2012年 10月 09日
高松宮宣仁親王殿下「高松宮日記 第一巻」(1) |
高松宮宣仁親王は1905年(明治38年)に大正天皇と貞明皇后の第三皇子として誕生された皇族で、昭和天皇の弟君、今上天皇の叔父君にあたられる方です。
1987年(昭和62年)に肺がんのため82歳で薨去されますが、死後、平成3年(1991年)に大正10年から昭和22年まで27年間にわたって書き続けられた日記が発見され、妃殿下の承諾を得て、中央公論社から出版されました。
日記には、高松宮が日米開戦に最初から反対であったこと、開戦後も一日も早く戦争を終結すべきであると兄君の昭和天皇に進言されていたことが書かれてあって話題になりましたが、
もうひとつ一般の話題にはならなかったものの、私にとって興味深く感じられたのは、日記の第一巻で若き日の殿下がご学友や殿下の身の回りのお世話をする若い男性に対して同性愛的な感情を吐露されている部分です。
銀漢煌煌というエキサイトブログ(ngymgdng.exblog.jp)で、この部分が抜粋され、仮名遣いを現代の読者の読みやすいよう改めて転載されていますので、それを引用させていただきます。
まず大正10年(1921年)、殿下16歳のときの日記からの抜粋です。
この時期、殿下は海軍兵学校に在学中でしたが、兵学校でも学習院時代と同様、皇族であることから特別扱いされ、そのために周囲の生徒から浮いてしまい、孤独を感じられることが多かったようです。
文中に頻繁に出てくる西村さんという人は、殿下の身の回りのお世話をする当番兵だと思いますが、このような役に就くことで他の兵士から仲間はずれにされることがあったみたいで、
自分のためにそのような孤独な境遇に陥った西村氏に対して申し訳ないという気持ちと、自分自身、孤独な日々の中で、唯一、身近にいて自分の世話をしてくれる彼とは別れたくないという気持ちに挟まれて悩まれる殿下の苦しい胸の内が明かされています。
4/2 「この頃以来空想を楽しむ。空想にわが希望を実現し、わが煩悶を慰め、わが欲心を満たす。誰が空想を以て自らを慰むることを知らざるか」
4月補遺「講堂当番の有田正熊(一等水兵、志願兵)は満期につき、(林勝美の代わりが欠けている)になりたいというけとで身元調べもし、本人にも仕人がよい役でないことを言い聞かせたるも考えをかえず。とうとう仕人に採用することにした。私の目からは彼は真の百姓的でどちらかといえば、遅鈍なるもまたそこが使いどころかもしれぬ。その代わりに西村というのが来た。有田よりはたしかによい。お百姓だそうだが、新しみがあるようだ。(未だよくあたっては見ないが)」
6/9「西村に一寸、私なんていうものは病人みたいに世の中に何にもせずに食っているのだ。真に無意味だよ、ていう意味のことを聞かす」
6/20「西村が教室のペン軸が少し尻の所のおれているのを見て、呉に行ったとき一本買って来ましたといって見せるから、後のお礼は出来まいと思ったが、無下に断るも何と思うてもらってしまった。十三四銭のものだろう。これが妙な結果を起こさねばよいが。なんでも西村に接近するにあるから、どんなことでも私の方はするが、あっちの方面の迷惑にならぬようにしたい」
6/22「西村が何かのついでに『呉に行って買ってまいりましょう』というからそう面倒ばかりかけてはすまぬというが中々きかぬから「や、色々慣例もあるから」とて断る。真に余り色々もらって妙な結果(学習院でこりてる)になると困るから」
6/28「西村が私と話などするからどうしても他の水兵と一緒にならぬといっていた。どこに行ってもこれだから私は独りで孤独に泣かねばならぬのだ。西村には気の毒だが、今私として絶交するのはちょっとこまる」
