ジャックの談話室:アフリカの記憶
2018-06-04T19:07:42+09:00
jack4africa
自分の性的嗜好について日頃、考えていることや世界の同性愛文化の比較、世界の男色習俗の紹介、旅行記、大好きなアフリカ大陸や映画の話
Excite Blog
タッシリ・ナジェール
http://jack4afric.exblog.jp/27411108/
2017-01-03T00:01:00+09:00
2017-01-29T13:19:40+09:00
2017-01-03T00:04:44+09:00
jack4africa
アフリカの記憶
タッシリ・ナジェールはアルジェリア南東部、リビアとニジェールの国境に近い、サハラ砂漠のど真ん中に500キロにわたって連なる台地状の岩の山脈です。
このタッシリ・ナジェール山地には今から1万2000年前から6000年前までの間に描かれた数多くの岩壁画が存在します。
岩壁画が描かれた当時、この地域は現在のような砂漠ではなくサバンナで、カバやワニ、ゾウ、キリン、バッファロー、サイなど多数の野生動物が生息していたそうで、
岩壁にはこれらの野生動物とそれを狩る当時の人間たちの姿が生き生きとした筆致で描かれています。
タッシリ・ナジェールの岩窟画の観光の拠点になるのはジャネットというオアシスの村で、
私と二人の仲間はアルジェのレンタカー屋で借りたドイツ車オペルを運転して約3000キロ離れたジャネットを目指したのですが、
最初の2300キロは舗装道路で車が殆ど走っておらず、時速160キロでかっ飛ばすことができました。
しかし残りの700キロは未舗装の「洗濯板」と呼ばれるガタガタ道で、振動で身体中のネジが外れてしまうのではないかと思うほどでした。
それでもアルジェを出発してから3日目にジャネットに到着し、ホテルに一泊してから翌朝、岩窟画のある岩の山地に向かったのでした。
タッシリ・ナジェールの山地は、映画「未知との遭遇」に出てきたテーブル・マウンテンを横に引き伸ばしたような形をしていて、
トゥアレグのガイドと一緒に四輪駆動車で山の麓まで行き、そこから殆ど垂直に近い絶壁を頂上までよじ登って行きました。
台地なので頂上は平地になっていて、様々な形状の岩の塊が連なり、まるで月世界でした。
草木は一本も生えておらず、岩陰から突然、恐竜が現れてもおかしくない雰囲気でした。
私たちはガイドの案内で岩壁画を見てまわりました。
キリンやバッファローなどの野生動物とそれらの野生動物を狙う弓矢を手にした狩人たち、パーティーでも開いているのか輪になって楽しそうに踊る人々。
裸体で頭や首に装身具を身に着け、身体に装飾的な傷を施した彼らが黒人であることは確かでした。
しかし岩壁には、それ以外にも白い巨人と呼ばれる不思議な怪物や空飛ぶ円盤や宇宙服を着ている人間に見える宇宙人のような絵も描かれているのです。
映画「未知との遭遇」で出てきたテーブル・マウンテンに宇宙人を乗せた空飛ぶ円盤が舞い降りたようにこのタッシリ・ナジェールの岩の台地にもかって宇宙人がやってきたことがあるのでしょうか。
夜になってその疑問は確信に変わりました。
私たちは浸食によりえぐれた岩壁の庇のように突き出た岩板の下に寝袋を敷いて寝たのですが、そのとき見た星空は忘れられません。
満天の星が宝石を敷き詰めたようにびっしりと空を覆い、星の光が本来の夜空である闇の部分を殆ど消していたのです。
天の川などは英語のMilky Wayそのままのミルクをこぼしたような乳白色で、息をのむような素晴らしい天然のプラネタリウムでした。
実際、その後、世界各地で「星空のきれいな場所」といわれるところを訪れましたが、このタッシリ・ナジェールで見た星空に匹敵する星空をみたことは一度もありません。
そして満天の星をみながら、ここタッシリ・ナジェールは地球上でもっとも宇宙に近い場所なのではないか。ここなら宇宙船が降り立ったとしてもおかしくはないと思ったのでした。
サンテグジュペリの「星の王子さま」もサハラ砂漠が舞台でしたが、アフリカの大地を旅していると、自分が広大な宇宙空間に浮かぶ地球という小さな星に住んでいることを実感できます。
私にとって、アフリカ旅行の醍醐味はそこにあるような気がします。
謹賀新年
あけましておめでとうございます
本年もどうぞよろしくお願いします
本日のつぶやき
紅白で感じた「女らしさ」の違和感
駒崎弘樹 2017年01月02日 16:15
http://blogos.com/article/204308/forum/
「保育園落ちた。日本死ね」のブログはコイツが書いたにちがいない。文体がまったく同じ!
つぶやき2
英司@hj_age
平成9年生まれが成人するのね(白目)
平成生まれが売り専デビューするぞ!と騒いだのはいつの頃だったか(遠い目)
つぶやき3
私はこれまでの人生で生きているレズを見たのは数えるほどしかない。そもそもレズって本当にいるのか疑問に思ってるw
つぶやき4
欧米に長く住んでいる日本人ホモは例外なく外専。外専じゃなきゃあんなとこに住めませんヨ!
