2013年 06月 25日
ジャワ島周遊(3) |
☆ コタ地区
独立記念塔を見学したあと、すぐ隣のガンビル駅に行って、翌日のジョグジャカルタ行きのチケットを購入。
ジャカルタ・ジョグジャ間は、ライオンエアーというLCCが安く飛んでいるのですが、よく遅れるそうで、先日はバリ島のデンパサールで着陸事故を起こしたと聞いて、ジャワ島内の移動はすべて鉄道にすることに決めたのです。
昨年、ミャンマーを旅行したとき、国内線のフライトが遅れまくって苦労したこともまだ記憶に新しかったし、元々、鉄道の旅は嫌いではなく、鉄道網が発達している国では、飛行機よりも汽車の旅を選ぶようにしているのです。
チケットを購入後、かってジャカルタがバタビアと呼ばれていた頃のオランダ植民地時代の面影が残る旧市街のコタ地区に移動。
ガンビル駅からコタ駅までそのまま電車で移動するつもりだったのが、直通電車はないとのこと。
暑い中、トランスジャカルタの停留所まで歩いて戻るのは億劫だったので、ガンビル駅の外で客待ちしていたタクシーでコタ駅まで行くことに。
言い値の7万ルピア(700円)を5万ルピア(500円)に値切って、それでもまだボラれている感じでしたが、途中、渋滞に巻き込まれ、コタ駅に着くまで30分以上、かかったので、そんなもんかなと思いました。
人でごったがえすコタ駅前でタクシーを降りて、近くのファタヒラ広場へ。
ここはかってのバタビアの中心だったところで、広場の周囲にはオランダ時代に建てられたコロニアルスタイルの建物が建ち並んでいます。
現在、これらの建物の多くは博物館や美術館になっていますが、その中の一軒のカフェ・バタビアに入ってみました。
カフェの内部は天井から大きなプロペラの扇風機が下がっているコロニアル情緒満点の雰囲気でしたが、サンミゲルの小瓶1本が7万ルピア(700円)というボッタクリ値段でした。
その後、近くの運河(臭いドブ河)にかかっているオランダ時代に建造された跳ね橋などを見物して、トランスジャカルタでホテルまで戻りました。
☆ じゃがたらお春の伝説
じゃがたらお春は、寛永2年(1625年)、イタリア人の航海士と長崎在住の日本女性の間に生まれた女性で、
寛永16年(1839年)に紅毛人とその家族を日本から追放することを命じた第五次鎖国令が発布されたことにより、14歳のときに母や姉と共に長崎からバタビアに追放されます。
お春は、彼女が日本を偲んで書いたといわれる「日本恋しや、ゆかしや、見たや、見たや」という「じゃがたら文(ぶみ)」で有名なのですが、実はこの手紙は贋作であることが後の研究で判明したといいます。
贋作の判定の決め手になったのは、14歳の女の子にしては文章が巧すぎるということだったそうです。
日本企業の駐在員の妻として1980年代、90年代に合わせて8年間、ジャカルタに滞在した間に当地におけるお春の足跡を追った白石広子は、
その著書「じゃがたるお春の消息」で、実際のお春は、従来、伝えられていたような日本を恋しがって泣いてばかりいた不幸な女性ではなく、現地の生活に順応してシアワセな一生を送った女性であったことを明らかにしています。
白石広子によると、お春はバタビアで日蘭混血のオランダ東インド会社に勤める男性と結婚し、子供を沢山産み、大勢の召使を抱えて、裕福な暮らしをしていたそうです。
白石広子は、ジャカルタの公文書館でお春の遺言書を発見したそうですが、遺言書が残っているということ自体、お春が財産家であったことの証拠といえます。
お春が故郷の長崎の知り合いに送ったという本物の手紙も残っているそうですが、
その手紙は前述の贋作のじゃがたら文とは対照的な、長崎からバタビアに送って欲しい品物のリストを箇条書きしたビジネスライクな内容のものだといいます。
お春の夫はオランダ東インド会社の社員をしていたのですが、その後、独立して自分で貿易の仕事するようになり、
夫の死後はお春がその仕事を引き継いで、日本とも取引をしていたそうで、その手紙も自然とビジネスレターのようなものになったということらしいです。
お春はバタビアに着いたときまだ14歳で、現地の生活に順応するのは早かっただろうし、
彼女にとっては、自分と同じ混血児が多く住むバタビアで暮らす方が日本で暮らすよりも精神的にも楽だっただろうことは想像がつきます。
日本を恋しがって泣いてばかりいたというお春のイメージは日本人が勝手に創りあげたもので、現実のお春は環境の変化に順応して逞しく生きた女性だったのです。
2013 インドネシアの旅目次
by jack4africa
| 2013-06-25 00:56