2008年 07月 18日
イスラム圏のダンシングボーイ |
サマルカンドのダンシングボーイ(写真左)
スーダンの首都ハルツームは、イギリスがスーダンを植民地にしたときに建設した行政都市で、良くいえば整然とした、悪くいえばだだっぴろいだけの無味乾燥な面白みのない町ですが、ナイル河を挟んだ対岸の町オムドゥールマンはイスラム教徒の造った町で規模は小さいものの、カイロのハーン・ハリリーのような活気のあるスーク(市場)もあって、見物するにはこちらの方が面白いです。
このオムドゥールマンでは、1950年代まで奴隷市が立っていたそうですが、70年代の後半にハルツームに駐在していた私の知人のイギリス人外交官によると当時、ここには若い男の売春宿があったそうです。
友人はこの売春宿の常連だったそうで、新しい男の子が入ってくると売春宿の親父が「旦那、良い子が入りやしたぜ」と電話をかけてくるのだそうです。
知らせを受けてハルツームからオムドゥールマンまで車を飛ばして行くと、売春宿では親父が迎えてくれて、部屋に通されてお茶をふるまわれ、そのあと新入りのお目見えになるのですが、そのとき新入りの子は必ず客の前で現地のアラブ音楽に合わせて1曲踊ってみせるんだそうです。
客は彼が踊る姿をじっくり眺めながら品定めをするという段取りになっていて、そのへんの原理はバンコクのゴーゴーバーなんかと変わらないのですが、この習慣はかってアラブ・イスラム圏に存在したダンシングボーイという職業の名残りと考えられます。
イスタンブールやカイロなど中東の都市のナイトクラブに行くと、女性ダンサーが踊るベリーダンスのショーを鑑賞することができますが、昔は女性ダンサーではなく、主として少年のダンサーがあの手のダンスを踊っていたんだそうです。
このようなダンシングボーイの存在は、アラブ・イスラム圏全域にわたって見られたそうですが、そもそもの起源は、これらの地域へのイスラム教の伝播と浸透に関係があるといわれています。
ご存知のようにイスラム社会では、女性を家の中に閉じ込めて、外には出したがりません。どうしても外出する必要がある場合は、顔をベールで覆って歩かなければなりません。
イスラム教が浸透する以前は、日本の芸者にあたる女性の踊り子が多数いて、酒席に招かれて、男性客の前で踊りを披露していたそうですが、女性が男性の前で肌をあらわにして踊るのはイスラムの教えに反するとして、女性の代わりに十代の少年達が宴席で踊るようになったのだそうです。
これらの少年の多くは女装しているか、女装とまでいかなくとも中性的な派手な衣装を身にまとい、宴席で踊りや歌を披露し、楽器を演奏し、男性客に酌をし、彼ら相手に売春もしたそうです。
このへんの事情は、江戸時代の日本で、出雲阿国(いずものおくに)が始めた女歌舞伎が禁止された結果、少年達が演じる若衆歌舞伎の人気が高まり、これら歌舞伎役者の少年達が舞台を務めるかたわら、売春をするようになったのとよく似ています。
江戸時代の若衆や陰間が女装していたのもダンシングボーイと共通していますし、陰間茶屋では陰間のことを「子供」と呼んでいましたが、中央アジアでもダンシングボーイを子供を意味する「バッチャ」と呼んでいたそうです。
さらに若衆を買っていた江戸時代の日本の男性も、ダンシングボーイを買っていたイスラム圏の男性も、現在でいうホモではなく、女性ともセックスしていた両刀使いだった点も共通しています。
このことは、江戸時代の日本やアラブ・イスラム圏では、女性だけでなく、少年も成人男性の性愛の対象になっていて、女色と男色が同等の価値を持つ快楽とみなされていたことを意味します。
1867年に中央アジアを旅行したアメリカ人外交官、ユージーン・スカイラーは、彼がウズベキスタンで見聞したダンシングボーイについて次のように書いています。
このようなダンシングボーイの伝統は、日本で明治になって陰間茶屋が姿を消したのと同様、近代になってアラブ・イスラム圏に西洋文化が流入し、同性愛を罪悪視する欧米のキリスト教的価値観が浸透するにつれて、徐々にイスラム社会から姿を消していきます。
しかし、その伝統は完全に廃れたわけではなく、アフガニスタンなどではまだ残っているそうです。
昨年の10月、欧米のメディアがアフガニスタン北部の族長やムジャヒジンの司令官の間に10代の少年をバッチャとして囲い、愛人にする習慣があることを一斉に報じました。
アメリカが2001年の9.11テロのあと、タリバンを殲滅するために、アフガニスタンを空爆し、アフガニスタンの政治に介入するまで、この地域に対する世界の関心は非常に低く、そのため、ダンシングボーイの伝統も世界に知られることなくひっそりと続いていたものと思われます。