つぶやき5
米副大統領「日韓首脳の仲取り持った」
米誌に語る 日経新聞電子版2016/8/27 9:32
http://www.nikkei.com/article/DGXLASGM27H1C_X20C16A8NNE000
仲を取り持ったんじゃなくて、圧力をかけたんだろう。
つぶやき6
「君の名は。」を観てきた。「転校生」みたいな話かと思ったら、もっとムツカシイ内容だったw
つぶやき7ハッテン目的でも利用できるのかしら
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私がアフリカに行く理由
http://jack4afric.exblog.jp/25045609/
2016-03-15T00:01:00+09:00
2017-01-03T00:43:30+09:00
2016-03-14T22:00:27+09:00
jack4africa
アフリカの記憶
私は旅行が趣味というか道楽ですが、何のために旅行するかと訊かれたら、「日常から脱出するため」と答えます。
日常生活というのは毎日が同じことの繰り返しで、退屈でうんざりさせられることが多いのですが、
そこから一時的に脱出して非日常的な時間と空間に身を置いて日常生活で溜まったストレスを発散するのが私の旅行の目的なのです。
旅行好きの中には一年も二年もかけて世界を一周する人もいますが、私はそういう長期間の旅行には興味がありません。
そんなに長く旅行を続けていたら旅が日常になってしまい、そこからまた脱出する方法を見つけなければならなくなるんじゃないかと思うからです。
旅行の目的が日常からの脱出にあるので、旅行先はなるたけ日本とはかけ離れた環境のところがいいです。
具体的にいうと、砂漠のオアシスなんか理想的です。
砂漠のオアシスは住民が少なくてのんびりしたところが多く、空気は清浄で澄み切っていて、砂漠に沈む夕陽をぼんやり眺めていると心が癒されます。
反対に日本に似た環境のところはあんまり行きたいと思いません。
例えば、台湾は過去何回か飛行機の乗り継ぎの都合で台北に一泊しましたが、正直いって魅力を感じませんでした。
日本に似すぎていて、外国にいる感じがしないのです。
タイもバンコク辺りは東京と大して変わりない大都会なので、外国に来た感じはあまりしないんだけど、パタヤまで行くと異国情緒が感じられるので、パタヤは嫌いじゃないです。
かって日本人バックパッカーの間でよくいわれていた言葉に「金の北米、女の南米、歴史のアジア、冒険のアフリカ、何もないのがヨーロッパ」というものがあります。
ヨーロッパ好きな人は、「なんでヨーロッパは何にもないんだヨ!」と怒るかもしれませんが、これはヨーロッパではカルチャーショックを味わえないという意味だと思います。
ヨーロッパは日本と同じような小さい国が沢山あって、そこで人がチマチマ生活しているところが日本に似ていて、生活レベルの高い先進地域である点も共通しています。
そういうところは、ある程度、旅慣れてくると、旅行していても刺激がなくて物足りなく思えてくるのです。
「旅行好きの人間が最後に行き着く先はアフリカとインド」といわれるのも、これらの地域では、先進国では絶対に味わえない強烈なカルチャーショックを体験できるからだと思います。
旅先で自分が属する文化とはまったく異なる文化と接するのは非常に刺激的で興奮させられる体験で、私にとって旅のだいご味はそこにあります。
もちろん、このようなカルチャーショックは楽しいことばかりとは限らないし、不愉快な体験をしたお陰でその国が嫌いになってしまうこともあります。
しかし長期間、滞在するならともかく、短期の旅行の場合は、その国に長居する必要がないので、その体験が不愉快だったとしてもある程度、我慢できるし、
本当にその国が嫌いになったら、二度とその国に行かなければよいだけの話です。
去年の暮のエチオピア旅行のときは関空からドバイまで往復、中国東方航空を利用したのですが、乗り継ぎの関係で往路で上海に一泊しなければならなくてはなりませんでした。
そして上海に一泊しただけで、中国という国が大嫌いになりました(笑)
そのため、中国には二度と行く気にはなれないのですが、だからといって中国に行ったことを後悔はしていません。
この地球上にあんな酷い国が存在するということを知ったのはやはり貴重な体験だったと思うし、
非常に感じの悪い中国人に出会って大変不愉快な思いをしたのは事実だけど、親切な中国人にも出会うことができましたから。
話がだいぶ逸れてしまいましたが、私がアフリカが好きなのは、日本では見られない雄大な自然や多くの野生動物が見られるだけでなく、
日本では絶対にお目にかかれない風変わりな恰好をした多くの少数民族に出会えるからです。
旅行好きの人間は「景色派」と「人間派」に大別できると思いますが、私は「人間派」で、今回、エチオピア南部にハマってしまったのも、この地域に民俗学の宝庫と呼ばれるほど多くの少数民族が居住していて、
その各々の少数民族が非常に個性的かつ奇抜なファッション(裸を含む)に身を包んでいることを知ったからです。
あとエチオピア南部は南スーダンと国境を接しているので、南スーダンに住む部族と同じ系統の部族をエチオピアで見ることができます。
以前、スーダンのハルトゥームに行ったとき、スーダン南部から来たびっくりするほど背が高い黒人を見て驚いたのですが、彼らの仲間がエチオピアにも住んでいるのです。
南スーダンは2011年に独立したのですが、すぐに内戦が始まり、現在は観光客が行ける状態ではないので、
南スーダンの黒人が好きな私としてはエチオピア南部でスーダン南部と同じ黒人の部族が見られるのを知ったのは嬉しい驚きでした。
これらナイロート系ハム族と呼ばれる高身長の牧畜民は、ケニアでも見られるのですが、ケニアの部族はかなり近代化しています。
かってケニア北部のトゥルカナ湖周辺に住むトゥルカナ族は、男も女も全裸で生活していましたが、
ケニア政府が「トゥルカナにパンツを穿かせる運動」などという余計な運動をやったお陰で現在は男女とも布を身体に巻いています。
マサイ族も私がマサイ族の村を訪れた1970年代初めは、モラン(戦士)と呼ばれる若いマサイは、一枚の赤い布を肩から前にたらしているだけで、
後ろから見るとふんわりと高く盛り上がった形の良い尻が丸見えで、横から覗くと股間に鎮座ましましている立派なイチモツを拝むことができました。
しかし、現在は腰に布を幾重にも巻き付けてしっかりとガードしているのです!
ドイツ人の女流カメラマン、レニ・リーフェンシュタールが1960年代から70年代にかけて撮ったスーダンの裸族、ヌバも現在は服を着ているそうで、アフリカの裸族は殆ど絶滅寸前なのですが、
かろうじてエチオピア南部で少数の部族が裸で暮らしているのです。
というわけでこれから暫くはエチオピアにリピートすることになると思いますが、体力、資金がいつまでもつか、それが問題です。 全裸で暮らしていた頃のトゥルカナ族の写真 マサイの戦士が尻を丸出しにしていた頃の写真ヌバのレスラーエチオピア南部の裸族おまけ:日本の裸族
本日のつぶやき
崔碩栄 @Che_SYoung · 3月7日
「マイノリティ」という<子供用>飴を未だに握り締めて、手放そうとしない<大人>がいる。
つぶやき2
月清@tsukikiyora ゲイは同棲して同性婚して子供も持たねばならない。そうしないと社会から人間として認めてもらえないって神話があるけど、それ西方キリスト教圏の話しだから日本じゃないわよ。。。と。
しかもその神話は90年代以降に誕生したもので、それ以前は西方キリスト教圏にもそんな神話は存在しなかった。
つぶやき3
レスビアンの妊活 AIDがどったらこったらとややこしいこといってるけど、若くて生きのいい男を見つけてセックスすれば済む話じゃないの?
