2012年 03月 13日
森鴎外「ヰタ・セクスアリス」 |
森 鷗外(1862 – 1922)は、夏目漱石と並ぶ明治の文豪として知られていますが、本職は軍医で、軍医総監まで出世したエリートでした。
1909年に発表した自伝的小説「ヰタ・セクスアリス」(ラテン語で「性生活」の意)では、自身の幼年時代からの性体験について率直に語っています。
本人は青少年向けの啓蒙の書として書いたつもりだったみたいですが、卑猥な小説とみられ、掲載した雑誌は発禁処分になったそうです。
今、読むと十分に抑制された文章で、卑猥な箇所などまったくないのですが、当時は、性的な事柄をテーマにしただけでも発禁になったみたいです。
鴎外は、1862年(文久2年)、島根県の代々藩主の御典医をつとめる家に生まれます。
郷里で過ごした幼年時代の性にまつわる思い出としては、近所の家に遊びに行ってそこのおばさんに春画を見せられたとか、近所の女の子とお医者さんごっこをして遊んだとか他愛のないものですが、
1872年(明治5年)、10歳のときに父と共に上京し、ドイツ語を教える私立学校に入学、そこで初めて性の洗礼を受けます。
ただし、相手は女ではなく、男でした。
当時、東京の学生の間では男色が流行していて、少年の鴎外は上級生から性の対象として見られ、誘惑されるのです。
鴎外は下宿して学校に通っていたのですが、この学校には寄宿舎があって、その寄宿舎に住む上級生に遊びに来いと誘われます。
最初の二、三回は、菓子や羊羹などをご馳走してくれるだけだったのが、そのうち、手を握ったり、頬擦りしてくるようになり、ある日のこと、部屋に行ってみたら、布団が敷いてあり、一緒に寝ようと口説いてきます。
嫌だといって抵抗していると、隣の部屋の学生が入ってきて、「応援してやる」といい、鴎外少年の頭から布団をかぶせ、押さえつけようとするので、どたばた暴れていたら、
騒ぎを聞きつけたほかの学生たちが集まってきて止めに入ったので、隙をみて跳ね起きて、ようやく逃げ出すことができた語っています。
週末、父の家に行って、事の顛末を話すと、びっくりするかと思いきや、
「そういう奴がいるから、気をつけなければいかん」
といわれただけで、拍子抜けしてしまったそうです。
実際、この頃には、このようなことは日常茶飯事で起きていたようです。
稲垣足穂著「南方熊楠稚児談義」に、ある学生が東京の薩摩出身の学生が多く住む学生寮に友人を訪ねていったとき、友人が、
「芋をご馳走しようか、少年をご馳走しようか」
と訊くので、「少年を」と望むと、一人の幼年生を連れて来て、布団をかぶせて「さあ」と勧めるので、ご馳走になって帰ってきたという話が出てきます。
当時の学生には少年好きの硬派の学生と女好きの軟派の学生がいたと鴎外は語っています。
硬派の学生は主として九州出身の学生で、残りの九州以外の地方の学生はすべて軟派で、数からいうと軟派の学生の方が優勢だったそうですが、
学生の本分は硬派にあるとみなす風潮があって、軟派の学生は多少、後ろめたい気持ちを抱いていたといいます。
たとえば、硬派の学生の服装は紺足袋に小倉袴で、軟派の学生も一応、硬派の真似をして同じ服装でいるものの、硬派の学生のように腕をまくったり、肩を怒らせたりすることは少なく、休日になるとそっと白足袋を履き、絹物を着て、遊郭に行ったりしていたそうです。
また軟派の学生の読む本は春本であったのに対して、硬派の学生は春本など見向きもせず、平田三五郎という美少年について書かれた「賤(しず)のおだまき」という本を愛読していたといいます。
平田三五郎というのは、慶長4年(1599年)、15歳のときに、薩摩藩主である島津氏に対して重臣の伊集院忠真が起こした内乱である庄内の乱を鎮圧するために、
義兄弟の契りを結んだ吉田大蔵という武士と共に出陣し、吉田が戦死したあと、みずからもその後を追うように壮烈な戦死を遂げたという薩摩藩に実在した美少年で、
鹿児島の塾ではこの三五郎と大蔵の愛と友情の物語である「賤のおだまき」を毎年元旦に読むしきたりになっていたそうです。
薩摩隼人を祖父に持つ随筆家の白洲正子は、その著書「両性具有の美」の中で、この本は薩摩の人々にとっては道徳の書とみなされていたのではないかと推測しています。
男同士の男色について書いた本が道徳の教科書としてみなされるというのは、BLコミックが規制の対象になっている現代では考えられないことですが、
白洲正子によると、薩摩の武士の間では「菊花の契り」を結ばないような男は一人前の人間として扱われなかったそうで、三五郎と大蔵は、武士の子弟が手本とすべき理想の衆道カップルとして称賛されていたというのです。
この薩摩の武士の子弟の愛読書であった「賤のおだまき」が東京の硬派の学生たちの愛読書になっていたという事実は、
薩摩の男色の習慣が明治維新と共に東京に伝わって、学生の間で流行するようになったという俗説を裏書きしているように思われます。
生粋の江戸っ子である小説家の谷崎潤一郎は、今東光の小説「十二階崩壊」で今東光に向かって、
「ありゃね。薩長の田舎っぺ武士が江戸を征服した結果、薩摩藩の芋侍がもたらした薩藩の風俗だよ。平田三五郎という美少年を讃える馬鹿な唄など流行らせたのも彼奴等だよ」
と語っていますが、そのお蔭で、東京では多くの少年が尻を狙われるようになったのです。
その後、鴎外はドイツ語の勉強を辞めて、英語の勉強をするために東京英語学校に入学し、寄宿舎生活を始めます。
鴎外にとって幸いなことに寄宿舎の同室の先輩の学生は硬派ではなく軟派でした。
先輩の学生は外出するとき、
「おれがおらんと、また穴(けつ)を覗う馬鹿もの共が来るから、用心しておれ」
といって出かけたそうですが、鴎外はいわれなくとも用心していて、寄宿舎が長屋造りで、両側に出口があることを確認し、敵が右から来れば左に逃げ、左から来れば右に逃げることに決めていたそうです。
それでも心配なので、父の家にあった短刀を持ちだしてきて、常に懐に隠し持っていたといいます。
さすが武士の息子といったところですが、それだけ危険を身近に感じていたのでしょう。
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by jack4africa
| 2012-03-13 00:01