2012年 03月 16日
田中絹代 - 女優の鑑 - (1909~1977) |
1909年(明治42年)生まれの女優、田中絹代の全盛期の作品をリアルタイムで観るには、私は遅く生まれ過ぎました。
私が物心ついたとき、すでに彼女はお婆さんだったのです。
私が初めてみた田中絹代の作品は、彼女が65歳のときの作品で、元からゆきさんだった老女を演じた「サンダカン八番娼館 望郷」(1974)でしたが、それほど印象に残りませんでした。
次にみたのは、パリのシネマテークで上映された溝口健二監督の「西鶴一代女」(1952)です。
この作品を撮ったとき、彼女は43歳で、20歳の娘から65歳の老婆までの女の一生を演じているのですが、43歳の彼女が20歳の娘を演るのはやっぱり無理があって、それほど感情移入できませんでした。
彼女に初めて関心をもったのは、数年前に溝口健二の作品が20本ほどまとめてYoutubeに投稿されたのをみてからです。
その多くは溝口健二のお気に入りだった田中絹代の主演作だったのですが、どんな役でも体当たりでぶつかっていくその女優根性というか、気迫に打たれ、やっと彼女の凄さがわかってきたのです。
それから「マダムと女房」(1931)、「お琴と佐助」(1935)、「愛染かつら」(1938)、「陸軍」(1944)などの彼女の初期の作品のDVDを買ってみたのですが、
彼女の晩年の作品からみはじめて、娘時代の作品へと時代を遡ってみたわけで、一人の女優の年齢による変化をみることができて面白かったです。
田中絹代は前述したように1909年(明治42年)に山口県下関に生まれます。
生家は裕福な商家だったそうですが、絹代が3歳のときに父が死亡、一家は零落し、大阪にいる伯父を頼って上京します。
大阪で絹代は琵琶を習い始めるのですが、10歳のとき、琵琶の師匠が始めた琵琶少女歌劇団に加わります。
琵琶少女歌劇団というのは、琵琶を伴奏に少女たちが劇を演じるというもので、当時、大阪で人気があったそうですが、絹代は12歳ですでにこの歌劇団のスターになり、一家を養っていたそうです。
当然のことながら、小学校にはほとんど通えなかったそうですが、学校の成績は常に一番だったといいます。
その後、当時の松竹の大スターだった粟島すみ子の映画を観て映画女優に憧れ、松竹大阪支社の給仕をしていたすぐ上の兄の紹介で、松竹下賀茂撮影所に入って大部屋女優になります。
彼女が15歳のときでした。
彼女は小柄で特別、美人でもなかったのですが、後に短期間、結婚することになる清水宏や五所平之助などの若手監督に気に入られ、彼らの作品に出演することで純情可憐な娘役としてめきめき頭角を現します。
彼女は大人しそうな外見に似合わず、人一倍、負けん気の強い性格で、大変な努力家だったそうで、並み居る先輩女優を追い越してどんどん出世していったそうです。
彼女とよく共演していた松竹の女優、吉川満子はテレビのインタビューに答えて、
「田中さんというのは本当に凄い人でねぇ。あんな人が出てきた日にゃ、あたし達はどうしようもありませんヨ」
と述懐しています。
1931年には、日本映画初の本格的トーキー作品「マダムと女房」に主演します。
彼女は下関訛りを気にしてトーキー作品に出るのを嫌がったそうですが、映画を封切ってみると、彼女の独特の話し方が好評で、返って人気が高まったそうです。
DVDをみる限り、訛りはあんまり感じられないし、独特の鼻にかかった甘えた声が色っぽくて、男性の観客を魅了したのがよくわかります。
その後、1935年には谷崎潤一郎原作「春琴抄」を映画化した「お琴と佐助」で驕慢な性格の盲目の琴の名手、春琴を演じ、後年の演技派女優の片鱗をのぞかせます。
そして1938年に往年の二枚目スター、上原謙と共演したメロドラマ「愛染かつら」が空前の大ヒットとなり、彼女が劇中で歌った主題歌「旅の夜風」も大ヒットします。
この頃の彼女は、押しも押されぬ松竹のトップ女優になっていて、鎌倉に「絹代御殿」と呼ばれる豪邸を建てて住んでいたそうです。
戦時中は、日本映画界は軍部に協力して国策戦争映画ばかり作っていたので、女優の出番はあまりなかったのですが、その中で特筆すべきは、木下恵介監督の「陸軍」(1944)でしょう。
この作品は陸軍省の後援で戦意発揚のために製作された国策映画なのですが、出来上がってみたら反戦映画になっていたというトンデモナイ作品で、田中絹代は出征兵士の母親を演じています。
「息子の命は天子様にお預けしました」と軍国の母を気丈に演じていた出征兵士の母親が愈々、息子が出征する日になって、見送りに行くと泣いてしまうからといって、家に引きこもっているのですが、
軍楽隊のラッパの音が聞こえてくると、いてもたってもいられなくなって、家を飛び出します。
そして小走りに出征兵士の隊列が行進している大通りに向かいます。
大通りの沿道は、日の丸の小旗を振る見送りの群衆で埋め尽くされています。
その群衆をかき分けながら必死で息子の姿を探す母親。
やっと息子の姿を見つけて、息子に目で合図を送る母親。
母親に気がついて、笑顔を見せる息子。
涙を拭きながら、それでも一生けん命、笑いかける母親。