しかし、このダンシングボーイの存在を報じた欧米のメディアが、少年とそのパトロンの男性の関係を形容するのに「性的虐待」(Sexual Abuse) や「性奴隷」(Sex Slave) などといった紋切り型の言葉を使っていたのには、うんざりさせられましたね。
上のアメリカ人外交官の報告にもあるように、バッチャになった少年たちはオトナの男たちから性的虐待なんか受けておらず、むしろ崇拝の対象になって大事にされていたわけで、そのへんの事情は現在のアフガニスタンでも本質的に変わらないでしょう。
たとえ男たちが少年たちとセックスしていたとしても、それは性的虐待などと呼ぶような性質のものではない筈です。
少年とのセックス=性的虐待と決めつけるのは、欧米キリスト教圏に特有の性を罪悪視する道徳観から来た見方で、そのようなキリスト教的価値観を欧米とは文化のまったく異なるイスラム圏に押しつけるのは、傲慢以外のなにものでもありません。
アメリカ軍が激しい空爆や地上戦を行なったお陰で一掃されたと伝えられていたタリバンがいつの間にやら息を吹き返し、アフガニスタンの国土の7割を実効支配するまでに勢力を盛り返しているという事実は、
この地域に固有の伝統や価値観がいかに根強いもので、それゆえ、この地域に欧米的価値観を導入するのがいかに困難であるかをよく示しています。
また一時期、ダンシングボーイが姿を消していたエジプトやトルコでも、最近、男性のベリーダンサーが復活してきているそうです。
彼らは「売春」や「同性愛」と結び付けられていたかってのダンシングボーイとは一線を画し、「アーティスト」として活動しているそうですが、
女性のそれを見ればわかるように、ベリーダンスというのはかなりセクシーで官能的な踊りで、男性が踊ってもやはり妖しい雰囲気になって、ストリップを観ているような気分になるのはいたしかたのないところでしょう。
世界男色帯
スーダンの首都ハルツームは、イギリスがスーダンを植民地にしたときに建設した行政都市で、良くいえば整然とした、悪くいえばだだっぴろいだけの無味乾燥な面白みのない町ですが、ナイル河を挟んだ対岸の町オムドゥールマンはイスラム教徒の造った町で規模は小さいものの、カイロのハーン・ハリリーのような活気のあるスーク(市場)もあって、見物するにはこちらの方が面白いです。
このオムドゥールマンでは、1950年代まで奴隷市が立っていたそうですが、70年代の後半にハルツームに駐在していた私の知人のイギリス人外交官によると当時、ここには若い男の売春宿があったそうです。
友人はこの売春宿の常連だったそうで、新しい男の子が入ってくると売春宿の親父が「旦那、良い子が入りやしたぜ」と電話をかけてくるのだそうです。
知らせを受けてハルツームからオムドゥールマンまで車を飛ばして行くと、売春宿では親父が迎えてくれて、部屋に通されてお茶をふるまわれ、そのあと新入りのお目見えになるのですが、そのとき新入りの子は必ず客の前で現地のアラブ音楽に合わせて1曲踊ってみせるんだそうです。
客は彼が踊る姿をじっくり眺めながら品定めをするという段取りになっていて、そのへんの原理はバンコクのゴーゴーバーなんかと変わらないのですが、この習慣はかってアラブ・イスラム圏に存在したダンシングボーイという職業の名残りと考えられます。
イスタンブールやカイロなど中東の都市のナイトクラブに行くと、女性ダンサーが踊るベリーダンスのショーを鑑賞することができますが、昔は女性ダンサーではなく、主として少年のダンサーがあの手のダンスを踊っていたんだそうです。
このようなダンシングボーイの存在は、アラブ・イスラム圏全域にわたって見られたそうですが、そもそもの起源は、これらの地域へのイスラム教の伝播と浸透に関係があるといわれています。
ご存知のようにイスラム社会では、女性を家の中に閉じ込めて、外には出したがりません。どうしても外出する必要がある場合は、顔をベールで覆って歩かなければなりません。
イスラム教が浸透する以前は、日本の芸者にあたる女性の踊り子が多数いて、酒席に招かれて、男性客の前で踊りを披露していたそうですが、女性が男性の前で肌をあらわにして踊るのはイスラムの教えに反するとして、女性の代わりに十代の少年達が宴席で踊るようになったのだそうです。
これらの少年の多くは女装しているか、女装とまでいかなくとも中性的な派手な衣装を身にまとい、宴席で踊りや歌を披露し、楽器を演奏し、男性客に酌をし、彼ら相手に売春もしたそうです。
このへんの事情は、江戸時代の日本で、出雲阿国(いずものおくに)が始めた女歌舞伎が禁止された結果、少年達が演じる若衆歌舞伎の人気が高まり、これら歌舞伎役者の少年達が舞台を務めるかたわら、売春をするようになったのとよく似ています。
江戸時代の若衆や陰間が女装していたのもダンシングボーイと共通していますし、陰間茶屋では陰間のことを「子供」と呼んでいましたが、中央アジアでもダンシングボーイを子供を意味する「バッチャ」と呼んでいたそうです。