レズだから男とセックスできないということはないし、ホモの場合は女相手だと勃たないこともあるけど、女はそんな心配もないし。
つぶやき4
こういうの一般同性愛者が見たらドン引きすると思わないのかしら。
つぶやき5
ジェット・リョー @ikazombie · 4時間4時間前
女子高生用語で、人気俳優によく似た顔をしている一般イケメンを「ジェネリック」と呼ぶそうです。
wwwwwwwwww
つぶやき6
ストレート男性の約10人に1・2人は、アナルオナニーをしている
http://genxy-net.com/post_theme04/212516l/
ホンマかいな?w
つぶやき7なぜ姓を消してるの?
つぶやき8
合田夏樹 @firstkiss160814 · 24 時間24 時間前
しばき隊に批判的な在日コリアンは存在しますよ。在日三世@3korean 大ちゃんママ@yobu_daiのツイートを見てください。しばき隊は在日コリアンの主流の声ではありません。
LGBT活動家に批判的な同性愛者は存在しますよ。月清@tsukikiyoraさん一角 @nami_nagi さんのツイートを見てください。LGBT活動家は同性愛者の主流の声ではありません。
つぶやき9
カイロでアラビア語を勉強してたとき、先生一人に生徒が5人という少人数のクラスで、生徒5人の内、3人がホモだったw
私とイギリス人の外交官とカナダ人の外交官がホモで、ノンケはオランダ人と日本人商社マンの2人。
ノンケのオランダ人は我々ホモ3人が仲間内だけに通じるちょっとしたほのめかしとか、目くばせでニヤニヤ笑って楽しんでいるのを見て嫉妬して、マイノリティの悲哀をかこっていた。
日本人商社マンは本当に無邪気な人で、ジャックさんは顔が広くて羨ましいとかいってたけど、自分がホモに囲まれて授業を受けていることに最後まで気がつかなかったみたいw
つぶやき10
在日三世
3korean @neproud 部落解放同盟・LGBT系団体・総聯・民団・しばき隊など。どれもこれも誰の為の組織なんですかね?それにこれらの団体があった事でなにが変わったのでしょうか?ただ、被差別部落・LGBT・在日への嫌悪を高めた立役者である事は間違いない事実だと思います。
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スリ族のナチュラル・ファッション
http://jack4afric.exblog.jp/25023717/
2016-03-08T00:01:00+09:00
2016-06-10T20:02:56+09:00
2016-03-07T14:15:06+09:00
jack4africa
アフリカの記憶
エチオピア南部のオモ川流域に住む少数民族のひとつ、スリ族の子供たちは顔や身体にペインティングし、頭に草花を飾る非常に奇抜で独創的なおしゃれをすることで知られています。
草月流?
次回、エチオピアに行くときは是非、このスリ族の村を訪れたいと思っているのですが、スリ族は特別、交通の不便なところに住んでいて、ガイドブックにも村への交通手段は徒歩しかないなんて書いてあったりして。。。
あと宿泊施設もないのでテントも持っていく必要があるみたいで、いろいろと大変みたいですが、なんとか行きたいと思ってます。
参照文献:ハンス・シルヴェスター (著)
ナチュラル・ファッション 自然を纏うアフリカ民族写真集
本日のつぶやき
気が狂ったのか?
こんな小さな子供をホモ認定するなんて。
https://twitter.com/outinjapan/status/704723336031416320
つぶやき2
まきむぅ(牧村朝子) @makimuuuuuu · 2014年2月27日
「池上彰の宗教がわかれば世界が見える」って本読んでたら、「イスラム教の天国は緑豊かで清水が流れおいしいブドウが食べ放題のところです」的なことが書いてあって、「や…………山梨県………!!!!!」って思った
貴女も池上彰も何もわかってない。イスラムの天国では美少年の侍童たちがまわりに侍って美味しいワインを杯に注いでくれるのです。イスラムの天国はレズ向きではありません。
つぶやき3
LGBTが就活を成功させるための2つのヒント
まず1つ目は「セクシュアルマイノリティに関する研修を設けている企業をチェックする」ことです。
2つ目に、「LGBTの就職に特化したサイトを利用する」ことです。
By Huffington Post
LGBTであることを主張する以外に何の取り柄も才能も資格もない人間はこういうゲイリブ利権屋の助言に従えばいいだろうけど、私が採用担当者だったら最初からそんな人間は相手にしませんね。
こういう人間に限って面接で落とされたら、採用されなかったのは自分がLGBTだからだ。あの会社はLGBTを差別している!と騒ぎ立てるに決まっているからです。
つぶやき4
欧米のゲイがカミングアウトに執着するのは、キリスト教の「告解」と関係があるのではないかと思う今日この頃。
つぶやき5
spring-into-action @c_ra35 · 14 時間14 時間前
@mynamekamikaze @Sankei_news
国連が中立性を保てなくなった時点で
国連の存在意義は無きに等しい。
国連が中立だと信じている人間がいることが不思議
United Nation の本当の訳は国連ではなく連合国
国連は第二次大戦の戦勝国である連合国が常任理事国になって
敗戦国である日本とドイツを監視するために作った組織
戦勝国である常任理事国は安保理の承認なしにいつでも
敗戦国の日本やドイツに戦争をしかけることができると
いう敵国条項が未だに存在する組織が中立なわけないでしょう。
つぶやき6
<民主と維新>合流後の新党名は「民進党」毎日新聞
台湾の民進党が怒るんじゃないか。一緒にするなって。
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アフリカで会った朝日新聞記者
http://jack4afric.exblog.jp/23519126/
2015-01-06T00:20:00+09:00
2015-02-09T11:48:18+09:00
2015-01-06T00:20:40+09:00
jack4africa
アフリカの記憶
従軍慰安婦のねつ造記事を書いた元朝日新聞記者の植村某が非常勤講師を務める北海道の大学に対して非難や抗議のメールや電話が殺到しているそうです。
この元朝日新聞記者は、自分が書いたねつ造記事が日本という国家と日本人の名誉が大きく傷つけたことを棚に上げて、
