2014年 02月 18日
日本人と一緒に大東亜戦争を戦った朝鮮人 |
昨年暮れ、安倍首相の靖国神社参拝のニュースがアルジャジーラのウェブサイトに掲載されているのをみましたが、アルジャジーラのニュースは、読者がコメントを書き込めるようになっていて、
台湾人の読者が、
「靖国神社には日本のために戦った2万1000余柱の朝鮮人の戦没者が祀られていることを考えると、韓国人が安倍首相の靖国参拝を非難するのはおかしい」
と書き込んだら、それに対して韓国人の読者が、
「朝鮮人は自分で志願して日本兵になったのではない。強制的に戦場に連行されたのだ」
と反論していました。
多分、韓国の学校ではそう教えているのでしょうが、これはまったくの誤りです。太平洋戦争で戦った朝鮮人兵士は全員、志願兵でした。
1944年9月からは朝鮮人にも徴兵制度が適用されましたが、入営は1945年1月から7月の間に限られたため、訓練期間中に終戦を迎え、実戦に投入されることはありませんでした。
つまり、徴兵されて戦場に行った朝鮮人兵士は一人もいなかったということです。
以下は、1938年に朝鮮で特別志願兵制度が開始されてから1943年に終了するまでの朝鮮人兵士の志願者数と採用者数です。
表:朝鮮人日本兵の志願者数と採用数
年度 志願者 採用者数 倍率
1938年 2946人 406人 7.3倍
1939年 12,348人 613人 20.2倍
1940年 84,443人 3,060人 27.6倍
1941年 144,743人 3,208人 45.1倍
1942年 254,273人 4,077人 62.4倍
1943年 303,394人 6,000人 50.6倍
表をみればわかるように、志願者数は1941年には14万4743人、1942年(昭和17年)には25万4273人、1943年(昭和18年)には30万3394人と年を追うごとに増えています。
これに対して採用者数は1941年は3,208人、1942年は4,077人、1943年は6000人で、日本兵として採用されるためには、それぞれ45.1倍、62.4倍、50.6倍の難関を突破する必要があったことが判ります。
なぜこれほど多くの朝鮮人の若者が日本兵として戦うことを志願したのでしょうか?
当時、朝鮮や台湾は大日本帝国の領土の一部を構成し、多くの朝鮮人や台湾人は自分たちもまた日本人であると考えていて、日本人として祖国日本のために戦いたいと願う朝鮮人や台湾人の若者が多数、存在したというのです。
私の身内に1939年(昭和14年)に召集されて満州に渡り、太平洋戦争の勃発と共に南方に移動し、終戦はニューギニアのラバウルで迎えたという年寄りがいましたが、
満州から南方に移動するとき、現在、中国と北朝鮮の国境になっている豆満江に沿って移動したそうです。
当時、豆満江流域には多数の朝鮮人が居住していて、行く先々で日本兵は朝鮮人住民から大歓迎を受け、ご馳走を振る舞われたといいます。
それで礼をいうと、「礼をいうなんて水臭い。天皇陛下は一人でっせ!」と言い返されたそうです。
「朝鮮人も日本人も同じ天皇陛下の赤子であることに変わりはない」ということだったらしいです。
実際、京城(ソウル)の映画館では、真珠湾攻撃やマレー沖海戦など緒戦の日本軍の華々しい戦果を伝えるニュース映画を観て朝鮮人観客が熱狂していたという証言もあります。
そのような時代の空気の中で、日本軍に志願して自分もまた日本兵として戦いたいと考える朝鮮人の若者が増えたということらしいですが、
中には志願兵に応募して不合格になったことに悲観して自殺する若者まで現れて、朝鮮総督府を困惑させたといいます。
また日本軍に入隊するために血書による嘆願書を提出することが朝鮮人の若者の間で流行し、1939年には45名、1940年には168名が血書を提出しているそうです。
後に韓国大統領となる朴正煕(パクチョンヒ)も、満州国軍軍官学校への入学出願に際して、受験年齢制限の特別免除を求める血書の嘆願書を提出しています(下の写真を参照)。
朴正煕の血書による嘆願書の提出を伝える1939年3月31日付満洲新聞の記事。
嘆願書には「日本人として恥じざるだけの精節と気魄とを以って一死以ってご奉公の堅い決心でございます、しっかりやります、命のつゞく限り忠誠を尽くす覚悟でございます」と書かれてあります。
「日本人として」と書いていることからわかるように、彼は自分を日本人と考えていたのです。
世界中を回って日本の悪口を言いふらしているパククネおばさんの父親は日本人だったのです!
