2007年 12月 11日
院政期の日本人(1) |
院政期というのは、平安時代末期、天皇が息子や孫に帝位を譲って、太上天皇=上皇になり、さらには出家して法王となったあとも、院と称して親政を行なった時期で、院政を敷いて権勢を振るった上皇=法王としては、白河院、鳥羽院、後白河院の三人が有名です。
院政期以前の政治の実権は、娘を天皇の妃にして外戚になることで、公家の最高位である摂政、関白の地位を独占していた摂関家の藤原一門に握られていましたが、院政期には、院たちが親政を行なったことから、摂関家の権威は大きく低下します。
逆に身分の低い人間でも、院の近臣となることで出世して、高位高官に昇りつめることが可能になります。
院の近臣になる一番の近道は、院と男色関係を持つことでした。
この時代、天皇や公家の間では、男色が盛んに行なわれていました。
白河院、鳥羽院、後白河院たち代々の院も、女色と男色の両方を嗜んだことで知られています。
そのため、身分の低い人間や能力のない人間でも、容色さえ優れていれば、それを武器に院の男色の寵愛を受け、地位を昇りつめて羽ぶりをきかせることができたのです。
中国では、男色によって皇帝の寵愛を受ける人間のことを「男寵」と呼んだそうですが、中国の史家は、能力もない人間を、ただ単に容色が優れているというだけで寵愛し、高位高官に引き立てることの弊害を説いています。
院政期の日本でも、院の寵愛に奢った寵臣たちが様々な事件を引き起こします。
そのため、この時期の政治は、男色を抜きにしては語ることができないといわれています。
実際、院政期に起こった保元の乱や平治の乱、鹿ケ谷の陰謀などの乱や事件にはすべて男色がからんでいるのです。
院政期はまた、歴史的にいって、政治権力が公家から武家に移る過渡期にあたります。
平安時代は、保元の乱が起こるまで350年もの間、死刑がなかったほど平和な時代だったのですが、保元の乱以降、次々と乱が起こり、その結果、武力を持つ武家が台頭し、ついには、武家政権である鎌倉幕府が誕生することになるのです。
☆ 北面の武士
武士は、元々は、摂関家などの有力公家に仕える私兵的存在だったそうですが、院政期になって、院に仕える武士が出てきます。
これを北面の武士と呼びます。
院の御所の北面を詰所としていたことから、こう呼ぶそうですが、彼らは近衛兵として院に仕えて身辺を警備し、御幸と呼ばれる院の外出時には、院に随行して、その護衛にあたりました。
前述したように、白河院以下、代々の院たちは、男色を好まれたので、自然とイケメンの武士が北面の武士に選ばれ、院に近侍することが多かったそうです。
身分の卑しい人間でも、容色が優れていれば北面の武士になって、院の寝所に侍り、院の寵愛を受けて、出世することができたといわれています。
西洋でも、ローマ法王の身辺警備には、ユリウス2世(在位1503 - 1513)のときからスイス人の傭兵から成るスイス衛兵という特別な近衛兵があたるようになるのですが、
スイス衛兵もユリウス2世を始めとする代々の男色好きの法王の枕席に侍ったといわれています。
洋の東西を問わず、権力者というのは似たようなことをやるみたいです。
平清盛の祖父と父にあたる平正盛と忠盛父子も北面の武士として白河院に仕えていたことが知られていますが、忠盛は、白河院の子供を産んだ身分の低い女をその子供と共に院から下賜されて自分の妻子にしたそうで、その子供が清盛だったといわれています。
つまり、清盛は白河天皇のご落胤だったというわけですが、白河院が自分が愛した女とその子供を忠盛に与えたということは、それだけ白河院が忠盛を寵愛していたということで、それを考えると、平家台頭のきっかけは、忠盛と白河院の男色関係にあったといえなくもありません。
続く
「昔の日本人」
by jack4africa
| 2007-12-11 00:18