6月30日(別紙)「西村が昨日、生徒隊監事のお所に呼ばれて予が本科になったら、も一人ふやして隔日の勤務にすると言われたから、今でも、他の水兵と一緒になれず、どうしても独りぼっちになって、午後から何にもすんでから退屈で、無聊で、遠慮ばかりでほんとにしょうがないから西村一人でやりたい、隔日にでもなると益々無聊になるから、と言ったそうで、私にも何とかしてくれと言うような口ぶりであった。そう言ってやろうと言うことにした。勿論、私が西村から聞いたなどとは言いやしない、その辺は心得ていると言っておいた。ただし、西村は急に「常盤」から一人で来たのだし、おまけに私のそばに多くいるのだから、友達は出来にくいだろうから、この夏休みにでもなり、私がここから東京に帰ってるうちには交際する人もでき、また二人にでもなれば、その来る一人はたしかに西村と交際するにちがいないから、却ってよくはないかと私は考えないでもないが、武官の方を少しつついてみよう。真に私の行く先々では必ず、仲間はずれを作ったり、人に迷惑をさしたりするのだから嫌になってしまう。学習院のときにも佐藤さんなどはその部であろう。気の毒だといって、私としてどうも手がつけられないのだから尚更、自分の心を痛めるばかりである」
7/3「生徒館の方では西村が用を足して、その事故の時に、も一人の方がするのだと岡田が言ってた。予防線のつもりで、『私のあらを見られると恥ずかしいから』と言っといたが、これで西村でない方が『はずかしい』と了解したかどうか」
7/14「西村が一般の家庭などの内情をご存じになるのはご必要ですが、ちょっとはお分かりになりますまいと言う。中々気のきいたことを言う。これだけ了解して話してくれれば私のほうは真にうれしい。今はその時が足らぬが生徒館の方で十分に話してくれたら私の知識も進むだろう。楽しみだ」
7/16「二時半頃西村が柔道の稽古着を持ってきたから、自習室に連れ込んで四時まで話をする。西村の迷惑にならねばよいが」
9/12「夕食前に生徒館へゆく。生徒館ではほんとに落ち着けないような気がする。時間がおそい。西村でも話に来てくれたらな。また呼んで問題にされるのもいやだ」
9/13「西村が一人では忙しくてやりきれぬからとて篠原を常に連れて来ることにした」
9/14「西村さんが東宮殿下御帰朝で詠んだ歌『かしこくも東宮殿下の外遊は瑞穂の国や栄ゆまつらん』(外遊はヲに。栄ゆ云々は栄まつらんとしたら、と思う)」
9/15「西村がよんだ歌『おすがたを拝する毎にうれしきやおそれ多くもまたかしこけれ』(私を見るのでよんだそうな。自分でもうまくまとまらぬと言ってたようだが、言うことが簡単で三十一文字にならぬような風でつくりにくい。私にもいかにしようとも工夫なし)」
9/16「生徒館で入浴。久しぶりで西村さんに流してもらう。夕食後じきに岡村が散歩しようとて来るから伍長その他二三人と練兵場を往復す。練兵場を行ったり来たりしても面白くなし。話は一向にはずまず。相手が生徒ではあるし私の方でも気乗りがしない。そんな時間に西村さんに甘えてたらどんなに慰安になるかしれない」
9/20「西村さんに何かの話のついでに、陛下のご不例のことを言った。少し言いすぎたかもとも思ったが、わたしは世界中でだれよりも西村さんを信頼していて、何一つかくそうと思うことはない。それで西村さんも心痛の色を顔に浮かべてくれた。ほんとに私の頼りとし愛敬するのは西村さんだ」
9/21「西村さん小銃の検定で七十点なりしと。今までは八十点以上なりしと。どうしたのか」
9/22「西村さんに立射のとき背負い皮を伸ばして左手の肘をかけて撃つと銃がよく座ると教えてもらった」
9/24「今日の西村の態度(私に対する)が、少し常と異なるように思う。武官が何とか言ったのか。武官がおだてて、岡村生徒でも何とか言ったのか。真に不愉快であった。益々生徒とはつきあう気にはならぬ」
