2007年 06月 01日
ジャン・ジュネ 「恋する虜」(1) |
フランスの作家、ジャン・ジュネ(1910-1986)は、男色家で、若い頃は泥棒だったという異色の経歴の持ち主です。
娼婦の母親から私生児として生まれた彼は、孤児院で育ち、やがて養父母の下に引き取られますが、盗みを繰り返して感化院に入れられ、感化院を出たあとは軍隊に入隊。軍隊を脱走したあとは、泥棒や乞食、男娼をしながら、ヨーロッパ各地で放浪生活を送ります。
1942年、フランスの刑務所で服役中に詩集『死刑囚』が出版され、それがジャン・コクトーに認められ、作家としてデビュー。刑務所内で『花のノートルダム』や『薔薇の奇蹟』などの小説を執筆、出所後は『ブレストの乱暴者』、『泥棒日記』、『女中たち』などの小説や戯曲を発表します。
しかし、1952年、ジャン・ポール・サルトルがジュネについて書いた作家論、『聖ジュネ』が出版されると、執筆をやめてしまいます。
サルトルが『聖ジュネ』の中で、ジュネを完璧に分析してしまったために、それ以上、小説が書けなくなったのだといわれています。
その後、『バルコン』や『屏風』などの戯曲を発表して、劇作家としてカムバックしますが、1964年に恋人だった「綱渡り芸人」のアブドラ・ベンダカが自殺、ショックのあまり、ジュネも自殺を図ります。
恋人の自殺以後、ひどい抑鬱状態に陥っていたジュネを救ったのは、日本への旅でした。
1967年、若い友人のジャッキー・マグリアとその日本人の妻に誘われて、日本に向かうのですが、飛行機が北極を越えて日本列島に向かって降下を始めたときに、それまで自分を覆っていたユダヤ=キリスト教文化の痕跡が洗い落とされ、生まれ変わったような心地がしたと回顧しています。
日本で再生のきっかけを掴んだジュネは、その後、タイ、インド、パキスタン、エジプト、モロッコ、チュニジアを経てフランスに帰国しますが、ちょうどそのとき、フランスで学生たちの反乱、五月革命が起こります。
1960年代後半は、日本の全学連、中国の紅衛兵、アメリカのベトナム反戦運動、ヒッピー文化の隆盛、パリの五月革命など世界中の若者たちが既成秩序に反抗して立ち上がった時代でした。
ジュネは、この時代の雰囲気を「地球に春が来た」と形容していますが、役所に提出する書類の職業欄に「泥棒」と記載していたほどの生まれながらの反逆児である彼の目には、このような時代の風潮は当然、好ましいものとして映り、以後、積極的に政治活動を行なっていきます。
1970年には、アメリカの急進的な黒人解放組織、ブラック・パンサーのリーダーに招かれ、アメリカ各地で講演を行ないます。翌1971年にはPLO議長、アラファトの要請に応じてパレスチナを訪れ、パレスチナ・ゲリラの戦士たちと2年間、行動を共にします。
『恋する虜』は、このときのブラック・パンサーの黒人やパレスチナ・ゲリラの戦士との交流を晩年になって回想した作品です。
ジュネが特にブラック・パンサーやパレスチナ・ゲリラに肩入れしたのは、虐げられ、差別される存在である黒人やパレスチナ人に共感したのが一番の理由だと思いますが、ブラック・パンサーの黒人やパレスチナ・ゲリラが武力闘争を行なっていたことも大きかったと思います。
同じ黒人解放運動でも、非暴力主義を唱える穏健派のキング牧師の運動には関心を示さず、黒人の武装蜂起を呼びかける過激派のブラック・パンサーや、テロやハイジャックを行なって国際社会から犯罪者扱いされていたパレスチナ・ゲリラに対して共感を覚えたわけです。
かって刑務所時代に死刑囚の若者の美しさを賛美し、崇拝したのと同様、アウトサイダーであるブラック・パンサーの黒人やパレスチナ・ゲリラの若者の美しさや、そのアウトロー的な魅力の虜になって、彼らに恋してしまうのです。
そういう意味では、ジュネのパレスチナ解放運動への関与は、政治的・イデオロギー的なものというよりも、むしろ個人的、文学的なものといえます。
事実、ジュネはパレスチナ解放運動それ自体は、かなり冷めた目でみています。
イスラエルを追い出されてヨルダンにいたパレスチナ難民たちが、ヨルダンでは一種の占領者として振る舞い、一般のヨルダン人から嫌われていたことや、パレスチナ・ゲリラの幹部たちが世界中から寄せられる義捐金を私的に流用し、贅沢な生活を送っていたことをちゃんと書いていますし、
パレスチナの武装闘争が、その過激さゆえに、近隣アラブ諸国の支持を得られず、孤立していく様子も冷静に描いています。
ジュネが愛情をこめて語っているのは、パレスチナの名門の出身でありながら、パレスチナ運動に身を投じ、献身的に働く若いパレスチナ人のインテリや、パレスチナの大義のために平然と命を投げ出すパレスチナ・ゲリラの若い兵士たちのことです。
イスラエルへのテロ攻撃を命じられた若い兵士は、出撃の前夜、イエス・キリストがヨハネから洗礼を受けたヨルダン川で身体を洗って身を清めたあと、仲間の兵士たちに軽く会釈して挨拶してから、ヨルダン川の対岸のイスラエル領に入っていきます。
彼らは二度と戻ってくることはありません。
ジュネにとって、このような無名のまま死んでいった、勇敢なパレスチナ人の兵士こそが、パレスチナの闘争を象徴する存在で、パレスチナ運動の挫折は、パレスチナのために命を捨てたこれらの若者たちの行動にいっそうの悲劇性を加味し、殉教者としての彼らの聖性を高めることになると考えていたふしがあります。
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by jack4africa
| 2007-06-01 07:31