さらに若衆を買っていた江戸時代の日本の男性も、ダンシングボーイを買っていたイスラム圏の男性も、現在でいうホモではなく、女性ともセックスしていた両刀使いだった点も共通しています。
このことは、江戸時代の日本やアラブ・イスラム圏では、女性だけでなく、少年も成人男性の性愛の対象になっていて、女色と男色が同等の価値を持つ快楽とみなされていたことを意味します。
1867年に中央アジアを旅行したアメリカ人外交官、ユージーン・スカイラーは、彼がウズベキスタンで見聞したダンシングボーイについて次のように書いています。
中央アジアのイスラム教徒たちは、女性が公共の場で踊ることを禁止しているが、代わりに「バッチャ」あるいはダンシングボーイと呼ばれる少年達がいて、成人男性に歌や踊りのエンターテインメントを提供している。
バッチャは中央アジア全域で見られるが、特にブハラとサマルカンドで人気があり、我が国の一流の歌手やダンサーと同じ様に人々の尊敬を集めている。
バッチャが踊ると、観衆達はその一挙手一投足に熱狂し、バッチャから直接、お茶を振舞われる幸運な男は、感動のあまり「私はあなたの奴隷です!」などと口走る。
バッチャがバザール(市場)を歩くときは、あちこちの店主から声がかかり、自分の店で休憩していくように勧められる。
ブハラやサマルカンドの裕福な男性にとって、バッチャを愛人として囲うことは、紳士の条件になっている。
またそれほど裕福ではない男たちは、仲間で金を出し合ってバッチャを呼び、宴会を開いて、その踊りや歌を楽しむ。
バッチャのパトロン達は大抵、バッチャに茶店を買い与え、人気のあるバッチャの店はいつも満員盛況の賑わいである。
少年達は髭の剃り跡が濃くなる20代半ばまでバッチャとして働くが、それ以後は、普通の男としての人生をおくる。
このようなダンシングボーイの伝統は、日本で明治になって陰間茶屋が姿を消したのと同様、近代になってアラブ・イスラム圏に西洋文化が流入し、同性愛を罪悪視する欧米のキリスト教的価値観が浸透するにつれて、徐々にイスラム社会から姿を消していきます。
しかし、その伝統は完全に廃れたわけではなく、アフガニスタンなどではまだ残っているそうです。
昨年の10月、欧米のメディアがアフガニスタン北部の族長やムジャヒジンの司令官の間に10代の少年をバッチャとして囲い、愛人にする習慣があることを一斉に報じました。
アメリカが2001年の9.11テロのあと、タリバンを殲滅するために、アフガニスタンを空爆し、アフガニスタンの政治に介入するまで、この地域に対する世界の関心は非常に低く、そのため、ダンシングボーイの伝統も世界に知られることなくひっそりと続いていたものと思われます。
しかし、このダンシングボーイの存在を報じた欧米のメディアが、少年とそのパトロンの男性の関係を形容するのに「性的虐待」(Sexual Abuse) や「性奴隷」(Sex Slave) などといった紋切り型の言葉を使っていたのには、うんざりさせられましたね。
上のアメリカ人外交官の報告にもあるように、バッチャになった少年たちはオトナの男たちから性的虐待なんか受けておらず、むしろ崇拝の対象になって大事にされていたわけで、そのへんの事情は現在のアフガニスタンでも本質的に変わらないでしょう。
たとえ男たちが少年たちとセックスしていたとしても、それは性的虐待などと呼ぶような性質のものではない筈です。
少年とのセックス=性的虐待と決めつけるのは、欧米キリスト教圏に特有の性を罪悪視する道徳観から来た見方で、そのようなキリスト教的価値観を欧米とは文化のまったく異なるイスラム圏に押しつけるのは、傲慢以外のなにものでもありません。
アメリカ軍が激しい空爆や地上戦を行なったお陰で一掃されたと伝えられていたタリバンがいつの間にやら息を吹き返し、アフガニスタンの国土の7割を実効支配するまでに勢力を盛り返しているという事実は、
この地域に固有の伝統や価値観がいかに根強いもので、それゆえ、この地域に欧米的価値観を導入するのがいかに困難であるかをよく示しています。
また一時期、ダンシングボーイが姿を消していたエジプトやトルコでも、最近、男性のベリーダンサーが復活してきているそうです。
彼らは「売春」や「同性愛」と結び付けられていたかってのダンシングボーイとは一線を画し、「アーティスト」として活動しているそうですが、
女性のそれを見ればわかるように、ベリーダンスというのはかなりセクシーで官能的な踊りで、男性が踊ってもやはり妖しい雰囲気になって、ストリップを観ているような気分になるのはいたしかたのないところでしょう。
世界男色帯
by jack4africa
| 2008-07-18 00:12