家族の名前までネットに晒されて攻撃されているなどと被害者ぶって語っているそうですが、
彼のやったことは万死に値し、本来ならば、一族郎党、磔の刑に処すべきところで、日本で生きていられるだけで有り難いと思うべきしょう。
1970年代の初め、西アフリカで朝日新聞の記者に会ったことがあります。
当時、西アフリカでは干ばつが続き、餓死者が出ているというニュースが世界を駆け巡っていて、彼は特派員として西アフリカまで取材にきていたのです。
彼はフランス語が話せなかったので、私は彼がアフリカにいる間、通訳として彼のために働いたのですが、
ニジェールの首都ニアメからモーリタニアの首都ヌアクショットまで飛行機で一緒に移動したとき、驚くべきことが起きました。
私たち二人は飛行機の進行方向左側の二列の座席に並んで座っていたのですが、スチュワーデスがワゴンを押しながら食事を配りにきたとき、
通路側の座席に座っていた彼がさっと手を伸ばして、制服の上から、彼女の下腹部を触ったのです。
下腹部を触られた大柄な黒人スチュワーデスは、一瞬、不快そうな顔をしましたが、何も言わずに通り過ぎて行きました。
そのとき、私は彼がスチュワーデスに痴漢を働いたとすぐには信じる気にはなれませんでした。
なんといっても、彼は旧帝大出のエリートの朝日新聞の記者なのです。
何かの間違いではないかと思ったのです。
しかし、食事のあと、スチュワーデスがトレーを回収しにきたとき、彼がまた手を伸ばしてスチュワーデスの下腹部を触るのを見るに及んで、
私はやっと彼が意図的にセクハラを行っていることに気が付いたのでした。
私が隣に座っているのを知りながら、彼が平然とそのようなセクハラ行為に及んだ裏には、黒人に対する蔑視の感情があったのではないかという気がします。
もしスチュワーデスが黒人ではなく、白人であったならば、彼はここまで大胆にスチュワーデスの股間に触れることはなかったのではないかと思うのです。
彼は2週間ほど西アフリカに滞在して日本に帰国しましたが、しばらくして朝日新聞の論説委員とやらになり、署名入りの記事などを書いてました。
彼の行為を目撃したことは、新聞記者には品性下劣な人間が多いという私の確信を強めることになったのでした。
公平を期して付け加えておきますが、私がアフリカで会った朝日新聞記者の中にはちゃんとした人もいました。
アルジェリアの首都アルジェで会った牟田口義郎さんは、俳優の岡田英次に似た紳士的な方で、話し方もインテリぽいというか、上品な人でした。
牟田口さんは、朝日新聞のカイロ支局長を勤めていた方ですが、彼の前任のカイロ支局長だった酒井伝六さんには、ザイールの首都キンシャサで会いました。
この人は西アフリカで会った朝日新聞記者ほど品性下劣ではなかったけれど、牟田口義郎さんほど上品でもなかったです。
彼はそのとき、朝日ジャーナルという週刊誌に連載するピグミーの記事の取材を終えてキンシャサに戻ってきていたところでしたが、
話を聞いてみると、彼はゴマというウガンダ国境に近い白人が多数、住む町のホテルに10日ほど滞在して、
そのホテルに宿泊している観光客目当てに装身具などの土産物を売りにくる観光ピグミーと会っただけで、ピグミーの住むジャングルには一歩も足を踏み入れていないのです。
そんな簡単な「取材」で、果たしてピグミーに関する記事など書けるものだろうかと疑問に思ったのですが、
朝日ジャーナルの編集部も同様に感じていたみたいで、
「編集の連中がそんな短い取材で長期の連載ができるかどうか心配してるんだけど、大丈夫、まかしとけ!といってやってるんだよ」
と豪語していたのを思い出します。
実際、その後、彼は日本に帰国して、朝日ジャーナルに「ピグミーの世界」という記事を長々と連載し、連載後はその記事をまとめて1冊の単行本として出版したのです!
週刊誌に彼が連載していた記事を読んで、私は場末の安食堂のオヤジが、細長い鉛筆の芯のような物体に衣を少しずつ足しながら、中身が殆どないエビ天を揚げるテクニックを思い出しました。
そういう意味では、彼は「プロ」の物書きであるといえなくはないと思いますが、
ピグミーに描かせたという子供の落書きみたいな稚拙な絵を、「ピグミーアート」と称して麗々しく紙面で紹介しているのには呆れました。
昔の日本では、新聞記者は羽織ゴロと呼ばれて軽べつされたそうですが、その本質は現在でも大して変わっていないのではないかという気がします。
本日のつぶやき
イスラムを揶揄嘲笑する風刺画を繰り返し掲載したフランスの週刊誌の事務所がイスラム過激派に襲撃されて、12名の犠牲者を出すというショッキングな事件が起こりました。
テロ行為はもちろん非難されるべきですが、悪意のある風刺画を使って執拗にイスラムを攻撃した週刊誌側にも問題があったのではないでしょうか。
以前、やはり風刺画をよく掲載するフランスの別の週刊誌がサッカー日本代表のゴールキーパーの川島選手の手が4本生えている合成写真を掲載して「フクシマの影響だ」と書いて問題になったことがあります。
本来、風刺画というのは、それをみる人間を笑わせるのが目的だと思うのですが、この手のフランスの週刊誌の風刺画に共通するのはユーモアのセンスに欠けていることです。
笑いを誘わない、描き手の悪意しか感じられない風刺画は、風刺画として二流だし、そのような風刺画を掲載するメディアも二流で、そんな二流メディアが表現の自由の名を借りて、調子に乗ってやり過ぎたのが今回の悲劇の元だと思います。
つぶやき2
アルジャジーラによると、今回の事件でイスラム過激派によって射殺されたフランスの警官は、アラブ系のイスラム教徒だったそうですが、フランスのメディアはこの事実を意図的に報じていないそうです。
つぶやき3
今回、イスラム過激派の攻撃を受けたシャルリーエブド紙の前身の雑誌が私がフランスにいるとき、キオスクで見かけるたびにうんざりさせられたエログロナンセンス雑誌「HARAKIRI」だったことが判りました。まともなフランス人であれば絶対手にしないような悪趣味極まりない雑誌で、その雑誌で仕事をしていた編集長や漫画家がそのままシャルリーエブド紙で仕事をしていたのだそうです。
つぶやき4
表現の自由に関するフランスのダブルスタンダード:イスラムを茶化すことは許されるけれど、ユダヤ教を冒涜することは許されない
https://www.youtube.com/watch?v=3N_hRKkVAtA
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ザンジバルのからゆきさん(2)
