2008年 02月 29日
秘すれば花 |
このブログを書くようになってから、ブログのネタにするために、昔の日本人の性習俗に関する本などを読むようになったのですが、これらの本を読むと、昔の日本では、男色が女色と並ぶ性愛の形態として受け入れられて盛んに行なわれていたことや、
男色を恥ずかしいと考える日本人が皆無であったことがよくわかり、あらためて過去の日本の性文化の大らかさに驚かされます。
しかし、このようなことは一般の日本人は殆ど知らないんじゃないでしょうか。
ホモの私でさえ、最近になって、ようやく知ったのですから。
問題は、過去にあれほど盛んだった日本の男色の習慣がなぜ、あっという間に衰退し、同性愛者という一部の人間だけが隠れておこなう後ろめたい行為になってしまったかということです。
一番の原因は、明治の開国によって、同性愛を罪悪とする欧米のキリスト教文化が日本に流入し、そのような欧米文化に迎合した明治政府が、日本の男色の習慣を野蛮なものとみなして積極的に排斥し、それを隠すようになったことにあると思います。
民俗学者の柳田国男をはじめ、多くの日本の学者はそういう政府の方針に従って、このような過去の日本人の性習俗を封じ込めることに努め、それが外国人だけでなく、国民の目にも触れないように注意深く隠匿してきたのです。
これは日本に限った話ではなく、19世紀半ば頃から欧米列強の植民地になったり、植民地化の脅威に直面したアジアの国々はすべて、男色=野蛮な風習という欧米人の価値観を受け入れて、自国の同性愛文化や伝統を否定するようになります。
たとえば、エジプトでは、男色のエピソードを削除した「千夜一夜物語」が出版されるようになりますし、インドではイスラム王朝のムガール帝国時代に、イスラム神秘主義者によって盛んに作られた美少年や若者を讃える多くの詩集が廃棄処分にされ、そのような詩を書く伝統そのものが途絶えてしまいます。
中国でも、「紅楼夢」や「金瓶梅」といった小説から男色のエピソードが削除されるようになるのです。
このような官民一体となった隠蔽工作の結果、過去のアジアの男色文化は葬りさられるのですが、しかし、それだけでは、わずか百年かそこらで、ここまで徹底して男色の習慣が忘れ去られてしまう事実を完全に説明するのは困難なように思えます。
男色の習俗が簡単に廃れてしまったのは、元々、男色という行為が、当事者間だけの秘め事として扱われてきて、それをおおやけに口にする習慣がなかったことも一因ではないでしょうか。
そもそも性行為というものは、相手が異性であろうが、同性であろうが、基本的に密室で行なわれる、きわめてプライベートな行為であって、周囲に積極的に宣伝する類のものではありません。
それでも、男と女がセックスした場合には、妊娠という事態が発生します。いくら隠れてこっそりヤッたとしても、お腹が膨らんできたら、一目瞭然、隠しようがないのです。
つまり、男女間のセックスには、快楽目的以外に、子供を作るという真面目な(?)目的もあって、デキちゃった婚にみられるように、妊娠したことをきっかけに結婚した途端、二人の仲は、それまでの個人的な関係から、結婚制度によって保証されると同時に、結婚制度に基づく義務と責任が発生する公然の夫婦関係に変わるのです。
一方、男色の方は、いくらヤッても妊娠して他人にばれる心配がないので、その関係はずっと秘密のまま維持しておくことが可能です。
ただし、昔の日本では、男色相手を自分の姉妹や娘と結婚させたり、養子にすることで、男色関係を家族制度に組み込むこともありました。
江戸時代の武士階級の間で盛んに行なわれていた、男色関係にある二人の武士が義兄弟の契りを結ぶ習慣も、男色関係を家族制度に組み込むひとつの試みとしてみることができます。
それでも、このような関係においても、男色関係そのものは、特に強調されることはなく、タテマエとしてはあくまでも普通の義理の親子や義兄弟として扱われていたわけです。
平安時代末期の院政期には、多くの公家は、男色関係にある男性の姉妹と結婚したり、子供同士を結婚させたりしていますが、このような場合でも、当事者の男色関係そのものは裏に隠れて、表に出ることはあまりなかったようです。
院政期社会の男色を研究した「院政期社会の研究」の著者、五味文彦氏は、当時の社会の女色と男色を比較して、前者が大きな広がりをもつ分散性・開放性を示すのに対し、後者は集中的で、密室的であると述べています。
