2007年 12月 14日
院政期の日本人(2) |
☆ 「悪左府」藤原頼長
藤原頼長(1120-1156)は、院政期に、代々、摂政・関白を輩出する摂関家の嫡流に生まれ、左大臣にまで昇った人物で、保元の乱を起こした張本人として知られています。
また、みずからの男色体験を赤裸々に書き綴った日記「台記(たいき)」の著者として知る人ぞ知る存在です。
頼長は、大変な勉強家で、和漢の才に富んでいたそうですが、性格は狷介、人と衝突しやすく、乱暴な振る舞いが目立ち、「悪左府(あくさふ)」と呼ばれていたそうです。
頼長の粗暴な性格を物語る例として、頼長が鳥羽院の寵臣である藤原家成の家に自分の随身を乱入させて、狼藉を働かせた話が伝えられています。
それ以前に頼長の召使いが家成の家来によって乱暴を受けたことへの意趣返しだったそうですが、その裏には、身分の低い家柄の出である家成が院の寵愛を受けて羽ぶりをきかしていたことへの反感があったようです。
前回、述べたように、上皇=法王が親政を行なうようになった院政期には、摂関家の地位は低下し、たとえ身分の低い人間でも、容色が優れていれば、
院の寵臣となって出世できるようになるのですが、摂関家の嫡流である頼長は、そのような現状に強い不満を抱いていたのです。
しかし、鳥羽院の寵臣である家成に乱暴を働いたことが鳥羽院のお気に召すはずはなく、鳥羽院は、頼長を「うとみ思し召す」ようになって、それが後の保元の乱につながり、頼長が身を滅ぼす原因となります。
● 七人の貴公子
頼長が男色関係をもった貴族で、名前が判明しているのは次の七人です。
(1) 源成雅
(2) 藤原公能
(3) 藤原為道
(4) 藤原忠雅
(5) 藤原隆季
(6) 藤原家明
(7) 藤原成親
まず(1)の源成雅ですが、頼長の父、藤原忠実の愛人だった人物で、頼長の妾で次男の師長を生んだ女の弟にあたります。この経歴から判るとおり、摂関家とはきわめて近い間柄で、保元の乱では、最後まで頼長と運命を供にします。
それにしても、自分の父親の愛人だった男と寝るって、どういうんでしょうね。
(2)の藤原公能も頼長に近い人物で、頼長の正室、幸子の弟にあたります。この時代、自分の妻の兄弟と男色関係を持つのはわりと普通のことだったみたいです。
頼長は、この藤原公能の娘の多子(まさるこ)を養女にして、近衛天皇の皇后として入内させるのですが、
この多子という女性は大変な美人だったそうで、近衛天皇が早世したあと、その二代あとの天皇である二条天皇に懇望されて、その妃になります。
平家物語で「二代の后」として登場するのがこの女性です。
(3)の藤原為道は、鳥羽院の第一皇子である崇徳上皇の寵愛を受けていた人物です。
頼長が為道と男色関係を結んだのは、為道を通して崇徳上皇の知遇を得たいという下心があったからだと思われますが、これが後の保元の乱の伏線となります。
この為道は、頼長にバックを掘られながらトコロテンでイク癖があったそうで、頼長は日記で「此の道において往古に恥じざる人なり」と褒めています(笑)
実際、私の経験からいっても、バックをヤラレながらトコロテンでイクようになるためには、相当の経験を踏む必要があり、為道がいかに男色に関して経験豊富な人物であったかを示しています。
(4)の藤原忠雅は藤原家成の娘婿、(5)の藤原隆季は家成の嫡男、(6)の藤原家明は次男、(7)の藤原成親は三男で、全員、家成の婿か息子です。
前述したように、頼長は家成を嫌っていたのですが、それにもかかわらず、家成の娘婿や息子たちと次々と男色関係をもったわけです。
その理由としては、憎たらしい敵である家成の息子たちを犯すことで家成に復讐するというか、そういう気持ちもあったようです。
頼長はまず家成の婿養子である忠雅と男色関係を持ち、忠雅の手引きで、家成の嫡男である隆季に接近し、隆季を口説くのですが、隆季は中々、ウンといいません。
しまいには、祈祷師に頼んで、隆季の気持ちが自分になびくように祈祷をあげてもらう始末です。
その祈祷が効いたのか、隆季はやっと頼長のものになるのですが、最初は、忠雅との3Pだったみたいです。
次男の家明と三男の成親はわりと簡単に落ちたようです。成親は後に後白河院の寵臣として羽ぶりをきかせ、
「芙蓉の若殿上人」と呼ばれるようになるのですが、成親も藤原為道と同様、頼長にバックを掘られながらトコロテンでイク癖があったそうです。
あるとき、成親がイッたときに、頼長も一緒にイッて、「こんな風に一緒にイクなんてめったにないことだ。感激!」などと日記に書いています。
頼長が憎むべき敵である家成の婿や息子たちを犯して楽しむ気持ちはなんとなく理解できますが、それでは、息子たちはなぜ父親に敵対していた頼長の男色相手になったのでしょうか。
それはやはり、頼長が摂関家の嫡流だったからだと思われます。院政期になって、往年の勢いは失ったといっても、まだまだ摂関家には政治力があり、摂関家の男と男色関係という秘密の特別な関係を持つことのメリットは大きかったはずです。
事実、摂関家の男と男色関係を持った男たちは、現在の知事に相当する地方の受領(ずりょう)に任命される習慣があったそうで、彼らはそれを糸口に出世の階段を登ることができたわけです。
頼長を散々、じらせてからやっと身を任せた隆季も頼長に官職をオネダリしています。
元々、家成の属する六条流藤原家は、始祖である藤原顕季(あきすえ)が白河院の寵臣になることでのしあがってきた一門です。
白河院の寵愛を受けた顕季は「夜の関白」という異名をとったそうですが、顕季の長男、長実も白河院の寵臣になり、
その娘の得子(なりこ)は、鳥羽院の愛妾になって、美福門院の院号を得て権勢を振るい、頼長と対立するようになります。
同じく鳥羽院の寵愛を受けていた家成は、顕季の次男、家保の息子で、得子のイトコにあたります。
つまり、イトコ同士の男女が共に鳥羽院の寵愛を受けていたわけです。
そして家成の息子の成親は、後白河院の寵臣になるわけで、院政期には、この六条流のように代々、天皇や上皇など権力者の男色による寵愛を受けることで身を立てる一門が出現したのです。
当然のことながら、この一門の男たちは、権力者を惹きつけるだけの美貌と性的魅力を備えていて、閨房のテクニックにも長けていたものと思われます。
そのため、六条流の子弟が、摂関家の嫡流である好色な頼長の男色相手になったというのは、ある意味、自然の成り行きだったような気もします。
それにしても、藤原為道も、成親も、頼長と寝たお蔭で、頼長にバックを掘られながらトコロテンで射精する性癖があることを日記で暴露され、後世に伝えられるとは夢にも思っていなかったでしょうね。
六条流の系図
☆藤原顕季
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家保 ☆長実
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★家成 ★得子 (美福門院)
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女=◎忠雅 ○◎成親 ◎家成 ◎隆季
☆ 白河院と男色関係
★ 鳥羽院と男色又は女色関係
○ 後白河院と男色関係
◎ 藤原頼長と男色関係
続く
「昔の日本人」
by jack4africa
| 2007-12-14 00:17