9/27「西村さんがもとのような態度になった。こないだはどうかしてたのかもしれない」
9/28「この頃は西村さんともよくつきあえて心機、爽やかなり」
10/4「西村さんと話をする時がない(この頃は)。だけど西村さんの方では、うるさくなくてよいだろう」
10/7「ほんとに西村さんと会話するときがない。先方では平気だが私はほんとに淋しいような気がする。どうして西村さんは以前ほど、私を可愛がって下さらないのか。先方にはもう話相手も出来たろうが、どうして私に西村さんの代わりが得られようか。ほんとに淋しい」
10/11「西村さんが近頃以前ほど、私に好意をもって全てのことをしてくれないように感ず。どういうわけか私には分からない。別に私が西村さんを怒らすようなことをしたつもりなし。あるいは分隊監事か武官が私に接近せぬようなど言ったのではないか。そうでないならば、ほんとに私は悲しい。西村さんに離れられてはどうして慰めてくれる人があるだろうか。一時も早く以前の態度に復してくれることを祈る」
10/12「今日大講堂の教室の机の筆入れに短くなった鉛筆を入れっぱなしにしといたら、新しいのを西村さんが持ってきて、私のいないときに、入れていって下さった。そこで、全く西村さんが私に好意を持っていないのでないことを知って、どんなにうれしく思ったか知れない。日常、私に接近してくれないことはくれなくとも、私を思ってくれることだけでもうれしい」
10/20「西村さんは少しも私に会ってくれぬ。もう私など可愛がってくれぬのかしら」
10/22「西村と顔を合わせたが、どうしても以前ほどの親しさで顔を向けてくれない。ほんとにどうしてあんなに私から離れていってしまうのだろう。悲惨悲惨」
10/24「今日は西村さんが親切な顔で見てくれた。一体西村さんはどういう気かしら。ほんとは私を可愛がってくれる気があるのだろうに」
10/28「西村さんはまた以前のような親しい顔で会ってくれる。私の心は晴れ晴れしい気分になった。また眼に『ものもらい』が出来たようだ(西村さんの)。(実はそうではなかった。目のふちを打ったのだ)」
11/1「伊達さんが三等看護兵曹に、西村さんが一等水兵になった」
11/8「西村さんの手伝いに来てる篠原が退校する代わりはまだ決まらぬ」
11/11「この頃は西村さんも大いに好意を示してくれるが、やはり話などする機会は与えてくれぬ。これは今のところしかたなし」
11/18「やっぱり西村さんは本当に私を愛してくれぬ。同性愛ということを理解してくれないのかしら」
11/28「西村さんほんとに私を何とも思ってくれないようになってしまったようだ。私はほんとに常に孤独でいなければならぬのだろうか。淋しい淋しい淋しい」
12/4「西村さんが親切そうな顔を向けてくれた。ほんとに両方で遠慮と疑いっこしてるようだ。でも嬉しくって嬉しくって」
12/7「西村さんは親切にしてくれるように復しそう」
11月18日の「やっぱり西村さんは本当に私を愛してくれぬ。同性愛ということを理解してくれないのかしら」という文章ですが、
西村氏が農民出身なので、農民のような下層の人間は自分たち上流の人間が嗜む同性愛という高尚な趣味は持ち合わせていない。だから彼には同性愛を理解できないのだと嘆いておられるような気がします。
この日記の文章から察して、殿下が海軍兵学校だけでなく、それ以前の学習院時代から同性愛を経験されていたことは確かだと思います。
また日記の文章から察するに当時の日本の上流階級の男性は、現在の日本人からみてかなり女性的な言葉遣いをしていたような印象を受けます。
高松宮宣仁親王殿下「高松宮日記 第一巻」(2)
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by jack4africa
| 2012-10-09 00:02