また、随筆家の白洲正子はその著書「両性具有の美」で、男色が盛んなことで知られていた薩摩藩の「郷中」と呼ばれる若衆宿で、二才(にせ)と呼ばれる年長の少年グループと稚児と呼ばれる年少のグループが男色関係で結ばれていたのは周知の事実でありながら、
意外に男色に関する文献が残っていないのは、それがあまりに日常の生活に密着したものであったとともに、一種の秘密結社を形成していたためかも知れないと書いています。
実際、日本の若衆宿の起源であると考えられている「男の家」が存在するニューギニア島などメラネシアの島々に住む部族では、少年が一定の年齢に達すると、「男の家」で寝泊りして、
通過儀礼として年長の男たちと性行為をもつ習慣がありましたが、男色関係で結ばれた男たちは、男だけの秘密結社を作り、「男の家」でおこなわれる男同士の性行為については、女たちには秘密にされていたといわれています。
もちろん、女たちも「男の家」でなにが行なわれているかは、薄々、勘づいていたでしょうが、それを口に出して語ることはタブーだったみたいです。
秘密結社といえば、フリーメーソンが有名ですが、秘密結社の強みは、まさにその秘密性にあります。
メンバーがだれであるかは、当事者しか知らないし、当事者たちは、外部の人間の目に触れないところで交流し、互いに助け合うのです。
実際、人間は、自分にとって本当に大切な人物との関係については、軽々しく口にしないものです。
恥ずかしいから隠すのではなく、大切な関係だからこそ、それを自分と相手の二人だけが共有する秘密の関係にして、他人には漏らさないのです。
昔の日本の男は、女と男の両方とセックスできる両刀使いが一般的でしたが、彼らは、自分が結婚した女性である妻との関係を、家族制度を維持するための社会的な義務を伴う公的な関係とみなす一方で、
男同士の関係は純粋に個人的なプライベートな付き合いとみなし、この二種類の関係を区別して、状況に応じて使い分けていたのではないでしょうか。
それを考えると、日本で、ゲイリブの唱える「カミングアウト」や「同性婚」が、一般の同性愛者の間でいっこうに支持されない理由も、なんとなく理解できるような気がします。
男色を恥ずかしいと考える日本人が皆無であったことがよくわかり、あらためて過去の日本の性文化の大らかさに驚かされます。
しかし、このようなことは一般の日本人は殆ど知らないんじゃないでしょうか。
ホモの私でさえ、最近になって、ようやく知ったのですから。
問題は、過去にあれほど盛んだった日本の男色の習慣がなぜ、あっという間に衰退し、同性愛者という一部の人間だけが隠れておこなう後ろめたい行為になってしまったかということです。
一番の原因は、明治の開国によって、同性愛を罪悪とする欧米のキリスト教文化が日本に流入し、そのような欧米文化に迎合した明治政府が、日本の男色の習慣を野蛮なものとみなして積極的に排斥し、それを隠すようになったことにあると思います。
民俗学者の柳田国男をはじめ、多くの日本の学者はそういう政府の方針に従って、このような過去の日本人の性習俗を封じ込めることに努め、それが外国人だけでなく、国民の目にも触れないように注意深く隠匿してきたのです。
これは日本に限った話ではなく、19世紀半ば頃から欧米列強の植民地になったり、植民地化の脅威に直面したアジアの国々はすべて、男色=野蛮な風習という欧米人の価値観を受け入れて、自国の同性愛文化や伝統を否定するようになります。
たとえば、エジプトでは、男色のエピソードを削除した「千夜一夜物語」が出版されるようになりますし、インドではイスラム王朝のムガール帝国時代に、イスラム神秘主義者によって盛んに作られた美少年や若者を讃える多くの詩集が廃棄処分にされ、そのような詩を書く伝統そのものが途絶えてしまいます。
中国でも、「紅楼夢」や「金瓶梅」といった小説から男色のエピソードが削除されるようになるのです。
このような官民一体となった隠蔽工作の結果、過去のアジアの男色文化は葬りさられるのですが、しかし、それだけでは、わずか百年かそこらで、ここまで徹底して男色の習慣が忘れ去られてしまう事実を完全に説明するのは困難なように思えます。
