2012年 07月 24日
山田五十鈴‐芸に捧げた人生‐(1917~2012) |
娘に芸事を仕込むのに熱心だった母は、この日から芸事を習い始めると上達するといわれている数え年6歳の6月6日から娘に常磐津、長唄、清元、踊りなどを習わせます。
特に清元を熱心に習い、数え年11歳のときには名取りになって、オトナの弟子を取って教えはじめ、役者として落ち目になった父の替わりに一家を支えたといいます。
数え年13歳、満12歳で日活に入社。背が高くて、実際の年齢よりも大人びて見えたので、娘役としてデビューしたそうですが、
デビュー作の「剣を越えて」(1930)で、いきなり主役の大河内伝次郎相手にラブシーンをやらされて恥ずかしい思いをしたそうです。
しかし、すぐに撮影所の水に馴染み、14、5歳の頃には酒も煙草もフツーにやっていて、夜ごとダンスホールに行って朝まで踊り明かす毎日だったといいます。
随分と早熟ですが、この頃、すでに自分と両親の親子3人の生活費は彼女が稼いでいたそうで、そういう意味では十分にオトナだったといえます。
最初の結婚は17歳のとき、「建設の人々」(1934)で共演した俳優の月田一郎が相手でした。
この結婚には両親も会社も猛反対だったそうですが、彼女がすでに月田の子供を身ごもっていたことが判明して、渋々、承知したといいます。
いまでいうデキ婚ですね。
翌年、娘(後の女優、嵯峨美智子)を出産。
夫の月田一郎は五十鈴が女優を辞めて家庭に入ることを望み、彼女もそのつもりで、これが最後の作品と決めた溝口健二監督の「浪華悲歌」(1936)に出演するのですが、皮肉にもこの作品で女優開眼してしまいます。
この作品で彼女は父や兄を救うために美人局をしてしまう若い娘を演じたのですが、美人局がばれて警察に逮捕され、家族からも見放された彼女がラストで道頓堀川にかかる橋の上で欄干にもたれて川の水を眺めているときに、
知り合いの男に「こんなとこでなにしてるんや」と声をかけられて、「野良犬や、どないしてええかわからへんのや」と自嘲気味に答えるシーンは、
それまで日本映画が描いてきた男に騙されて泣くしか能のない哀れな女性とは明らかに異なる、気の強い反抗的な女性として描かれていて、この時代としてはかなり新鮮に映ったものと思われます。
この作品に続いて、同じ年、また溝口健二監督の作品「祇園の姉妹」(1936)に出演するのですが、この作品でも男を手玉に取ろうとして逆にこっぴどく仕返しされる、気の強いドライな性格の妹芸者を演じています。
走っている車から突き落とされて大けがして病院に担ぎ込まれ、包帯だらけの姿でベッドに横たわりながら、
「なんで芸者みたいな商売があるんやろ。芸者なんかなくなったらええのに」
と男を呪う言葉には異様なほどの迫力があって、
単に映画のセリフを言っているのではなく、実際に彼女の心の底から沸き起こってくる男に対する恨みつらみを聞かされているような心地がしたものです。
実際、12歳で女優デビューしてから、男社会の撮影所で辛いことや悲しいこと悔しいことを山ほど経験してきた筈で、長年、溜まっていたものを一挙に吐き出したといった感じでした。
この「浪華悲歌」と「祇園の姉妹」の2本の作品で、彼女は女優としての本能に目覚め、女優を辞めて家庭に入ることなど忘れてしまいます。
その後、当時の人気スター、長谷川一夫と「鶴八鶴次郎」(1938)で共演しますが、大スター、長谷川一夫相手に堂々と張り合って引けを取らない彼女はとても21歳とは思えない貫禄です。
これ以後、長谷川一夫とは多くの作品で共演し、ゴールデン・コンビと謳われるようになります。
女優として人気はうなぎのぼりに上がっていきますが、それに比例して夫との仲は悪化していきます。
夫の方は俳優としてパッとせず、女優として人気絶頂の妻に対するコンプレックスから酒浸りの生活になり、浮気を始めたことから、結局、娘を夫の実家に預けて離婚することになります。
