人間の普遍性を信じ、南アの人種問題解決のために努力した彼の功績まで否定することはできません。
イギリスのチャールス皇太子が彼に心酔した事実からみても、多少の性格的欠陥を補って余りある、魅力的で叡智に溢れた人物であったことはたしかでしょう。
ブッシュマン
参照文献:
影の獄にて、L・ヴァン・デル・ポスト、思索社
カラハリの失われた世界、L・ヴァン・デル・ポスト、筑摩書房
晩年にはイギリスのチャールス皇太子の「グル」(精神的指導者)としても知られていました。
そんな多才な彼の人生の3つのキーワードは、「ブッシュマン」、「日本人」、「ユング」です。
ローレンス・ヴァン・デル・ポストは、1906年に南アフリカのオレンジ自由州にボーア人の入植者の息子として生まれます。
ボーア人とは、1620年に宗教上の迫害から逃れて南アフリカにやって来てこの地にコロニーを営んだオランダ系の入植者で、「ボーア」はオランダ語で「農耕者」を意味する言葉です。
ボーア人が開拓したケープ・コロニーは、のちに大英帝国に編入されますが、イギリスの支配を嫌ったボーア人は、グレートトレックと呼ばれる沿岸部から内陸部への再入植を行い、トランスヴァール共和国とオレンジ自由国を建国します。
しかし、この2つの国で発見されたダイヤモンドと金の利権をめぐり、イギリスとの間で戦争が起ります。
これが世に名高いボーア戦争で、最終的にイギリス軍に敗れはするものの、このときのボーア人の勇敢な戦いぶりは、今でも語り草になっています。
ただし、南アフリカで悪名高いアパルトヘイト(人種隔離政策)を推し進めたのも、このボーア人の子孫であるアフリカーナです。
ヴァン・デル・ポストは、このボーア人の貴族の家系に生まれるのですが、ブッシュマンの血を引く黒人の乳母に育てられ、乳母の語るブッシュマンの民話を聞きながら成長します。
その結果、白人であるにもかかわらず、ブッシュマンに特別な親近感を抱くようになります。
学校を卒業後、新聞記者になるのですが、偶々、南アフリカに来ていた日本人の新聞記者と知り合った縁で、ケープタウンの港に来航していた日本船「かなだ丸」の船長に紹介され、招待されて日本を訪れることになります。
このかなだ丸の船長、森勝衛との友情は生涯にわたって続くことになるのですが、かなだ丸に乗って日本を訪れたヴァン・デル・ポストはそこで「文明化されたブッシュマン」を発見するのです。
「文明化されたブッシュマン」とは日本人のことで、もちろん褒め言葉です。
発達した文明の下で生活しながら、ブッシュマンと同様、自然を愛し、畏敬する素朴なアニミズムの精神を失っていない日本人と出会って彼は感激し、大の日本ファンになるのです。
彼は約1年間、日本に滞在し、日本語を学ぶのですが、それがのちに彼の命を救うことになります。
第二次大戦が勃発すると、彼は英国陸軍に志願し、1942年にジャワ島で英国陸軍将校としてコマンドを指揮しているところを日本兵に見つかって捕らえられるのですが、
彼を銃で撃とうとする日本兵に向かって日本語で命乞いをして、九死に一生を得るのです。
以前、NHKで放映されたヴァン・デル・ポストの生涯を回顧する番組に出演した彼がそのとき日本兵に向かって叫んだ日本語を披露していましたが、
それは「拙者、怪しいものではござらぬ」みたいな、ひどく時代がかった日本語で、敵の白人兵からいきなりそんな日本語で話しかけられた日本兵はさぞかし面くらったことでしょう。
命を助けられた彼は日本軍の捕虜収容所に入れられて、捕虜として辛酸をなめます。
捕虜収容所で彼は、戦前、日本を訪れたときに出会った親切で礼儀正しい日本人が持つ残虐な一面を目にするのです。
このときの体験に基づいて書かれたのが小説「影の獄にて」で、のちに大島渚監督によって映画化され、「戦場のメリークリスマス」というタイトルで公開されます。
