2007年 12月 18日
院政期の日本人(3) |
● 源義賢
藤原頼長は、貴族以外の多くの男たちとも男色関係を結んでいます。
武士の中では、源義賢と関係をもったことが日記に出てきます。
源義賢は、あの木曾義仲のお父さん、源頼朝・義経兄弟の叔父にあたる人物で、その頃は頼長に仕える武士でした。
頼長はある晩、義賢を自分の寝所に引き入れて関係をもつのですが、当時は、男同士のセックスでは、身分の高い方の人間がタチ役をして、身分の低い方の人間がウケ役をするのが普通だったそうです。
それで、本来ならば、主人の頼長がタチ役をすべきなのが、なぜか、このときは、家来の義賢が主人である頼長を犯してしまったのだそうです。
日記には「無礼者奴が!デモ意外とヨカッタ!」と書いてあります。
それまで、頼長は、藤原忠雅や隆季を相手に戯れにウケ役をやったことが一、二度、あったようですが、快感を得ることはなかったみたいです。
義賢のときも最初は不快だったそうですが、そのうち意外な快感(景味)に襲われたそうで、バックで感じたのはそれがはじめてだったと告白しています。
本当に正直な人ですね(笑)
● 舞人
この時代、各仏教寺院では、稚児や舞人と呼ばれた少年が舞を奉納する行事がよく催されたのですが、このような稚児や舞人たちは、僧侶や公家などの男色の相手も務めました。
そのため、彼らが舞うときは少年好きの男たちが大勢、おしかけて品定めに興じたといわれています。
頼長も男色趣味のある鳥羽院のお供をして難波の四天王寺に参詣し、そこで奉納舞を見物したことを日記に書いています。
これはおそらく、頼長が随身に命じて、鳥羽院の寵臣の藤原家成の家を襲わせて、院の不興をかう前、鳥羽院とまだ仲がよかったときのことでしょう。
頼長は、このとき公方という美貌の舞人を鳥羽院から紹介されています。
鳥羽院はこの舞人を味見してよかったので、頼長に推奨したものと思われます。
頼長は、公方を自宅に連れ帰って関係しますが、彼のことがよほど気に入ったらしく、その後、何度も逢引しています。
● 随身
随身というのは、皇族や貴族が外出するときに護衛にあたった武人のことをいいますが、彼らは儀式に参列することから、任用に際しては、武芸に秀でていることに加えて、容姿の優れている者が優先されたといわれています。
頼長は何人かの随身と男色関係を結んでいたようですが、特に秦公春という随身を寵愛したことが日記に出ています。
実は、頼長が自分の郎党に家成の家を襲わせたときにリーダーを務めたのが、この公春で、頼長の腹心の部下だったようです。
頼長がいかに公春を愛していたかは、公春が病気になったとき、頼長がその回復を祈願して、103日間、魚を喰らわず、女色・男色を絶つという精進禁欲を行なったり、僧侶に祈祷を行なわせたことからも明らかです。
そのかいもなく、公春が死んでしまったときには、頼長は深く嘆き悲しみ、日記に数十ページにわたって彼の思い出を書きつらねたそうです。
残念ながら、日記のこの部分は、現存しません。現在、残っている頼長の日記「台記」は原本ではなく、後世の人間が書き写したものですが、書き写した人間の判断で、この部分は省略されてしまっているのです。
もし日記のこの部分が残っていたら、武田信玄や伊達政宗が寵童に出した手紙など問題にならないほど興味深い資料になっていただろうと思うと残念です。
また頼長は、公春の息子を元服させて、自分の嫡男の兼長の随身にしています。
☆ 保元の乱
さて、頼長が起こした保元の乱ですが、この乱は、頼長と異母兄の忠道の摂関家の跡目相続を巡る兄弟の争いに皇室の後継争いが加わって起こったものです。
前回、述べたように、鳥羽院には、寵臣である藤原家成のイトコにあたる美福門院得子(なりこ)という愛妾がいたのですが、頼長は、家成の一族であるこの美福門院を家成と同様、身分の低い家柄の出身であるとして軽蔑し、嫌っていました。
もう一人、美福門院を嫌っていた人間がいます。鳥羽院の第一皇子である崇徳上皇です。
鳥羽院が美福門院を寵愛したお蔭で、崇徳上皇の生母である待賢院璋子(たまこ)がないがしろにされるようになったことに加え、美福門院が生んだ体仁親王を天皇(近衛天皇)にするために無理やり譲位させられたからです。
近衛天皇は帝位に就いて直ぐに病死してしまうのですが、待賢院が呪詛したからだという噂が流れ、美福門院は深く恨みます。
まるで江戸時代の大奥ですが、鳥羽院は、近衛天皇の後継の天皇に崇徳上皇の弟の雅仁親王(後白河天皇)を指名します。
近衛天皇に譲位した代わりに、近衛天皇の後継には自分の息子の重仁親王が選ばれると信じていた崇徳上皇は、この鳥羽院の決定にひどく傷つき、その背後にいる美福門院を激しく憎みます。
やがて鳥羽院が崩御すると、美福門院と頼長の異母兄、忠道は手を結び、崇徳上皇と頼長が新しい天皇である後白河天皇にたいして謀反をたくらんでいるとの噂を流します。
追い詰められた崇徳上皇と頼長は合流して兵を招集し、ついに合戦の火ぶたが切られるのです。
合戦は、後白河天皇を擁した美福門院・忠道側の勝利で終わり、敗れた側の崇徳上皇は讃岐に配流。頼長は逃げ落ちる途中に流れ矢が首に突き刺さって戦死します。36歳の若さでした。
この合戦では、平清盛と源義朝が共に朝廷側に付いて戦うのですが、この保元の乱をきっかけに武士が台頭し始めるのです。
藤原頼長
続く
「昔の日本人」
by jack4africa
| 2007-12-18 00:14