2006年 09月 18日
バーブルの恋 |
1526年からインド北部を支配し、19世紀半ばまで存続したイスラムの王朝、ムガール帝国のムガールはモンゴルという意味です。
これは中央アジア出身の初代皇帝バーブルがジンギス・カンの血を引いていたことから来ています。
バーブルは、母方の先祖を遡るとジンギス・カンの次男のチャガタイ・カンに行き着き、父方の先祖はチムール帝国の創設者チムールという名門の出で、1438年に現在のウズベキスタンにあったフェルガーナの領主の長男として生まれます。
11歳のときに父親が死亡し、領主の地位をつぎますが、かってのチムール帝国の都だったサマルカンドに憧れ、13歳のときに、サマルカンドを支配していた一族の内紛に乗じてみずから軍を率いてサマルカンドを攻めます。
このときの遠征は失敗に終わり、その後も、何度かサマルカンドを攻撃し、一時的に征服したこともありますが、結局、サマルカンドを追われ、アフガニスタン経由でインド北部に侵入して、ムガール王朝を建てることになるわけです。
バーブルは武将として勇猛であっただけでなく、文学的才能もあり、「バーブル・ナーマ」という回想録や多くの詩を残しています。
13歳のときに従妹のマーヒムと結婚しますが、肉体が成熟したあとも、妻の部屋を訪れることはきわめて少なく、はじめのうちは10日か15日に一度だったのが、そのうち40日に一度になって母親にせっつかれるほどだったといわれています。
「バーブル・ナーマ」には、「格別、妻のマーヒムに不満があったわけではないが、彼女の部屋に入っていくとき、牢屋にでも入っていくような気分がした」と書いています。
そんな彼が夢中になって恋こがれる相手が現れます。その相手を宿営地の市場でみかけて、ひと目惚れしてしまうのです。
相手の身なりは粗末で、物腰も粗野でしたが、恋の虜になったバーブルは、「正気を失い、気も狂わんばかりになり、夜ごとまんじりともせず、気がつくと帽子を被ることも忘れて裸足で外に駆け出していったり、いつまでも庭や森の中をさまよい歩いていた」という状態になります。
相手の名はバブリといい、街中でバブリと出会ったりすると、恥ずかしさのあまり、あわてて横道にそれてしまい、友人と一緒のときなどは、あらぬ方に目をやり、友人たちを不審がらせたりします。バブリが用事で訪ねてきたときは、よそよそしく振舞ってしまい、あとで後悔する始末です。
武将としては、若干13歳で軍を率いてサマルカンドを攻めたほど早熟であったにもかかわらず、恋にかけてはおくてで、純情そのものだったみたいです。
このとき、バーブルは少年の身でありながら、領主でしたから、相手を自分の後宮に入れることもできたはずでしたが、そうしませんでした。
というか、できませんでした。
バブリは非常な美貌の持ち主でしたが、男性だったのです。
バーブルはバブリへの恋情を回想録に克明に書き綴っていますが、当時の中央アジアでは、男が美しい男に恋することは特に珍しいことではなかったようです。
「武将たちは領内に美しい若者がいるとあらゆる手段を用いて小姓として召抱え、寵愛した。寵童を持たない武将は殆どいず、むしろ寵童を持たないことが恥とされた」とバーブルは書いています。
われ、かのひとに不思議なほど強く魅せられぬ
かの人に対する想い、わが身を焦がし、われを狂気へとかりたてぬ
これはバーブルがバブリへの恋をうたった詩です。
参照文献:
タージ・マハル物語:渡辺建夫
中央アジア歴史群像:加藤九祚
by jack4africa
| 2006-09-18 23:23
| アラブ・イスラム世界