2008年 06月 17日
ソタディック・ゾーン |
2年前、メキシコに遊びにいったとき、出発前にメキシコのゲイガイド『GAY MEXICO』という本を読んでいたら、メキシコ人の男同士のセックスの慣習について次のような記述が見つかりました。
「メキシコでは男同士のセックスはよくおこなわれているが、それは常に隠されており、大っぴらにおこなってはならないという暗黙のルールが存在する。
多くの男は結婚して子供を持つが、男とも性関係を持つ。
しかし、彼らは自分自身を同性愛者だと思っていないし、自分が行なっている行為が同性愛行為にあたるとも思っていない。
単なる友情の延長線上にある行為としてしか認識していない」
また次のような記述もありました。
「メキシコの男はマッチョ意識が強く、男同士のセックスにおいて、ウケ役をやることを自分から認めることは決してないが、マッチョ同士が密室で2人きりになって、だれにも見られる恐れがないときは、しばしば片方のマッチョがウケ役をやる。
しかし、そのようなときでも、「掘ってくれ」などと言葉にして要求することはなく、黙って尻をこちらに向けてくるだけだ・・・」
これって私の知っているエジプトの男とまったく同じなんですね。エジプトとメキシコ、遠く離れた2つの国で、男性の性行動がこれほどまでに似通っているのは単なる偶然の一致でしょうか。
実はエジプトとメキシコにはもうひとつ共通するものがあります。
それはピラミッドです。
かってはピラミッドはエジプトからメキシコに伝えられたという説を主張する学者がいたそうですが、現在ではエジプトのピラミッドとメキシコのピラミッドの間には直接の関係がない、というのが学問上の定説になっているそうです。
それではなぜ、エジプトとメキシコに似たようなピラミッドが存在するかというと、現代のような高層建築技術が存在しなかった古代において、ある程度、高い建造物を造ろうとすれば、自然とピラミッドの形状になったというのです。
実際、ピラミッドが非常に安定していて、崩れにくい形状であることは素人目にもよくわかります。
もし、エジプトのピラミッドとメキシコのピラミッドに直接の関連性がなくて、ピラミッドが人類全体に共通する普遍的な高層建築の形態であるとすれば、
エジプトの男やメキシコの男に見られるバイセクシュアルな傾向も、人類にとって自然な、普遍的傾向であると考えることができるのではないでしょうか。
19世紀のアフリカ探検家で、『アラビアンナイト』の訳者としても知られているイギリス人、リチャード・F・バートンは、世界各地を旅行したあと、世界には、男色にたいして寛容な地域が存在すると主張し、そのような地域を「ソタディック・ゾーン(男色帯)」と命名しました。
バートンによると、この男色帯は、次のように構成されます。
1) 西は地中海両岸によって限られ、南仏、イベリア半島、イタリア、ギリ
シャ、それにモロッコからエジプトに至る沿岸地域を包括している。
(2) 東に行くにつれて、帯は狭まり、小アジア、メソポタミア、アフガニスタン、シンド、パンジャブ及びカシミール地方が含まれる。
(3) 印度シナになって地域は拡がりはじめ、中国、日本、トルキスタンを取り入れている。
(4) ついで帯は南洋諸島、アメリカ大陸を抱え込んでいるが、
(5) このような帯の内側では、男色的恋愛は一般的慣習になっていて、せいぜいが「単なる悪癖」程度としかみられていない。
しかし、境界より北か南に住んでいる諸民族においては、男色行為は限られた人間の間にしか見られず、男色行為を行う少数の人間は、それを行わない多数の人間から非常なる嫌悪感をもって見られている。
バートンは、このような地域による男色にたいする寛容さと不寛容さは、人種によるものでなく、地理的風土的なものであると主張しています。
しかし、男色の習俗がこれだけ広大な地域で、また様々な気候風土の土地で見られることを思えば、男色の傾向を地理的な要因や気候風土に結びつけるのには無理があるような気がします。
私はもっと簡単にソタディック・ゾーン=非西欧地域と考えた方がわかりやすいのではないかと考えます。
バートンはイギリス人なので、自分が属する西欧中心に物事を考えていますが、そのバートンの西欧的な視点をひっくり返して逆方向から見れば、西欧地域を除く世界の殆どの地域が男色にたいして寛大なソタディック・ゾーンに包括されることがわかります。
バートンの唱えるソタディック・ゾーンにはインドとブラック・アフリカが含まれていませんが、最近の研究(註1)では、これらの地域でも土着の伝統的な同性愛の習俗が存在したことが明らかになっています。
つまり、世界全体からみると、男色にたいして寛容な地域が圧倒的で、男色にたいして不寛容な西欧地域の方が特殊なのです。
そのため、ここで問題にすべきは、なぜソタディック・ゾーン(非西欧地域)では、男色に寛容であるかということではなく、なぜ西欧地域では男色に不寛容であるかということです。
実際、バートンが生きた19世紀のビクトリア朝のイギリスは、ヒステリックなまでに同性愛を弾圧したことで知られています。
