2010年 05月 18日
釜ヶ崎の語源 |
大阪の釜ヶ崎は、労務者の町として知られていますが、釜ヶ崎の地名は「おかま」から来たという説があります。
釜ヶ崎では、昼間だけでなく、夜、働いている人間が多く、地区に一軒だけある銭湯の朝風呂は、住民にとって大変、貴重な存在になっていたといいます。
早朝5時にオープンする銭湯の前には、夜勤明けの労務者やバクチ帰りのヤクザ、仕事を終わったバーテン、ホステス、ホスト、売春婦、おかま、等、種々雑多な人々が行列していて、
大男の労務者や、彫りものをのぞかしたヤクザのお兄さんたちにまじって、やさしいおかまたちもシナを作って待っているのですが、
5時前にノレンが出ると、列を乱してわれ先にどっと押し入るので、おかまは列の外に飛ばされてしまいます。
それを番台のオヤジが見て、
「オイ!ナニサラス、可愛そうにおかまを先に入れてやれ!かまがさきや!」
と怒鳴ったのが釜ヶ崎の語源だというのです。
ホンマかいな?(笑)
その真偽はともかくとして、この話からもうかがえるように、釜ヶ崎がゲイフレンドリーならぬ、おかまに優しい町であったことは間違いないようです。
民俗学者の赤松啓介によると、釜ヶ崎には戦前から多くのおかまが住みつき、おかまの夫婦も沢山、いたそうです(「戦前の男色」を参照)。
おかまの夫婦というのは、よくわからないのですが、女装の男娼とそのヒモみたいなカップルを指すみたいです。
赤松は、その著書で、戦前の釜ヶ崎に巣喰っていたおかまについて、何箇所か触れているのですが、残念ながら、彼は女好きで、男には関心を持たない人だったので、おかまに関する記述は断片的です。
戦前から戦後にかけてのこの地区のおかまの生態を詳しく記述した資料があれば、是非、読みたいと思っているのですが、これまで見つかっていません。
いくつかの断片的な資料を読んでわかったことは、釜ヶ崎のおかまというのは、大半が女装の男性で、釜ヶ崎の労務者相手に身体を売って生活していたということです。
男娼になった理由は様々で、元々、女装趣味があって、女装で生活しても変な目で見られない釜ヶ崎にやってきて、趣味と実益を兼ねて男娼になった人間や、
赤松の著書に描かれているように、小柄で色白の若い男がヤクザに目を付けられて男娼に仕立てあげられたり、
仕事にあぶれて困窮した労務者が女装して身体を売り始めるようになったケースなどがあったそうです。
釜ヶ崎の隣には戦前から続いている遊郭の飛田新地があって、ここには若い娼婦が沢山いて、男娼の出番などなかったのではないかと思い勝ちですが、
飛田新地の娼婦は料金が高く、一般の労務者にとっては高嶺の花で、それで安い料金の男娼を相手にして我慢していたのだそうです。
また少数ながら、女性よりも女装の男性を好む男たちもいて、彼らも釜ヶ崎の男娼の客になっていたといいます。
釜ヶ崎では1960年代までは、このような男娼として働く女装のおかまの姿がよく見られたそうですが、釜ヶ崎の労務者の高齢化に伴って男娼も減少し、徐々に姿を消していきます。
しかし、完全に絶滅したわけではなく、現在でも、釜ヶ崎の近くの新世界のハッテン映画館などには、女装のおかまが集っているそうです。
二年ほど前に新世界に遊びにいって、この映画館の前を通りかかったとき、マツコ・デラックスみたいな逞しい女装が映画館に入っていくのを目撃したことがあります。
新世界にはこのハッテン映画館のほかにゲイサウナも何軒かあり、さらに釜ヶ崎寄りには「妖精の館」と異名をとるヤリ部屋もあって、この地域の「伝統」がうかがえます。
ところで、この釜ヶ崎という地名、現在では行政的には使用されておらず、かって釜ヶ崎があったところは「愛隣地区」と呼ばれているそうです。
釜ヶ崎から愛隣地区に名称が変わったのは1966年のことで、その理由は、釜ヶ崎という言葉が差別的であると役人が考えたからだそうです。
しかし、当の住人たちは釜ヶ崎という名称に愛着があって、この名称の変更が発表されると、釜ヶ崎地区のあちこちに、
「土地の名は、愛する隣りと変れども、腹をみたすにゃ釜が崎(先)なり」
という落首が何十枚も貼られたといいます。
私自身、釜ヶ崎という言葉が特別、差別的だと思いませんし、たとえ、差別的なニュアンスを含んでいたとしても、長い歴史を持つ地名をそう簡単に変更すべきだとは思いません。
むしろ、「愛隣地区」といういかにもな名称の方によほど差別的で偽善の匂いを感じます。
釜ヶ崎という地名は、ここが東京の上野とともに日本のおかま文化の発祥の地であることを記憶にとどめており、役人がなんといおうが、この地名はこれからも使い続けていくべきだと思いますネ。
参照文献:アンコ考研究ノート -愛隣地区を中心として-
釋 智徳 (奈良保育学院研究紀要・1983年1月)
***********************************************
上記の記事をアップしてから、西成のオカマについて知っている老人から昔、話を聞いたことがあるという方からメールをいただきました。
私は「オカマの夫婦」というのは、女装の男娼とそのヒモ的なノンケの男性のカップルのことではないかと想像していたのですが、その方によると、必ずしもそのようなカップルだけではなく、フツーのホモ同士のカップルもいたそうです。
フツーのホモ同士のカップルは「男夫婦」と呼ばれていたそうですが、彼らは戦中までは、新世界や飛田の近くにけっこう住んでいて、堅気の会社に勤めたりしていたそうです。
そういう男同士のカップルが周囲に溶け込んで生活していたということは、ある意味、現在のゲイリブが理想とする社会が戦前の日本に存在していたということになりますが、
昔の男夫婦は現在のゲイリブとは異なり、自分たちの関係を特別、吹聴するようなこともなく、周囲も分かっていても知らん顔をしていたそうです。
また現在とは異なり、こういう男同士のカップルが養子を取ることも簡単で、拾い子をもらって実子として届けたり、親戚の子供を養子にもらったりしていたそうです。
昔は貧乏人の子沢山が多く、子供を養子に出すことは格好の口減らしになることから、養子を出す側の親は喜んで子供を養子に出したといいます。
大阪は、戦前は東京を凌ぐ大都会で、朝鮮半島や沖縄を含む、日本各地から大量の労働者が流入し、様々な出自の人間が混住していたことから、
互いの過去を穿鑿せず、プライバシーに干渉しないという都市型のライフスタイルがすでに確立されていて、
そのおかげで、男同士のカップルも周囲の目を気にせずに生きていけたのではないかと想像されますが、
同時に戦前の日本には、男色が盛んだった幕末時代を記憶している人間がまだ残っていて、現在のように同性愛が特別視されることがなかったという事情もあったようです。
メールをくださった方は、明治20年代生まれの茶道や華道の先生をしていた女性と知り合いだったそうですが、その女性は、
「男色の人は、士族やお金持ちに昔は結構いはったんです。美男子を側に置いたり時に養子にしたりする人もおりました。昔はそんなことは、そう珍しいこともありません」
と語っていたそうです。
「昔の日本人」の目次に戻る
by jack4africa
| 2010-05-18 01:21
| ホモ・ゲイ・オカマ