http://jack4afric.exblog.jp/20487048/
2013-10-01T00:01:00+09:00
2018-06-04T19:07:42+09:00
2013-09-30T15:06:10+09:00
jack4africa
アフリカの記憶
「ザンジバルの娘子軍」という本でもうひとつひっかかったのはそのタイトルです。
娘子軍と書いてひらがなで小さく「からゆきさん」とルビを振っているのですが、本当は「じょうしぐん」と読みます。
なぜ著者がよく知られている「からゆきさん」という言葉をそのまま使わずに、あまり知られていない「娘子軍」という言葉をあえてタイトルに使ったのか、
著者は、文中でからゆきさんを「日本の海外進出の尖兵」と呼んでいるのですが、柔らかい響きを持つ大和言葉の「からゆきさん」よりも「娘子軍」の方が尖兵を表すのに相応しいと思ったのでしょう。
からゆきさん研究の第一人者といわれている「サンダカン八番娼館」の著者で、フェミニストの山崎朋子はもっと露骨に、
からゆきさんを「日本のアジア侵略の先遣隊」と呼んでいるので、この著者もその見方を踏襲したと推察されます。
この本を出版した社会思想社は名前から推察できるようにサヨク出版社で、この白石顕二という人物も文中で、
「日本はアジアを侵略した」とか「日本人はアフリカ人をサベツしている」とか、いかにもサヨクが口にしそうなことを書いています。
さらにネットでからゆきさんについて調べていたら、今村昌平監督が1973年に「からゆきさん」というタイトルのテレビのドキュメンタリー番組を監督していたことがわかりました。
私はこの番組をみなかったので、内容についてはよくわからないのですが、マレーシアの養老院にいる元からゆきさんを訪ねるという企画だったそうです。
このテレビ番組は、2007年に国立フィルムセンターで上映されたそうですが、その紹介文を読んでびっくりしました。
「東南アジアへと連れ去られ、売春を余儀なくされた女性たち“からゆきさん”に焦点を当て、いち早く海外に進出して、戦争への協力を強いられ、国に奉仕しながらも最後には疎まれるに至った彼女らの存在を今村が探究する。」
「からゆきさんは日本のアジア侵略の先遣隊」という山崎朋子の言葉は、「タイで売春婦が生まれたのはベトナム戦争で米軍がタイに駐留したから」という主張と同様、フェミ特有のムチャクチャな牽強付会(けんきょうふかい)ですが、
戦争への協力を強いられたとか、国に奉仕しながらも最後には疎まれるに至ったとか、なにを根拠にいっているのでしょうか。
私はこの「からゆきさん」はみていないのですが、同じ今村昌平が監督した「女衒」(1987)はみています。
この映画は明治中期から東南アジア各地にからゆきさんを送りだし、みずからもシンガポールで娼館を経営していた村岡伊平治という実在の人物をモデルにした作品で、当然のことながら、劇中には大勢のからゆきさんが登場します。
しかし、この作品に描かれたからゆきさんたちは「東南アジアに売られてきて強制的に売春婦にされたカワイソーな女性」というイメージからはほど遠く、
むしろ、裸一貫で日本を飛び出して海外に生きた当時の日本の庶民たちの逞しいエネルギーが画面から伝わってくるような、今村監督特有の猥雑で活気のある作品に仕上がっています。
実際、「にっぽん昆虫記」(1963)をみればわかるように、今村昌平は娼婦を描いても、その逞しさや強さに焦点をあてる監督で、
前記のテレビ番組の「からゆきさん」にしても、からゆきさんに対してそんな上から目線の同情などしていないはずです。
そもそも、からゆきさんが戦争に協力したというけど、いったいどの戦争についていっているのでしょうか。
日露戦争のときにシンガポールのからゆきさんがお金を寄付したという話を聞いたことがありますが、当時の日本人は現在とは比較にならないほど愛国心が強く、からゆきさんに限らず、多くの国民が戦争資金を寄付したはずです。
いずれにせよ、彼女たちは自分の意思でお金を寄付したわけで、戦争に協力させられた云々は当てはまりません。
1919年(大正8年)に廃娼令が発令されてからは、からゆきさんは娼婦として働けなくなったので、当然のことながら、太平洋戦争が起こったときには、彼女たちは東南アジアの娼館から完全に姿を消していました。
ザンジバルのおまきさんにしても第二次大戦が勃発したときにはとっくの昔にからゆきさんを廃業して堅気の商売人になっていたのです。
「国に奉仕しながらも最後には疎まれるに至った」という文章もよくわかりません。
娘子軍というのは紛らわしい呼び方で、あたかも従軍慰安婦のように国が彼女たちを組織して海外に送り出したかのようなイメージを与えるのですが、
実際には彼女たちの海外渡航はまったく政府とは関係ないところで行われていました。
ザンジバルのおまきさんが齢をとって一人暮らしは大変だろうからと日本への帰国を勧められたときに「パスポートが無いから帰れない」といったという話が出てきますが、彼女はパスポート無しでアフリカまで行っていたのです!
結局、彼女はナイロビの日本領事館でパスポートを発行してもらって無事、日本行きの船に乗ることができたのですが、明治の頃は、パスポートが無くとも海外に渡航できたようなのです。
パスポートというのは、政府が国民に発行する海外渡航許可証で、それを持たずに日本を出たということは、政府の許可を受けずに海外に行ったということです。
たしかに彼女たちが稼ぐ外貨は当時の日本にとって貴重だったはずで、そういう意味で彼女たちは国に貢献したといえなくはありませんが、
少なくとも日本政府が国策として国民に海外で娼婦として働くことを奨励した事実はありません。
それどころか、金子光晴の「マレー蘭印紀行」に書かれているように現地の日本大使館は、からゆきさんが引き起こす様々な事件の尻ぬぐいに追われ、彼女たちをもてあましていたのです。
それで日本が第一次世界大戦で戦勝国になったとき、日本はもう一等国になったのだから、いつまでも海外で日本人娼婦が働くのを放置しておくのはよくない、日本の恥だということになって、
日本政府は1919年(大正8年)に廃娼令を出して、からゆきさんが娼婦として働くことを禁止したのです。
先進国に仲間入りしたといいながら、外貨獲得のためにいまだに大量の売春婦を海外に送り出しているどこかの国とは大違いです。
からゆきさんたちが自分の意思に反して女衒に売られて南洋に連れていかれ、強制的に売春婦にさせられたというのも、従軍慰安婦の強制連行と同様、サヨクやフェミ連中が勝手にねつ造した神話だと思いますね。