元々、ユダヤ・キリスト教を伝統とする西欧社会では、非生殖目的の性行為を否定する傾向が強かったのですが、その傾向はビクトリア朝時代にピークに達し、
マスターベーション、男色、フェラティオ、クンニリングス、等、生殖につながらないすべての性行為が法律で禁止され、一度でも男色の罪を犯した人間は生涯、倒錯者あるいは堕落者の烙印を押されて生きていかなければならなかったのです。
世界にとって、また我々ホモにとって不幸なことは、このような生殖目的以外の性行為を極端に罪悪視する道徳観念を持つビクトリア朝時代のイギリスをはじめとする西欧諸国が世界に先駆けて産業革命を起こして近代化を達成し、
非西欧地域を侵略、植民地化して、植民地の住民が持っていた同性愛を含む性にたいして寛容な文化を否定し、これらの住民にキリスト教に特有の禁欲的な道徳観念を押しつけたことです。
バートンによると、アメリカ大陸では、男色の習俗は、ベーリング海峡からマゼラン海峡まで、すべての先住民の間に見られたとのことですが、これらの地域の男色の流行に対するキリスト教徒である征服者の嫌悪感が、征服者による先住民の虐殺行為の引き金になったといわれています。
また南太平洋の島嶼の住民は虐殺を免れたものの、植民地本国から派遣されたキリスト教宣教師によって、その大らかな性文化を批判され、禁欲的な道徳観念を押しつけられました。
現在、ハワイなどで女性が着ているムームーという服は、キリスト教宣教師が考案したものだそうで、元々、南太平洋の島嶼の住民は男女ともラヴァラヴァと呼ばれる腰布しか身につけていなかったのが、裸でいることを罪悪であると考える宣教師によって、あのような服を着ることを強制されたのだそうです。
昔、私がケニアにいたときも、ケニア北部のルドルフ湖沿岸に住む男女とも全裸で生活しているトルカナ族という部族に「パンツを穿かせる運動」というのをケニア政府が音頭をとってやってましたが、どうせ、キリスト教の宣教師が裏で煽っていたにちがいありません。
実際、キリスト教の宣教師というのは、西欧列強による非西欧地域の植民地化の手先となって働いただけでなく、キリスト教の神の名の下に、これら西欧の植民地となった非西欧地域の文化の破壊に大きく寄与したわけで、それを考えると、彼らの罪は万死に値すると思いますね。
西欧列強による植民地化の波は、アラブ・イスラム圏にまで及び、その結果、バートンによると、エジプトでは、特に上流階級の人間は、同性愛を嫌悪する西洋人の目を気にして、それまでかなり大っぴらに行なっていた同性愛行為を外国人の目から隠すようになったといいます。
もちろん、このことはエジプト人が男色の習慣を放棄したことを意味するわけではありません。
エジプト人はそれまで大っぴらに行っていた男色の慣習を、隠された秘密の快楽として存続させたのです。
日本についていえば、明治維新以後、欧米による植民地化に抵抗するために、みずから積極的に西洋文化を取り入れ、模倣し、その過程で、同性愛を罪悪視するキリスト教的な道徳観もある程度、受け入れました。
おそらく、明治の日本の指導者達は、イギリスをはじめとする西欧諸国が産業革命を起こして近代化を達成したことと、これら西欧諸国の国民が禁欲的な道徳観念を持つキリスト教徒であることの間になんらかの因果関係をかぎとったのでしょう。
その結果、日本では同性愛=男色の習慣は、徐々に目立たなくなっていったのですが、元々、キリスト教的なホモフォビアとは無縁であったことから、欧米のような、同性愛者に対する激しい弾圧や差別は起こりませんでした。
このようなソタディック・ゾーン(非西欧地域)の植民地化あるいは西洋化の結果、これらの地域の同性愛文化を含む土着文化が大きく破壊され、変容させられたわけですが、だからといって、それらの文化が完全に死に絶えたわけはありません。
冒頭で紹介したメキシコやエジプトの例が示すように、世界各地で今もなお、かっての同性愛文化の名残りが見られるのです。
このことは文化が持つ生命力がいかに強いかをよく示していると思います。
私自身、若い頃、ギリシャを旅行したとき、ギリシャ人の男性の間に同性愛的傾向がはっきり見られることに気がついて、古代ギリシャの同性愛の伝統が現在まで連綿と受け継がれていることに感動したのを覚えています。
ただし、かってソタディック・ゾーンに存在し、現在もなおこれらの地域で名残りが垣間見られる同性愛文化と現在、欧米で主流となっているゲイカルチャーの間には大きな相違がみられます。
まず、ソタディック・ゾーンでは、普通の男性が男性と女性の両方とセックスしますが、これはゲイとストレートをはっきりと区別する欧米のゲイカルチャーとは対照的です。
ソタディック・ゾーンにも男性としかセックスしない男性が存在し、これが欧米でいう同性愛者に相当しますが、このような男性は一般的にいって、女装していたり、女装とまでいかなくても、その女性的な話し方や仕草で一目でホモと分かるタイプが多いです。
このような女性的男性あるいは女性化した男性は現在でも、インドのヒジュラ、タイのカゥーイ、フィリピンのバクラなど、インドや東南アジアでは多数、目にすることができます。