私は小説のイメージが損なわれるのが嫌だったので、この映画は観てないのですが(私は大島渚を映画監督としてまったく評価していません)、
小説は日本人と西洋人という、まったく異なる価値観を持つ2つの人種が戦場という極限状況で対立する悲劇を描きながらも、そのような対立から人種の違いを超えた共感や理解が生まれる様子を描いて感動的です。
日本人を深く愛していたヴァン・デル・ポストは、収容所で酷い目に遭っても、日本人を憎み切れず、捕虜に対して残虐行為を働いた罪で死刑判決を受けた日本兵に対しても同情の心を示すのです。
「この困った戦犯裁判がはじまったとき以来、ずっとぼく自身がわが身に尋ねてきたことを、ハラはぼくに尋ねただけのことなんだ。正直のところ、ぼく自身わかっているとは思えない。こんな裁判に何のとりえがあろう。いまハラを、彼の掟でもなく、またハラがかって聞いたことさえない掟の下に弾劾することは、ちょうどハラやハラの上官が、われわれのものでない日本の掟に違反したからといって、罰したり殺したりしたのとまさに同じ悪なんだ・・・」
(「影の獄にて」から、由良君美、戸山太佳夫訳)
もっとも、この小説は第二次大戦中の日本兵を好意的に描いたということで、欧米では大変、評判が悪く、彼の著書の中ではほとんど無視されているそうです。
日本軍の無条件降伏とともに捕虜収容所を釈放されたヴァン・デル・ポストは軍務に復帰して、マウントバッテン将軍の幕僚となり、大佐として退役したときには、その軍功によりCBE勲章を授与されます。
戦後、南アフリカに戻ったヴァン・デル・ポストは、農業を営むかたわら、イギリス政府の要請を受けてアフリカ各地を探検し、それをドキュメンタリー映画に記録する仕事をしますが、
1954年から1955年にかけておこなったカラハリ砂漠の探検で、子供の頃からの夢だった、文明に染まっていない、昔ながらの伝統的な狩猟採集生活をおくっているブッシュマンを発見します。
このときの探検を記録した著書「カラハリの失われた世界」は世界的なベストセラーになり、ヴァン・デル・ポストの名を一躍、高めます。
この本には滅びゆく種族、ブッシュマンに対する著者の愛惜の念がよく表れていて、いかに彼がブッシュマンを愛していたかがよくわかります。
その後、彼はスイスのチューリッヒを訪れたときに、夢分析で有名な心理学者のユングと知り合い、肝胆相照らす仲になります。
アメリカ・インディアンの神話に傾倒していたユングとブッシュマンの民話を聞いて育ったヴァン・デル・ポストは、互いの内に自分と共通するものを見出したのでしょう。
ヴァン・デル・ポストの生涯の業績としてもうひとつ忘れてはならないのは、その反アパルトへイト活動家としての実績です。
アパルトヘイト政策を推し進めたボーア人として生まれながら、彼はジャーナリストとしてデビューした若い頃から一貫して南アのアパルトヘイト政策を批判し続け、
晩年、イギリス国籍を取得してイギリスに移住してからも、南アフリカにおける白人と黒人の紛争の調停者として頻繁に南アフリカに招かれて、故国の白人と黒人の融和のために尽力します。
彼の死後、彼に批判的な著者による彼の伝記が出版され、彼の著作には多くの嘘が書かれていることや、14歳の少女と関係して子供を産ませた過去が暴露され、
彼に対するバッシングともいうべき批判がまき起こりますが、それでも彼が書いた小説やノンフィクション作品の価値は変わりませんし、
人種を超えた人間の普遍性を信じ、南アの人種問題解決のために努力した彼の功績まで否定することはできません。
イギリスのチャールス皇太子が彼に心酔した事実からみても、多少の性格的欠陥を補って余りある、魅力的で叡智に溢れた人物であったことはたしかでしょう。
ブッシュマン
参照文献:
影の獄にて、L・ヴァン・デル・ポスト、思索社
カラハリの失われた世界、L・ヴァン・デル・ポスト、筑摩書房
by jack4africa
| 2009-05-29 00:21
| アフリカの記憶