2008年 10月 24日
教育としての少年愛 |
古代ギリシャの男同士の愛の基本は、年長の男性が年下の少年を愛する少年愛でした。
古代ギリシャの代表的な都市国家(ポリス)アテナイでは、妻帯者である年長の市民が、同じ市民階級の少年を心身ともに愛し、教え導くことで、一人前の市民あるいは戦士に育てることが市民の義務であるとみなされていました。
このような少年愛の関係では、少年を愛する年長者をエラステスと呼び、愛される少年をエロメノスと呼びました。
エラステスは、エロメノスを一人前の市民あるいは戦士に育てるという義務を負っていることから、少年と交わって肉欲を満たすことよりも、少年を徳のある立派な青年に育てることに心を砕くべきであると考えられていました。
ギリシャの哲学者、プラトンは、その対話編「饗宴」で、師のソクラテスの口を借りて、少年愛の対象には外見の美しい少年よりも、
性格の善良な少年を選ぶべきであると主張し、少年にたいする肉体的な愛を精神的な愛に昇華させることの重要性を説いています。
このような少年にたいする精神的な愛をプラトニックラブと呼んだわけで、本来、この言葉は男同士の精神的な愛を指すもので、
「それを知らずに、女色に関してプラトニックラブを云々するのは、噴飯の至りである」とかの南方熊楠先生もおっしゃっておられます。
ギリシャで少年愛の対象となった少年の年齢は大体、12歳頃から18歳頃までだったそうです。
より軍事国家としての性格が強かったスパルタでは、男の子は7歳になると親元から引き離され、戦士になる教育を受けるために男だけの集団生活を始めたといわれていますが、
将来、戦士として見込みのある少年には、12歳くらいになると大抵、年長の愛人(エラステス)ができて、少年が立派な戦士に育つように指導したそうです。
スパルタと同様、軍事国家の性格が強かったテーベでは、総勢300人、150組のエラステスとエロメノスのカップルで結成された「神聖隊」と呼ばれる精鋭部隊が存在しました。
彼らは戦闘では常に先頭に立って戦い、非常に勇敢であったといわれています。
愛する側の年長者であるエラステスは、自分が愛する少年の前で卑怯な振る舞いを見せることは恥辱であると考えて勇敢に戦い、愛される少年であるエロメノスの方も、自分を愛する年長者を失望させないために勇敢に戦ったといいます。
このようなエラステスとエロメノスの戦士間の友愛は、かって日本のサムライの間でみられた、愛する側の年長者を「念者」、愛される側の少年を「若衆」と呼んだ衆道の関係によく似ています。
日本の衆道においても、ギリシャの少年愛と同様、単に肉体的な関係だけでなく、精神的な面に重点が置かれました。
男色の気風が盛んだった土佐藩などでは、少年が一定の年齢に達すると、少年の両親がこれと見込んだしかるべき武士に息子の念者になって保護してくれるように依頼するようなことも行なわれていたそうで、
古代ギリシャと同様、当時の衆道には年長のサムライが少年を一人前のサムライにするという教育的側面があったことを窺わせます。
また日本のサムライと同様、古代ギリシャの戦士たちも同性愛一辺倒ではなく、エロメノスとして年長の男性に愛された少年も一定の年齢(大体25歳頃)に達すると結婚して子供を作り、
その後は、自分がエラステスになって愛する少年であるエロメノスを見つけて世話をしたといわれています。
女性と結婚して子供を作ることは市民(戦士)としての義務であると考えられていて、スパルタなどでは、適齢期を過ぎても結婚せずに、子供を作る義務を怠っている戦士は、罰として少年とセックスすることを禁じられたそうです!