ちなみに彼の日本名は、高木正雄です。
日本の厚生労働省の統計によると、満州事変から太平洋戦争(大東亜戦争)まで日本兵として戦うか、軍属として日本軍のために働いた朝鮮人の総数は24万2,341人で、内、2万2,182人が死亡または不明となっているそうです。
前述したように、そのうちの2万1000余柱が靖国神社に祀られているのです。
またBC級戦犯には148人の朝鮮人が含まれています。
朝鮮人戦犯の中で一番の高官は、洪思翊(こうしよく)陸軍中将で、フィリピンで捕虜収容所長を務めていた時期に捕虜たちに十分な食料を提供しなかった罪に問われて、1946年9月26日にマニラで処刑されています。
1938年の特別志願兵制度の施行以前は、朝鮮人が一般の兵卒として陸海軍に入隊することはできなかったのですが、
陸軍士官学校は外国人に開放されていたことから、日本陸軍には洪思翊のような陸軍士官学校卒の朝鮮人の高級将校もいたのです。
洪思翊とその家族(写真左)
朝鮮人が一般の兵卒に限定されていたのであればともかく、高級将校にまで朝鮮人がいたということは、朝鮮人が日本人と一体となって大東亜戦争を戦った事実をはっきりと示しています。
さらに神風特攻隊に14人の朝鮮人兵士が参加していたことや、敗戦後、インドネシアに残留してインドネシア独立のためにオランダ軍と戦った日本兵の中にも朝鮮人兵士が含まれていたことなどを考え合わせば、
多くの朝鮮人が日本の唱える「大東亜共栄圏」の大義を信じて戦い、死んでいったことは明らかです。
韓国人は二言目には「日本はアジアを侵略した」といいますが、もしそれが本当であれば、朝鮮人は日本人と一緒になってアジアを侵略したのだから、
韓国は日本の共犯者として、アジア諸国に謝罪しなければならないことになります。
大東亜戦争に対する評価はともかく、2万1000人以上の朝鮮人が大東亜戦争に協力して亡くなった事実を日本人は忘れることなく、日本人戦没者と共に靖国神社に祀って慰霊しているわけで、
韓国には感謝されこそすれ、文句を言われる筋合いはありません。
実際、実兄が日本兵として出征して戦死した李登輝元台湾総統は、靖国神社に参拝して、「戦死した兄の霊を祀っていただいて有り難い」と感謝の言葉を述べています。
それが人間としてまともな感覚で、戦時中は日本に協力して日本と共に戦っておきながら、日本が戦争に負けた途端、「自分たちは日本帝国主義の犠牲者だった」などと言い出し、
1965年の日韓条約に基づいて莫大な援助を受けたにもかかわらず、今だに執拗に謝罪と賠償を要求して日本にたかろうとする韓国人の心根の卑しさに呆れるのは、台湾人だけではないでしょう。
朝鮮人志願兵
http://www.youtube.com/watch?v=afj62pUriOE
「銃後の朝鮮」 Home Front of Chosun (1937)
https://www.youtube.com/watch?v=nzaXJ6j4_aY
参照サイト:
朝鮮人日本兵
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E4%BA%BA%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%85%B5#.E5.BF.97.E9.A1.98.E8.80.85.E6.95.B0
洪思翊
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%AA%E6%80%9D%E7%BF%8A
by jack4africa
| 2014-02-18 00:01
| 国際関係