2009年 06月 26日
白人になった私 |
私の人生で空前絶後、男にも女にもモテまくったのが70年代前半、ケニアに滞在していたときです。
なぜそれほどモテたかというと、私がケニアの黒人が渇望する2つのもの:
まっすぐに伸びた、縮れていない黒髪と、(黒人から見て)白い肌を持っていたからです。
当時、私は軽くパーマをかけた柔らかなウェーブの長髪にしていたのですが、女の子のいるバーに行くと、彼女たちがワーッと私の周りに集ってきて、よってたかって私の髪を触りまくるのです。
なかには頼みもしないのに、ぶっとい歯の櫛を取り出して、髪の毛を梳いてくれる女の子まで出る始末。
彼女たちが、それほどまでにまっすぐな髪に憧れるのは、地毛が縮れていて、その縮れた髪をまっすぐにするために、特殊な薬品を使って伸ばしたり、ウィッグを被ったりといろいろと苦労しているからです。
さらに私は肌の色が白かったので、これもモテる原因になりました。
マイケル・ジャクソンじゃないけど、黒くて真っ直ぐな髪と白い肌は黒人にとって永遠の憧れなのです。
当時、ケニアではなぜか日本人は白人扱いされてました。
ケニアの公用語であるスワヒリ語で白人のことを「ムズング」というのですが、
ケニアに多数、居住しているインド人やアラブ人はアジア人を意味する「エイジアン」と呼ばれていたのに対し、日本人はムズングと呼ばれていたのです。
スワヒリ語は、ケニアやタンザニア、ウガンダなど東アフリカ一帯で広く話されている言葉ですが、
元々はアラビア半島と東アフリカのインド洋沿岸を結ぶ交易のために使われていたアラビア語とアフリカの土着の言語がミックスしてできた言葉です。
東アフリカのインド洋沿岸とアラビア半島は、古来からダウと呼ばれる小型の帆舟を使った交易が活発におこなわれ、
モンバサやマリンジ、ラム島、ザンジバル島などインド洋沿岸の港町はこれらの交易によって栄えました。
ザンジバル島は一時期、東アフリカとアラビア半島を結ぶ交易の主要な担い手であったアラビア半島の首長国、オマーンの領土となり、オマーンから派遣されたサルタンが統治していました。
その結果、アフリカのインド洋沿岸には多くのアラブ人が住みつき、彼らと土着の黒人が混血して生まれたのが現在、ケニアの東海岸に住むスワヒリ族で、スワヒリ語を最初に使いはじめたのがこの部族です。
アラブと黒人の混血であるスワヒリ族は、アラブ風の端正な顔立ちにチョコレート色の肌、プリプリした尻を持つセクシーな男が多いのですが、ホモセックスを好むことでも知られています。
アフリカの黒人に男色を教えたのはアラブ人だといわれるほど、アラブ人の男色趣味は有名ですが、
そのアラブ人との混血であるスワヒリ族も当然、アラブ人の男色趣味を受け継いでいて、彼らの間ではホモセックスはごく普通におこなわれているのです。
ケニアにいたとき、インド洋沿岸のラム島に近いスワヒリ族の小さな村にしばらく滞在したことがあります。
スワヒリ族はイスラム教徒なので、女性はあまり外出せず、外出するときも、アフリカの黒人女性にはめずらしく黒いベールで身体をすっぽりと覆って出かけます。
そのため、その村で女性たちの姿を目にすることは少なく、ナイロビにいたときみたいに女性にモテることはなかったのですが、逆にこの村では男にモテまくりました。
私が滞在していた村は、同じケニアのインド洋沿岸でも、モンバサやマリンジのような欧米人に人気のリゾート地とは異なり、外国人なんか絶対に訪れないような小さい村で、当然、ホテルもありませんでした。
それで村のはずれの椰子畑にテントを張って寝起きしていたのですが、水汲みやら料理の煮炊きなど身のまわりの雑用をさせるために、村の若い男を一人、キャンプボーイとして雇いました。
その男をキャンプボーイに雇ったのは、彼が片言の英語を話せたためですが、年齢は22歳、結婚していて女の子が1人いるとのことでした。
彼は夜は、私と同じテントに並べて置いた折りたたみ式の簡易ベッドで寝ていたのですが、最初の夜、ベッドに腰掛けた私が寝袋に入るためにシャツを脱いで上半身裸になったとき、彼の目の色が変わりました。
彼はそのとき、反対側のベッドにトランクス一枚の裸で横たわっていたのですが、見るとトランクスの前が高々とテントを張っています。
私の白い肌が彼を興奮させてしまったのです!
おもわず「デカイねぇ!」と感心すると、彼は嬉しそうに自分からパンツを脱ぎ、高々と聳える巨根を私に見せつけ、それをしごいて挑発してみせたのでした。
ということで早くも最初の夜に彼とデキてしまったのですが、彼が村に帰って私とヤッたことを吹聴してまわったお陰で、
その後、食料品の買出しなどで村に出かけるたびに、村中の少年(約20人!)が集ってきて、私の後をぞろぞろとついてまわるのには閉口しました。
みんなムズング(白人)である私とヤリたがったのです!
少年たちのリーダー格であるアラブ系の少年に、
「ボクはまだムズングとヤッたことは一度もない。この村にあなたみたいなムズングが来ることはめったにないから是非、やらせて欲しい」
と熱心に口説かれたときには複雑な気分でしたね。
いくらムズングと呼ばれても、自分では白人だなんて思えなかったし、客観的にみて、褐色の肌をした彼の方が私なんかよりずっとセクシーで魅力的でしたから。
ケニアで白人になって判ったのは、白人たちは常日頃、白人であるという理由だけで、いかにいい思いをしているかということでした。
お陰で、私の白人嫌いにはますます拍車がかかったのでした(笑)
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by jack4africa
| 2009-06-26 00:35