実際、この本に描かれているザンジバルのおまきさんも「サンダカン八番娼館」に描かれたおサキさんという元からゆきさんも自分の意思で南洋に渡っています。
コラムニストの故山本夏彦さんが、樋口一葉の「たけくらべ」の主人公の美登利は将来、自分が吉原の花魁(売春婦)に売られる運命であることは知っているが、花魁それ自体は恥ずかしい職業であるとはまったく思っていない、
と書いていましたが、そもそも日本では明治になって売春を悪とする欧米のキリスト教的価値観が入ってくるまで、売春は悪いことでも恥ずかしいことでもなく、紺屋高尾ではないけれど、遊女に惚れて結婚する堅気の男もけっこういたのです。
山崎朋子は、おサキさんの住んでいた九州の天草ではからゆきさんの話はタブーになっていたと書いていますが、それは彼女が取材を行った1970年代の話であって、
実際に多くの女性がからゆきさんとして海を渡っていた明治から大正にかけては、それは特別なことではなく、ごくあたり前に行われていたその地方の風習に過ぎなかったのではないかという気がします。
「天草、島原の女たちは付近に大工場がなく、仕事に困っていたので、親たちが進んで、海外出稼ぎに出した。本人達も、外国に出て稼げば、美しい衣物も着られる。金の指輪は嵌められる。そのうえ、一家に送金して、親兄弟はいうに及ばず、親戚の誰彼までが、彼女一人のお蔭をこうむって、遊んでくらす。代わりに頭があがらず、むしろ、近隣のほめものになるので彼女たちは、争って国を出る傾向さえあった」(金子光晴「マレー蘭印紀行」より)
在留邦人の中には彼女たちを「醜業婦」と呼んで軽蔑した人間もいたそうですから、彼女たちも自分たちがやっていることが自慢できるようなことではないことはわかっていたでしょうが、
だからといって心の底では悪いことをしているなどとは考えていなかったと思いますね。
そのへんはケータイの出会い系サイトを使ってあっけらかんと売春している現在の中学生や高校生の女の子と本質的に変わりなかったんじゃないでしょうか。
70年代初め、テレビの仕事でナイロビにいたとき、「ソンブレロ」というナイトクラブによく遊びにいってました。
売春婦がうじゃうじゃいるところで、私はホモなので売春婦には興味ないのですが、踊りたいときにはここにいって、寄ってくる売春婦の一人にドリンクをおごって一緒に踊っていました。
踊りを堪能したあとは、ホテルまでついてきたがる相手を適当にあしらってサヨナラしていたのですが、
あるとき、ホテルでケニアの英字新聞を読んでいたら、「アフリカ初の日本人ストリッパー、ミス・マリコ、当クラブに登場!」というソンブレロの広告が彼女の写真入りで載っていました。
しかし写真のミス・マリコは中東風の彫りの深い顔立ちで、どうみても日本人には見えません。
それで日本人を騙った外国人だろうという結論になって興味をなくしたのですが、好き者のカメラマンがみんなに隠れて一人でこっそりソンブレロに行って、帰ってきていうには「日本語を話した!」。
それで翌日の晩、みんなでソンブレロに出かけていったのですが、ミス・マリコはたしかに日本人で、顔が日本人離れしているのは整形のためであることが判明しました。
彼女は、元は日劇ダンシングチームにいたそうで、その後、日本を飛び出して世界各地のクラブやキャバレーでダンサーとして働いてきたそうで、
ハリウッドのプロデューサーと出会ってアメリカ映画に出演しないかと誘われたとか、東南アジアのどこそこの劇場で踊っていたときは、
自分を観るために劇場の前に長蛇の列ができたとか、どこまでが本当かウソかよくわからない話を饒舌に語ってくれました。
そのときはロンドンのエージェントからもう一人のイギリス人のストリッパーと一緒にアフリカに派遣されてきていて、ナイロビのあとはモンバサのクラブで踊る予定だといっていました。
「その後はどうするの?」
と訊いたら、
「サウジにでも行って、石油のお金持ちでもメッけようかと思ってんの」
と屈託なく笑っていました。
私はそんな明るい陽気なマリコさんをみていて、昔、アフリカまで出稼ぎにやってきたからゆきさんたちもこういうタイプの女性ではなかったかと思ったものです。
現在はバンコクで居酒屋の女将をしているというマリコさんは、からゆきさんと一緒にされたら怒るかもしれないけれど、
文字どおり裸一貫でアフリカくんだりまでやってきて男相手に稼いでいたのは彼女もからゆきさんも同じで、
私はそんなマリコさんをカワイソーとも気の毒とも感じず、それどころかその行動力とバイタリティー溢れる生き方に圧倒され、
日本の女は本当に強い!
と感心したのでした。
本日のつぶやき
こんな連中に「仲良くしようぜ」なんていわれてもねぇ。。。
嫌韓デモ参加者の首を絞め暴行・脅迫して逮捕された「しばき隊」メンバーの男2人
http://pbs.twimg.com/media/BM8NHNXCIAApC76.jpg]]>
ザンジバルのからゆきさん(1)
http://jack4afric.exblog.jp/20445325/
2013-09-24T00:01:00+09:00
2016-12-22T00:44:39+09:00
2013-09-23T13:36:57+09:00
jack4africa
アフリカの記憶
先日、白石顕二著、「ザンジバルの娘子軍」という本を読みました。
明治から大正にかけて当時、南洋と呼ばれていた東南アジアの娼館で娼婦として働いていた「からゆきさん」と呼ばれる一群の日本女性がいました。
その多くは長崎県の島原半島や熊本県天草出身の女性だったそうですが、彼女たちが最も集まったシンガポールには、
日露戦争後の1906年(明治39年)に娼館が100軒ほどあって、日本人娼婦が1000人ほど働いていたといいます。
しかし、中には南洋だけでは飽き足らず、遠くアフリカにまで足を伸ばしたからゆきさんもいました。
彼女たちは、ケニアのモンバサ、ザンジバル島、モザンビークのベイラ、マダガスカル、モーリシャス、南アフリカのケープタウン、ヨハネスブルグ、
さらには内陸部のローデシア(現ジンバウェ)のソールスベリー(現ハラレ)などに足跡を残しています。
アフリカで一番、多くからゆきさんがいたのはザンジバル島で、日清戦争が終わってまもない明治28年(1895年)には28人の日本女性が娼婦として働いていたといわれています。
上記の本に描かれている「おまきさん」というからゆきさんがザンジバルに到着した1914、5年(大正3、4年)頃には数は減っていたそうですが、
それでも10人ほどの日本女性がいて、ザンジバルのストーンタウンの「ジャパニーズバー」で働いていたそうです。