また年長の男性が少年を愛する少年愛が奨励される一方で、オトナになっても男同士のセックスで少年のようにウケ役を務めることを好む男性は徹底して侮蔑の対象になったといわれています。
この種の男たちは、アリストファネスの喜劇で、「尻にしまりのない奴」とか、「尻の広がった奴」とか「尻に穴ぼこを開ける奴」などと呼ばれて、散々にからかわれています。
もし私が古代ギリシャに生まれたら、さぞかし辛い人生を歩むことになったと思いますが、
このようなアナルセックスにおいてウケ役、つまり女役を務めるオトナの男性が強い軽蔑の対象になったのは、古代ギリシャでは、女性の地位が非常に低かったことと関係があるようです。
古代ギリシャでは、女性は人間(男)に厄災をもたらす存在であると考えられていたのです。
ギリシャ神話によると、最初の人間の女であるパンドラは、神々の王、ゼウスの監視を欺き、天界から火を盗み出して人間に与えたプロメテウスの窃盗行為によって、
不遜にも天界に属する火を手に入れた人間に報復するために、ゼウスの命令によってオリンポスの神々によって造られたことになっています。
最初の人間の女であるパンドラは、土と水を混ぜ合わせて、美しい処女の形に造られ、ゼウスは、女神、アテナに命じて、この人間の女に機織りの技術を与えます。
その結果、人間の女は機織りの技術を使って美麗な布を織り、美しく装うことができるようになります。
さらに仕上げとして、ゼウスは、美と愛の女神であるアフロディティに命じて、人間の女にエロスの魅力を与えて、男たちが彼女をひと目みた瞬間、恋の虜になるようにしむけます。
人間の女の外見をこのように美しく造り、男たちにとって抵抗し難い魅力を持つようにしてから、ゼウスは最後にヘルメスに命じて、
人間の女の内部に、恥知らずな「犬の心」と、その当然な発現である「盗人の性」とを女の本質として入れさせます。
その結果、人間の男は、その妻となる女の本質である「盗人の性」によって絶えず苦しみながら生きていかなければない運命を与えられることになったのです。
ゼウスは、パンドラに美しい花嫁の装いをさせて、神々からの人間への贈り物として、プロメテウスの弟のエピメテウスの元に送り込みます。
エピメテウスは、プロメテウスからゼウスからの贈り物を絶対に受け取ってはならないと注意されていたにもかかわらず、パンドラの美しさに目がくらんで、彼女を妻として貰い受けてしまいます。
パンドラを妻として貰い受けて、自分の家に住まわせたことで、エピメテウスは、人間にとって取り返しのつかない大きな不幸の原因を作ってしまいます。
というのは、パンドラは嫁入りしたエピメテウスの家に厳重に蓋をされた箱を見つけ、好奇心からその蓋を開けてしまうのです。
この箱には、人間の死と苦しみの原因になる病気をはじめとするあらゆる災いが封じ込められていて、蓋が開くと、それらの災いはいっせいに外に飛び出し、それ以後、人間は、これらの災いに苦しめられることになったのです。
これが有名な「パンドラの箱」の物語ですが、この神話に表現されているような、古代ギリシャ人の女性にたいする根強い偏見と蔑視が、
女性と同様にセックスでウケ役を務める女っぽい男にたいする蔑視につながっていったのではないかと推察されます。
古代ギリシャの都市国家は、西洋民主主義の源泉といわれていますが、その実体は、市民としての様々な特権を享受する「自由市民」と呼ばれる比較的少数の成人男性で構成されるエリートが社会的権力を独占し、
市民権をもたない女性、外国人、奴隷、子供で構成される下位グループを支配する厳格な階級社会でした。
そして、セックスでは、支配階級である成人男性は常にペニスを挿入する能動的な役割を演じ、女性や少年、奴隷などは常にペニスを挿入される受動的な役割を演じたといわれています。
つまり、古代ギリシャでは、セックスにおける役割が社会的地位に密接に結びついていて、成人男性=支配者=タチ役、女性・少年・奴隷=被支配者=ウケ役という明確な図式ができあがっていたのです。
そのため、同じ少年であっても、自由市民の少年とのセックスでは、少年のバックにペニスを挿入することで、未来の市民である少年に恥辱を与え、女性化させてしまい、
少年が将来、成人男性としての権威を完全に身につけられなくなることを懸念して、アナルセックスではなく、素股を使うことが奨励されたといわれています。
この自由市民の少年とのセックスで素股を使うというのは、あくまでもタテマエでしかなく、実際にはアナルセックスもよく行なわれていたそうですが、たとえタテマエであっても、
そのような規範ができていたということは、古代ギリシャ人が、セックスにおいて受動的な立場に身を置くことをいかに不名誉なことと考えていたか、よく表しています。
その結果、オトナになっても男性相手のセックスでウケ役に回ることを好む男性は、成人男性としての威厳をみずから放棄し、
あえて被支配者である下位階級の女性や奴隷の身分に身を落とすことを望む非常識な人間として、激しい非難や侮蔑の的になったのです。
『同性愛の百年間』の著者であるアメリカの学者、デイヴィッド・M・ハルプリンは、現在でも、欧米人の男性の間に、女性的=受動的な人間であるとみられることへの強い恐怖が存在するのは、
この古代ギリシャ人の感性を受け継いでいるためではないかと推論しています。
実際、欧米のゲイが、みずからを「男性としてのアイデンティティーを持つゲイ」(Male Identified Gay) と称して男性であることにこだわり、アナルセックスではウケ役だけでなく、
タチ役もするリバーシブルなゲイであることを理想とするのは、裏返せば、それだけウケ身の女役を演じるホモとしてみられることへの恐怖が大きいということでしょう。
また欧米のゲイがジム等に通って身体を鍛え、マッチョな肉体を誇示するのも、男性の肉体の美しさを賛美した古代ギリシャの肉体主義を受け継いでいるような気がします。
さらに、古代ギリシャの「セックスでウケ身になる側」、つまり、成人男性にペニスを挿入され、支配される側の下位グループに属した女性、女性的男性、奴隷をそれぞれ、現代アメリカの女性、男性同性愛者、黒人に置き換えてみると、
なぜアメリカでウーマンリブやゲイリブ、黒人解放運動が起こったかがよく理解できるような気がします。
そういう意味で、古代ギリシャ文明は、良くも悪くも、西洋文明の源流をなしているように思えます。
参照文献:
ギリシャ人の性と幻想、吉田敦彦
同性愛の百年間、ギリシャ的愛について、デイヴィッド・M・ハルプリン
「世界男色帯」
by jack4africa
| 2008-10-24 00:07