2007年 06月 05日
ジャン・ジュネ 「恋する虜」(2) |
ジュネがパレスチナの地に赴いたのは、1970年9月に勃発した、後に「黒い九月事件」と呼ばれることになる、ヨルダン内戦の1ヶ月後のことでした。
イスラエルの建国によってパレスチナの地を追われたパレスチナ人は、大半が隣国ヨルダンに難民として移住するのですが、その結果、ヨルダンでは、元から住んでいたヨルダン人の人口よりもパレスチナ人の人口が上回るという現象が起こります。
それに伴って、ヨルダン国内では、事実上のパレスチナ亡命政府であるPLO=パレスチナ解放機構とヨルダン政府の権力争いが激化し、1970年9月17日、ついにヨルダンのフセイン国王の親衛隊であるベドウィン部隊を中核とするヨルダン政府軍がPLO部隊への攻撃を開始します。
PLO部隊は、圧倒的な軍事力をもつ政府軍に追い詰められますが、PLOを支持していた隣国のシリアがPLOに加勢、あわやヨルダンとシリアの戦争に発展するかにみえた矢先、アラブ世界でカリスマ的影響力を持つエジプトのナセル大統領が介入し、停戦が成立します。
しかし、パレスチナ人は、同じアラブ人であるヨルダン政府が自分たちを攻撃したことを深く恨み、この内戦が起こった1970年9月を「黒い九月」と呼んで記憶するようになります。
そして1972年には「黒い九月」を名乗るパレスチナの過激グループがミュンヘン・オリンピックの選手村を襲って、選手村に滞在していたイスラエル選手11人を人質に取り、全員を殺害するという事件を起こすのです。
ジュネは、1970年10月、停戦成立後のヨルダンのアンマンに入り、アンマン近郊のパレスチナ・キャンプでPLO議長のアラファトと会見します。
アラファトにパレスチナの悲劇について書いてくれるように頼まれたジュネは、ヨルダン各地のパレスチナ・キャンプを訪ねるのですが、その旅の途中、シリアとの国境に近いイルビトという町でハムザという名前の若いパレスチナ人兵士と出会います。
イルビトの町は当時、パレスチナ・ゲリラが占拠していて、停戦後もヨルダン政府軍と交戦を続けていました。
ジュネが、イルビトのホテルに滞在中のある日、夜になったら政府軍が攻撃を仕掛けてくるとの情報が入り、ジュネの身の安全を心配したPLOの責任者は、彼をイルビト郊外のパレスチナ・キャンプに避難させることに決めます。
そのとき、責任者に呼ばれてやってきたのが、二十歳の美しい若者であるハムザだったのです。
ハムザはジュネをイルビト郊外のパレスチナ・キャンプにある自分の家に連れて行きます。
ハムザの家では、ハムザの母親がジュネを出迎えます。彼女は50代の寡婦で、一家の長として家族を守るために武装していましたが、息子が連れてきたジュネを笑顔で迎え、ジュネのために簡単な食事を用意します。
その晩、ジュネは、政府軍との戦闘のために家を空けたハムザの部屋に泊まり、彼のベッドで眠りますが、母親はジュネが寝ている息子の部屋にそっと入ってきて、毎晩、息子のためにするように、ベッドの傍のテーブルにトルココーヒーと水を載せた盆を置いて出ていきます。
明け方、政府軍との戦闘を終えて戻ってきたハムザは一眠りしてから、シリアに向かうジュネをイルビトの町のタクシー乗り場まで連れて行き、そこで二人は別れます。
ジュネがハムザと一緒にいたのは、正味、7時間ほどでしたが、それ以後、常に穏やかな微笑を浮かべ、自分が抵抗運動を行なうために生まれてきたことを確信しているこの美しい若者と、息子が連れてきた異邦人のジュネを抵抗なく家に受け入れて、自分の息子のように扱った彼の母親のイメージが、何度も繰り返し、ジュネの脳裏に蘇ります。
そして、やがてジュネにとって、この母と息子のイメージがパレスチナ闘争を象徴するイメージとして結実していくのです。
ジュネは、パレスチナ・ゲリラと2年間、行動を共にしたあとヨルダンを国外退去処分になってパリに戻ります。
その後、第四次中東戦争と石油危機を経てPLOはある程度、国際的に認知されるようになり、それと共にジュネのパレスチナ解放運動に対する熱意も薄れていきますが、1982年のイスラエルによるレバノンの侵攻をきっかけに再び、パレスチナに関心を抱くようになります。
この年の9月、イスラエル軍監視下のレバノンの西ベイルートのパレスチナ人難民キャンプ、サブーラ・シャティーラで、レバノンの右派キリスト教徒の民兵組織がパレスチナ人の民間人を大量に虐殺するという事件が起こります。
偶々、ベイルートにいてこの事件の現場を目撃したジュネは、その凄惨な光景に衝撃を受け、この事件を告発するルポルタージュ「シャティーラの四時間」を書き上げます。
そして1984年には14年ぶりにヨルダンに赴き、ハムザの消息を求めて、イルビトのパレスチナ難民キャンプを訪れ、ハムザの母親と再会します。
14年ぶりに再会したハムザの母親は、その過酷な人生の体験のお陰で、実際の年齢よりもずっとふけ込んだ老女になっていて、家長として銃をもって家族を守っていた、かっての女丈夫の面影はありませんでした。
ジュネは、彼女の口から、ヨルダンの政府軍に捕まって拷問を受け、殺されたと聞いていたハムザがまだ生きていて、ドイツに住んでいることを聞かされます。
ジュネは、ハムザの母親からハムザの電話番号を聞きだし、ドイツにいる彼に国際電話をかけます。
14年ぶりに聞くハムザの声はとても優しかったのですが、その声には絶望がこもっていました。
ハムザは、ヨルダンの刑務所で拷問を受けたあとドイツに亡命したのですが、ドイツでドイツ人女性と結婚して息子もできていた彼はもう、パレスチナ運動に対する情熱を失っていたのです。
この久しぶりに再会したハムザの母親の変わり果てた姿と、パレスチナの運動に絶望した、中年にさしかかったハムザについて語るジュネの口調は哀切に満ちています。
パレスチナの悲劇を一組の母と息子の物語に凝縮して描いた、この『恋する虜』は1986年のジュネの死の直前に完成し、彼の遺作となります。
ジュネの死から20年、パレスチナの闘争は現在も続き、無数のハムザとその母親を生みだしています。
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by jack4africa
| 2007-06-05 00:20