その後の人生で、何度も結婚と離婚を繰り返すのですが、「男を芸のこやしにして生きてきた」といわれることには強く反発したそうです。
「男と寝て演技が巧くなるんなら、苦労はしないわよ」
といったところでしょう。
彼女が女優として大成したのは、次から次へと男を変えながらも、常に女優であることを優先して芸に精進したからであって、男を取るか芸を取るかの究極の選択を迫られたときには、いつでも女優である方を選んでいたのです。
中年になってからは、「猫と庄造と二人のおんな」(1956)、「流れる」(1956)、「蜘蛛巣城」(1957)などの作品で印象的な演技を見せています。
シェークスピアのマクベスを翻案した「蜘蛛巣城」では、マクベス夫人を演じてその演技が批評家から絶賛されますが、
個人的には幸田文の原作を映画化した成瀬巳喜男監督の「流れる」で演じた柳橋の傾きかけた芸者置屋の女将が良かったです。
もう大きな娘がいるのに残んの色香を漂わせていて、色街で生きてきたわりにはおっとりしたすれてない性格で、世間知らずのところがあって、女の可愛さもたっぷり持っている、田中絹代演じる女中の梨花に、
「この美しい人にずっと尽くしていきたい」
と思わせる女性を演じて秀逸でした。
ラストの杉村春子との三味線の合奏シーンも素晴らしかった。
その後、1962年、45歳のときに東宝と舞台の専属契約を結び、活躍の場を映画から舞台に移します。
もう映画で主役を張れる年齢ではなくなっていたし、映画産業自体、テレビに押されて急速に衰退していく時期に差しかかっていたので、良いタイミングで舞台に転身したと思います。
舞台女優としては映画女優出身であるにもかかわらずたちまち名声を博し、水谷八重子、杉村春子と共に三大舞台女優に数えられるようになります。
2000年には女優として初めて文化勲章を受章。
80歳を過ぎても舞台を務めていましたが、2002年に体調を崩して舞台を降板してからは、20年以上、住み慣れた帝国ホテルの一室を引き払い、都内の病院に移って、療養を続けていました。
一人娘の嵯峨美智子に先立たれ、帝国ホテルで一人暮らしを続けていた彼女の孤独な晩年に同情を寄せる向きもあったようですが、そのような安易な同情は大女優に対して僭越というか、失礼だと思いますね。
ある女性誌に寄せた手記で、彼女は次のように語っています。
「芸に生きて、悔いはない。この道の深さ美しさにくらべれば、親子や夫婦の情愛などとるにたらないもののように思えるのだ」
高峰秀子は「一流の芸人はみんな孤独だ」と書いてましたが、芸を極めるということは、凡百の幸せとは無縁の人生をおくるということで、
彼女はそのような人生をみずからの意思で選び取り、そのような選択を行ったことに毫も悔いはないと言い切っているのです。
この稿を書いているときに、彼女の訃報に接しました。
心から哀悼の意を表します。
祇園の姉妹1/5
http://www.youtube.com/watch?v=SyNm7sqh5JM
祇園の姉妹2/5
http://www.youtube.com/watch?v=bxaUj_0T2bA
祇園の姉妹3/5
http://www.youtube.com/watch?v=3nuZehx0OPY&feature=relmfu
祇園の姉妹4/5
http://www.youtube.com/watch?v=TIYgXq0uZTo&feature=relmfu
祇園の姉妹5/5
http://www.youtube.com/watch?v=f4LTdIjKHEI&feature=relmfu
流れる:予告編
http://www.youtube.com/watch?v=iiqZC5zpTf0
by jack4africa
| 2012-07-24 00:02
| 思い出の女優たち