隊列の歩調に合わせて小走りに走っていく途中、群衆の一人にぶつかって転んでしまう母親。
去って行く息子の後ろから手を合わせて祈る母親。
母親はもちろん息子の無事の生還を祈っているのです。
この10分近い殆どセリフのないラストシーンで田中絹代は監督の意を汲んで、軍国の母のタテマエに隠されたホンネを見事に表現したのです。
この作品は当然のことながら陸軍の不興を買ったそうですが、なぜかラストシーンはカットされずにそのまま上映されたそうです。
映画「陸軍」ラストシーン
http://www.youtube.com/watch?v=ywcDZp1hI2U
映画の検閲については、戦時中の軍の検閲よりも戦後のGHQの検閲の方が厳しかったといいます。
戦後まもなく、日本がまだ米軍占領下にあった1949年、田中絹代は「日米親善芸術使節」としてハリウッドを訪問します。
このアメリカ行きが彼女の経歴の汚点になるとは、本人も含めてだれも考えていなかったでしょう。
アメリカから帰国した彼女を出迎えた人々はそのいでたちをみて唖然となります。
和服姿で「行ってまいります」といって出かけた彼女が、緑色のサングラスに毛皮のコート、真っ赤な口紅といった格好で飛行機を降りてきて、第一声が「ハロー」。
その後、銀座通りをオープンカーでパレード、周囲に投げキッスを振りまく彼女についたあだ名が「アメション女優」(「アメリカにションベンしに行っただけの女優」の意)。
そのあまりのアメリカかぶれがマスコミによって袋叩きにあったのです。
子役時代から田中絹代と共演し、私生活でも親交があった女優、高峰秀子によると、このとき田中絹代は40歳、娘役で売ってきた彼女も目尻に小じわが目立つようになり、イメチェンを考えていたのではないかといいます。
そのイメチェンは完全に裏目に出たのですが、それにしても彼女に対するマスコミのバッシングは凄まじかったといいます。
おそらく、日本人の多くは、戦時中は「鬼畜米英」を叫んでおきながら、戦争に負けた途端、アメリカ一辺倒になり、
「これからは民主主義の時代だ」などと言い始めた自分たちの節操の無さ、変わり身の早さを彼女の中にみて、近親憎悪的に彼女を憎んだのではないかと思われます。
このマスコミのバッシングのお蔭で、ファンレターは一通も来なくなり、彼女は自宅のある鎌倉山の崖の上から飛び降り自殺しようかと本気で考えたそうです。
窮地に陥った彼女に救いの手を差し伸べたのが彼女を女優として高く評価していた名監督、溝口健二です。
溝口は田中絹代を主役に抜擢した「西鶴一代女」(1952)、雨月物語(1953)、「山椒大夫」(1954)で、3年連続してベネチア映画祭で受賞するという快挙を成し遂げ、彼女も女優として復活します。
溝口は、田中絹代のことを女優としてだけでなく、一人の女性としても惚れ込んでいたそうですが、彼女の方は溝口を監督としては尊敬していたけれど、男性としてはそれほど魅力を感じなかったと語っています。
いずれにせよ、清水宏監督との短期間に終わった結婚以来、彼女は「私は映画と結婚した」と広言していて、病気の兄の看病もあって、だれとも結婚する気はなかったようです。
溝口との関係は、彼女が映画の監督をやりたがり、溝口がそれに反対したことがきっかけで破たんしてしまいます。
その後、彼女は女優出身の女流監督第1号(第2号は左幸子)として「お吟さま」(1962)など6本の作品を監督します。
女優としては、「流れる」(1956)、「異母兄弟」(1957)、「彼岸花」(1958)などで印象深い演技を披露していますが、彼女の女優人生の集大成となった作品は、木下恵介監督の「楢山節考」(1958)だと思います。
深沢七郎の名作を映画化したこの作品で、田中絹代は主人公のおりん婆さんを演じているのですが、
70歳になってもまだ丈夫な歯を持っていることを恥じたおりん婆さんが前歯を石うすに打ち付けて歯を砕き、歯が欠けた血だらけの口を開けて笑うシーンには鬼気迫るものがあります。
このとき田中絹代はまだ48歳。彼女がアメリカから帰国後に出演した同じ木下恵介監督の「婚約指輪」(1950)を観たマスコミがこの作品の彼女を「老醜」と貶したのですが、
彼女は、その言葉を逆手に取って、この作品で70歳の老婆を演じてみせたのです。
「よく見ておおき、これが本物の老醜というんだよ」
という彼女の啖呵が聞こえるようです。
その後、65歳のときに出演した「サンダカン八番娼館 望郷」)1974)では、元からゆきさんの老婆を演じ、ベルリン映画祭の最優秀女優賞を受賞します。
1977年、67歳のときに脳腫瘍が見つかって入院しますが、見舞いに訪れた知人に、
「寝たきりでも演じられる役があるだろうか」
と訊いたそうです。
最後まで女優一筋に生きた、女優の鑑ともいえる一生でした。
「マダムと女房」(1931)
「伊豆の踊子」(1933)
「愛染かつら」(1938)
「陸軍」(1944)
「西鶴一代女」(1952)
「山椒大夫」(1954)
「楢山節考」(1958)
「サンダカン8番娼館 望郷」(1974)
by jack4africa
| 2012-03-16 00:04
| 思い出の女優たち