またかってアメリカ・インディアンの部族では、女性的男性は、女装して普通の女として生き、男性と結婚する習慣があったといわれていますが、現在でも、メキシコのオアハカ州に住む先住民のサボテカ族にはムシェ (Muxes) と呼ばれる女装の男性が存在し、彼らだけのバスケットボールチームも存在するそうです。
あとアラブ・イスラム圏でも女装の男性はけっこう見うけられ、同性愛行為が死刑になることで悪名高いイランでも、性転換手術は合法だそうです。
男から女に性転換した人間が男とセックスしても、それは同性愛行為にはあたらず、異性愛行為としてみなされるということらしいです。
このようなジェンダーを固定する生き方は、ジェンダーフリーを唱えるフェミニストや一部のゲイリブには気に入らないでしょうが、ホモの本質はオンナであると考える私には、女性的男性に女として生きることを認めることはかなり合理的かつ実際的な解決法であるように思えます。
少なくとも、女性的な男性を馬鹿にしたり、軽蔑したり、苛めることしか能のない西欧社会と比較して、女性的男性が男性よりもむしろ女性に近い存在であることを認めて、それに相応しい居場所を与える非西欧社会(ソタディック・ゾーン)の方がよほど人間的で、寛容な社会といえるのではないでしょうか。
このように考えると、我々ホモにとっては、西欧社会よりも非西欧社会であるソタディック・ゾーンの方がずっと住みやすいところのように思えます。
少なくとも、ノンケ好きの私には口説く相手がホモであるかノンケであるか、いちいち区別する必要のない、アラブ・イスラム圏や中南米地域の方がずっと好ましいです。
しかし、このようなソタディック・ゾーンに共通のバイセクシュアル文化を破壊しようとする勢力が近年、台頭しつつあります。
アメリカ生まれのゲイリブ運動を支持するゲイを自称する同性愛者たちです。
冒頭で紹介したメキシコのゲイガイドブック『GAY MEXICO』の著者はアメリカ人ですが、彼はメキシコでは、同性愛行為が社会的に曖昧な形で広く浸透している現実を認めながらも、
「最近ではメキシコでも、家族や結婚、そして人々のホモフォビアに規定されない(アメリカのゲイのライフスタイルに近い)ライフスタイルを模索するゲイのコミュニティーが形成されつつある」
と、あたかもそれが歓迎すべき現象であるかのように書いています。
しかし、私には、自分の家族よりも男とセックスすることの方を大切に考え、人間を同性愛的な存在と異性愛的な存在とに明確に区別して、そのようにして区別された同性愛者、
つまり、自分が「ゲイ」であることを自覚する同性愛者だけで閉鎖的なコミュニティーを形成して生活するという、アメリカのゲイリブが提唱するライフスタイルがそんなに素晴らしいものであるとは思えません。
アメリカのゲイ達がみずからの意思でそのような生き方を選択するのは彼らの勝手ですが、そのような生き方が「同性愛者としての正しい生き方」で、世界中の同性愛者が自分達の生き方を模倣べきであるなどと、彼らが考えているとしたら、それは傲慢以外のなにものでもないでしょう。
そもそもアメリカのゲイリブ運動というのは、厳格なヘテロ社会であるアメリカ社会に異議を唱え、多様な性的指向を受け入れるように訴える運動だったはずです。
そのようなゲイリブの運動から生まれたゲイリブ思想がいつの間にか排他的で硬直的なイデオロギーとなり、自分達が唯一正しいと信じる画一的な「ゲイ文化」を非西欧社会に広める(押しつける)ことが自分達の使命である、などと考えるゲイリブ活動家が現れるようになったのは、皮肉な現象であるといわざるを得ません。
世界の同性愛者に対して自分達のライフスタイルを一方的に押しつけるこのようなアメリカのゲイリブの姿は、私の目には、かって非西欧地域を植民地化した西欧諸国から派遣されたキリスト教宣教師が、
植民地に固有の文化を否定して、植民地の住民に自分達の偏狭なキリスト教的道徳観念を押しつけた姿と二重写しになって映ります。
われわれソタディック・ゾーン(非西欧地域)に住むホモとしては、このような文化的植民地主義ともいうべきアメリカのゲイリブの声高な主張を無批判に受け入れる前に、我々自身がかって持っていた性愛文化の豊かさを思い起こす必要があるのではないでしょうか。
註1:ブラック・アフリカについては、Boy-Wives and Female-Husbands by Will Rascoe、インドについては、Same-Sex Love in India by Ruth Vanitaを参照。
その他の参照文献:
・GAY MEXICO by Eduardo David
・The Sotadic Zone : Social and Sexual Relations of
Mohammedan Empire by Sir Richard F. Burton
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by jack4africa
| 2008-06-17 00:12