おまきさんは、ザンジバルに一番最後まで残留していた元からゆきさんで、1890年(明治23年)長崎生まれ、7人きょうだいの長女で、幼い弟妹を抱えた両親を助けるためにからゆきさんになったといいます。
彼女は1906年(明治39年)数え年18歳のときに、シンガポールにいた叔母を頼ってかの地に渡ったそうですが、
シンガポールに8年から9年滞在したあと、上記の叔母のほか、数人の日本女性と共にボンベイ経由でザンジバル島に向かいます。
なぜザンジバルを目指したかというと、当時のザンジバルは主要産物である香辛料のクローブの輸出で景気が良く、
ザンジバルの港には世界各地から船舶が寄港し、多くの船乗りが上陸していたことから、彼ら相手に商売をすると金になると考えたからだそうです。
実際、ザンジバルのからゆきさんたちは大金を稼いでいたそうで、中にはインドのボンベイの横浜正金銀行(東京銀行の前身)の支店経由で、故郷に一万円送金した女性もいたといいます。
巡査や小学校教員の初任給が10円から15円だった頃の一万円ですから、現在の貨幣価値に換算すると一億円くらいになるでしょうか。
おまきさんは、ザンジバルに到着すると先にザンジバルに来て定住していた日本人女性が経営する「珈琲店」で働くようになりますが、「珈琲店」というのは名ばかりで、実際には船員相手の娼館だったそうです。
この本にはおまきさんが20歳くらいのときにシンガポールで撮ったという和服姿の写真が掲載されていますが、写真を見る限り、彼女は決して美人ではありません。
しかし持前の面倒見のよさと気風のよさから、ほかの娼婦たちから頼りにされるようになり、珈琲店の「顔」になっていったといいます。
彼女と一緒にザンジバルに渡った叔母は、三、四年後に亡くなり、その後、おまきさんはザンジバルに流れてきた日本人の元船員の男と一緒になって、二人で「珈琲店」を経営するようになります。
つまり、一介の娼婦から娼館の経営者に出世したわけで、そのとき彼女は30歳になったばかりでした。
彼女はさらに内縁の夫が日本から輸入する商品を売る雑貨店も経営するようになります。
1926年(大正15年)には大阪商船がアフリカ定期航路を開設し、モンバサやザンジバルに日本の商船が寄港するようになり、
それをきっかけに、おまきさんの内縁の夫は、港に停泊する船舶に食料、日用品などを納入するシップ・チャンドラーと呼ばれる納入業者になります。
彼はその仕事のためにモンバサとザンジバルを往復していたそうですが、そのうち、ザンジバルの「珈琲店」でおまきさんの下で働いていた若い日本人の女と仲良くなり、
彼女とモンバサで同棲するようになって、ザンジバルには戻って来なくなったといいます。
しかし、おまきさんはくじけませんでした。
彼女は大阪商船のモンバサ駐在員の勧めもあって、去っていった内縁の夫に代わって、ザンジバルでシップ・チャンドラーとして働くようになるのです。
1930年(昭和5年)のことで、おまきさんは40歳になっていました。
この頃、彼女が経営する「珈琲店」は以前のような活気がなくなっていました。
1919年(大正8年)に日本政府が発令した廃娼令のお蔭で、新規のからゆきさんの流入が途絶え、彼女が抱える日本人娼婦たちが高齢化し、何人かの女性は日本に帰国し、数も減っていたからです。
そういう背景もあって、シップ・チャンドラーへの転身話は、彼女にとって文字どおり渡りに船だったようです。
当時のおまきさんを知る人の話によると、シップ・チャンドラーになったおまきさんは、大阪商船の船がザンジバルに入港すると、木綿の真っ白い洋服にゴム靴という格好でサンパンに乗って船にやってきて御用聞きをし、
出港近くになると船から注文を受けた野菜や果物を沢山積んだサンパンに乗って戻ってきたといいます。
彼女は大変、面倒見がよい女性で、船員をはじめ彼女の世話になった日本人は多かったそうです。
日本から輸入した商品を売る雑貨店や珈琲店も引き続き経営していて、シップ・チャンドラーとの仕事と合わせて商売は順調で、1931年(昭和6年)には日本から弟を呼び寄せています。
弟はしばらくザンジバルに滞在して日本に戻ったそうですが、その後、日本は徐々に戦争に向かって進みはじめ、1941年(昭和16年)にはついに太平洋戦争が勃発します。
その頃には、ザンジバルにはおまきさんを含め3人の日本人しか残っていなかったそうですが、ザンジバルは英領だったことから、日本人は「敵対国民」として全財産を没収され、ザンジバル島の東海岸の収容所に収容されます。
戦争が終わってやっと収容所から出ることができた彼女は、戦争のお蔭で無一文になり、知り合いのインド人に洗濯の仕事を世話してもらって細々と生活していたといいます。
1957年(昭和32年)、大阪商船が再びザンジバルに寄港するようになり、商船の古手の社員は、かってシップ・チャンドラーをやっていたおまきさんがまだザンジバルに残っていることを知って驚きます。
その社員から連絡を受けた大阪商船のモンバサ駐在員は一人暮らしのおまきさんをザンジバルに訪ねていって、船賃は無料にするからと日本への帰国を勧めます。
そして彼女は1959年(昭和34年)に50年ぶりに日本の土地を踏むのです。
そのとき、彼女は69歳になっていました。
船が着いた神戸港には彼女の弟妹が迎えに来ていたといいます。
これがこの「ザンジバルの娘子軍」という本に書かれているおまきさんの一生なのですが、本を読んでいる間、ひっかかりみたいなものをずっと感じていました。
なぜ違和感を覚えたかというと、著者のからゆきさんに対する見方と彼がこの本で描いたおまきさんというからゆきさんのイメージがかい離していたからです。
著者の白石顕二(2005年に死亡)はアフリカ文化研究家という肩書を持つ人物で、貧困ゆえに海外に出稼ぎに行かざるを得なかった不幸な女性という先入観をもってからゆきさんを見ているのですが、
彼がこの本の主人公として描いたおまきさんは、私の目には同情すべきカワイソーな人間にはちっとも見えないのです。
「女衒に売られて無理やり南洋に連れていかれて、現地で売春婦にさせられて悲惨な人生を送った気の毒な女性たち」
というのが著者の頭の中にあるからゆきさんのイメージみたいですが、おまきさんはそういうタイプの女性とはかけ離れています。
10代半ばで自分の意思でからゆきさんになることを決心して叔母のいるシンガポールに渡り、さらにはアフリカのザンジバルまで出稼ぎにいき、
ザンジバルでは30歳の若さで娼館の女将になり、それ以外にも日本からの輸入品を販売する雑貨店を経営したり、
女だてらに男の仕事であるといわれていたシップ・チャンドラーになったりと行動力とバイタリティーに溢れた人生を送ってきた女性です。