男色の習俗が簡単に廃れてしまったのは、元々、男色という行為が、当事者間だけの秘め事として扱われてきて、それをおおやけに口にする習慣がなかったことも一因ではないでしょうか。
そもそも性行為というものは、相手が異性であろうが、同性であろうが、基本的に密室で行なわれる、きわめてプライベートな行為であって、周囲に積極的に宣伝する類のものではありません。
それでも、男と女がセックスした場合には、妊娠という事態が発生します。いくら隠れてこっそりヤッたとしても、お腹が膨らんできたら、一目瞭然、隠しようがないのです。
つまり、男女間のセックスには、快楽目的以外に、子供を作るという真面目な(?)目的もあって、デキちゃった婚にみられるように、妊娠したことをきっかけに結婚した途端、二人の仲は、それまでの個人的な関係から、結婚制度によって保証されると同時に、結婚制度に基づく義務と責任が発生する公然の夫婦関係に変わるのです。
一方、男色の方は、いくらヤッても妊娠して他人にばれる心配がないので、その関係はずっと秘密のまま維持しておくことが可能です。
ただし、昔の日本では、男色相手を自分の姉妹や娘と結婚させたり、養子にすることで、男色関係を家族制度に組み込むこともありました。
江戸時代の武士階級の間で盛んに行なわれていた、男色関係にある二人の武士が義兄弟の契りを結ぶ習慣も、男色関係を家族制度に組み込むひとつの試みとしてみることができます。
それでも、このような関係においても、男色関係そのものは、特に強調されることはなく、タテマエとしてはあくまでも普通の義理の親子や義兄弟として扱われていたわけです。
平安時代末期の院政期には、多くの公家は、男色関係にある男性の姉妹と結婚したり、子供同士を結婚させたりしていますが、このような場合でも、当事者の男色関係そのものは裏に隠れて、表に出ることはあまりなかったようです。
院政期社会の男色を研究した「院政期社会の研究」の著者、五味文彦氏は、当時の社会の女色と男色を比較して、前者が大きな広がりをもつ分散性・開放性を示すのに対し、後者は集中的で、密室的であると述べています。
また、随筆家の白洲正子はその著書「両性具有の美」で、男色が盛んなことで知られていた薩摩藩の「郷中」と呼ばれる若衆宿で、二才(にせ)と呼ばれる年長の少年グループと稚児と呼ばれる年少のグループが男色関係で結ばれていたのは周知の事実でありながら、
意外に男色に関する文献が残っていないのは、それがあまりに日常の生活に密着したものであったとともに、一種の秘密結社を形成していたためかも知れないと書いています。
実際、日本の若衆宿の起源であると考えられている「男の家」が存在するニューギニア島などメラネシアの島々に住む部族では、少年が一定の年齢に達すると、「男の家」で寝泊りして、
通過儀礼として年長の男たちと性行為をもつ習慣がありましたが、男色関係で結ばれた男たちは、男だけの秘密結社を作り、「男の家」でおこなわれる男同士の性行為については、女たちには秘密にされていたといわれています。
もちろん、女たちも「男の家」でなにが行なわれているかは、薄々、勘づいていたでしょうが、それを口に出して語ることはタブーだったみたいです。
秘密結社といえば、フリーメーソンが有名ですが、秘密結社の強みは、まさにその秘密性にあります。
メンバーがだれであるかは、当事者しか知らないし、当事者たちは、外部の人間の目に触れないところで交流し、互いに助け合うのです。
実際、人間は、自分にとって本当に大切な人物との関係については、軽々しく口にしないものです。
恥ずかしいから隠すのではなく、大切な関係だからこそ、それを自分と相手の二人だけが共有する秘密の関係にして、他人には漏らさないのです。
昔の日本の男は、女と男の両方とセックスできる両刀使いが一般的でしたが、彼らは、自分が結婚した女性である妻との関係を、家族制度を維持するための社会的な義務を伴う公的な関係とみなす一方で、
男同士の関係は純粋に個人的なプライベートな付き合いとみなし、この二種類の関係を区別して、状況に応じて使い分けていたのではないでしょうか。
それを考えると、日本で、ゲイリブの唱える「カミングアウト」や「同性婚」が、一般の同性愛者の間でいっこうに支持されない理由も、なんとなく理解できるような気がします。
by jack4africa
| 2008-02-29 00:21
| ホモ・ゲイ・オカマ