2011年 12月 23日
高峰秀子‐国民的女優‐(1924~2010) |
高峰秀子(1924 – 2010)は、北海道、函館生まれ、赤ん坊のときに生母が死亡、父の妹の養女になり、養父母とともに上京。
5歳のときに養父に撮影所に連れて行かれたのがきっかけで子役としてデビューします。
天才子役と謳われ、数々の作品に出演、子役は大成しないというジンクスを破って、少女になってもアイドルとして人気を維持し、
娘役を演じていた戦争中は多くの兵士が彼女のブロマイドを胸に出征していったといいます。
戦後、女優として油の乗り切った時代には数多くの名作に出演し、娘役から成熟した中年女、さらには老け役まで演じ分け、1979年に55歳で引退するまで、日本映画の第一線に君臨し続けました。
彼女の凄いところは、ストリッパーを演じても、学校の先生を演じても、バーのマダムを演じても、軍人の妻を演じても、役そのものになりきってしまうことです。
実際には演技をしているのでしょうが、演技をしているようには全然、見えないのです。
このへんの才能は天性のもので、女優になるべくして生まれてきた人だと思いますね。
彼女の代表作を1本、挙げるとすると、やはり木下恵介監督の「二十四の瞳」(1954)になるでしょう。
小豆島を舞台にしたこの作品で大石先生を演じたことで、彼女は国民的女優になったと思います。
木下恵介は有名なホモで、日常生活でもオネエ言葉を話していたそうですが、彼女の自伝エッセイ「わたしの渡世日記」によると、
あるとき、一緒に飲んでいて、酔っぱらった木下恵介が彼女の肩をピシャンと叩いて、
「ンまァ、この男ったら….」
と叫んだことがあるそうです。
「彼は私を男として見ていた」と書いていますが、サバサバした男っぽい気性の持ち主だったみたいです。
そんな男っぽい性格の彼女が、女性映画の名匠、成瀬巳喜男の作品では、女の情念を見事に表現してるんですよね。
「浮雲」(1955)ではいくら男に冷たくされても諦めきれず、しつこく男にまとわりついていく業の深い女を演じていますが、
この作品に出演するとき、木下恵介の助監督だった松山善三との結婚が決まっていて、これを最後に女優を引退するつもりだったそうで、特に力を入れて演技したといいます。
そのお蔭もあって、この作品は数々の賞を受賞し、「二十四の瞳」と並ぶ彼女の代表作になっています。
「女が階段を上がる時」(1960)では銀座のバーのマダムを演じていて、当然のことながらとても色っぽいです。
この作品では彼女自身がデザインしたという斬新な縞柄の着物をとっかえひっかえ着て出てきて、彼女の着物姿を見ているだけでも楽しめます。
「乱れる」(1964)では酒屋のおかみさんの役なんですが、やっぱり色っぽいんですよねぇ。
義弟の加山雄三に向かって「私だって女よ」というシーンがあるのですが、「そんなこといちいちいわんかてわかってまんがな」と言いたいほど、女盛りの色気がにじみ出ていて…
彼女は木下恵介監督の作品と成瀬巳喜男監督の作品に一番多く出演しているのですが、木下恵介の作品では明るくきさくで庶民的な役が多いのに反して、
成瀬巳喜男の作品では、女がとぐろを巻いているような役が多く、画面から女の体臭が匂ってきそうで、女嫌いの私としては辟易させられることが多いです。
というわけで個人的には、女をあまり露出していない稲垣浩監督「無法松の一生」(1958)の吉岡夫人なんかが好きです。
小倉弁の楚々とした未亡人の彼女に松五郎が惚れ込む気持ちがよくわかります。
彼女は子役として大変な人気だったそうですが、彼女の稼ぎを当てにして、一族郎党十数人が集まってきて、子供である彼女にたかって生活していたそうで、お蔭で学校にはロクすっぽ通うことができなかったそうです。
この「無学コンプレックス」は彼女に一生、つきまとったそうですが、あるとき、
「学校に行かなくても人生の勉強はできる。私の周りには、善いもの悪いもの、美しいもの醜いもの、何から何まで揃っている。そのすべてが、今日から私の教科書だ」
と悟ったといいます。
実際、彼女は学校には行けなかったかもしれないけれど、子供のときから一流の映画監督や俳優と一緒に仕事をしてきたわけで、ある意味、凄い英才教育を受けて育ったといえなくもありません。
また映画で琴を弾くシーンがあると、いきなり琴の奏者の第一人者である宮城道雄のところに連れて行かれたり、
日本舞踊を踊るシーンがあると舞踊家の武原はんが直接、手ほどきしてくれるなど、映画関連の習い事では、超一流の先生の教えを受けています。
さらに「ジジイ殺し」の異名をとるほど多くの文化人に可愛がられ、谷崎純一郎や志賀直哉、梅原龍三郎などの一流の文化人と交際することで、多くのものを吸収しています。
学校には行けなかったけれど、子供のときから本を読むのは好きだったそうで、文才もあり、55歳で映画女優を引退して、憧れの「フツーの生活」を始めてからはエッセイストとして多くのエッセイ本を出版しています。
なかでも前記の自伝エッセイ「わたしの渡世日記」は、助監督時代の黒澤明との初恋のエピソードなど、日本映画の裏面史としてみても非常に面白い読み物になっています。
二十四の瞳(1954)
浮雲(1955)
女が階段を上がる時(1960)
乱れる(1964)
無法松の一生(1958)
by jack4africa
| 2011-12-23 00:36
| 思い出の女優たち