たしかに戦争によって全財産を失ったことは不幸でしたが、そのような悲劇に見舞われたのは彼女だけでなく、
アメリカやペルーの日系人をはじめとして、戦時中に敵国や敵国の領土に在住していた日本人は全員、同じ目に遭っているわけで、元からゆきさんだったからそんな仕打ちを受けたわけではありません。
彼女の老後についても、著者は孤独な暮らしだったと書いてますが、気さくな人柄のために近所の人間に好かれていて、
家には近所の子供がしょっちゅう遊びに来ていたという話を聞く限り、それほど孤独だったとは思えません。
日本に帰国するためにザンジバルを出たときは多くの住民が見送ったといいますし、日本に帰国したときも、ちゃんと弟妹が港に出迎えにきているのです。
迎えに来た妹は彼女が日本を出たあとに生まれたそうで、そのとき初対面だったそうですが、弟妹が彼女のことを忘れずにいたのは、彼女が長年にわたって彼らに送金していたからでしょう。
彼女は日本に帰国後、長男である弟の家に引き取られて7年後に76歳で亡くなったそうですが、これのどこが悲惨な人生なんでしょう。
むしろフツーの人間には体験できない面白い人生だったんじゃないでしょうか。
本人も自分が不幸だなんて思っていなかったはずです。
そもそも現在の貨幣価値で一億円にも相当する多額の送金ができるほど稼ぎがよかったザンジバルのからゆきさんを「カワイソー」とか「気の毒」といった言葉で表現すること自体、無理があるのではないかという気がします。
ザンジバルのからゆきさん(2)
参照文献:青木澄夫「アフリカに渡った日本人」
本日のつぶやき
北海道の温泉が刺青をしたマオリ族の女性の入浴を断ったという話、なんかおかしいと思っていたら、やっぱりアイヌ協会が仕掛けたマッチポンプだったみたいです。
わざと「刺青お断り」の入浴施設を選んで彼女を連れてゆき、入店を断られたら「待ってました!」とばかり「サベツされたニダ!」と騒ぎ出したというのです。
ゲイリブが仕組んだ「東京都府中青年の家裁判」の茶番劇を思い出しますが、こういう被サベツ利権団体は「サベツ」をアピールするためにこのような工作を繰り返しているのです。
【砂澤陣】加速する反日アイヌ政策の実態[桜H25/9/16]
http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=KODg8Qa1DUE
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マリで出会った日本女性
http://jack4afric.exblog.jp/20404512/
2013-09-17T00:01:00+09:00
2016-12-22T20:21:20+09:00
2013-09-16T22:16:44+09:00
jack4africa
アフリカの記憶
テレビのドキュメンタリー番組の取材チームの一員として西アフリカのマリを訪れたのは1973年のことです。
サハラ砂漠に住む遊牧民のトゥアレグが取材の対象だったのですが、トゥアレグはマリとニジェールに沢山、住んでいて、まず最初にマリに行く計画を立てていました。
当時、マリには日本大使館がなく、在セネガルの日本大使館がマリを兼轄していたのですが、パリからセネガルの首都ダカールに飛んで、ダカールの日本大使館に挨拶しにいったとき、
応対してくださった日本大使に、マリにはマリ人の男性と結婚して首都バマコに住んでいる日本女性がいて、彼女がマリ唯一の在住日本人だと聞かされました。
それがケイタ慎子さんでした。
彼女は日本の大学を卒業後、モスクワの大学に留学するのですが、そこで西アフリカのマリから来た留学生のケイタさんと知り合って恋に落ちます。
そして、ケイタさんと結婚するためにケイタさんが待つマリに向かうのですが、そのときすでにケイタさんの子供を身籠っていたといいます。
慎子さんはバマコで慣れないアフリカでの生活に苦労しながら、子供を出産するのですが、そんな彼女に突然の不幸が襲います。
ケイタさんが外国人の女性と結婚したことを快く思わないケイタさんの親せきが裏から警察に手をまわして、彼女を国外退去処分にしてしまうのです。
夫と生まれて間もない子供と無理やり引き離され、着のみ着のままでダカール行きの列車に乗せられた彼女は、ダカールに着くとすぐに日本大使館に駆け込んで助けを求めます。
日本大使館はとりあえず彼女を大使館のアルバイトとして雇用し、彼女がダカールで生活できるようにしてから、マリ政府と粘り強く交渉し、そのお蔭で、彼女は数か月後にようやくマリに帰国できます。
このへんの経緯は慎子さんの著書「マリ共和国花嫁日記」に詳しく書かれていますが、
私たちがダカールに到着したのは、慎子さんがマリに帰国してから、それほど時間が経っていないときで、
慎子さんのマリへの帰国を実現するために尽力したダカールの日本大使は、慎子さんのことを「本当に強い女性です」といっていました。
「あれがフランス女だったら、さっさとフランスに帰っているでしょうが、さすが日本女性です。マリに帰国する許可が出るまで黙ってじっと耐えて泣き言ひとつ口にしませんでした。本当に芯の強い女性です」
と口をきわめて称賛していました。
それで私たちは、
「シンが強いからシンコさんというのかな」
などと軽口を叩いていたのですが、
慎子さんの夫であるケイタ氏はマリの国営ラジオ局で働いていて(当時、マリにはまだテレビ局はありませんでした)、慎子さんと一緒にバマコに住んでいるからマリに行ったら会ってみればいいといわれて、
飛行機でダカールからバマコに飛んだとき、宿泊先のグランドホテルに着いてすぐにケイタさんと連絡を取ったのでした。
ケイタというのはマリによくある名前なのですが、「日本人の奥さんのいるラジオ局で働いているケイタさんに会いたい」とホテルの男にいったら、すぐにわかってケイタさんに電話してくれました。
それからしばらくしてケイタさんが奥さんの慎子さんを連れてホテルに現れました。
ケイタさんは長身のイケメンで、慎子さんは小柄で華奢な感じの無口な女性でしたが、やっぱり芯は強そうで、自分よりも40センチは背の高い年下のケイタさんを完全に尻に敷いているようにみえました。
ケイタさんは私たち撮影班がバマコに滞在している間、ずっと私たちに付き添って面倒をみてくれました。
もちろん無償です。
それどころか、バマコの町外れにある二間だけの慎ましい自宅に私たちを招待して、慎子さんの手料理までご馳走してくれました。
ケイタさんはモスクワに留学したくらいだから、マリでは一応、エリートなのですが、貧しい国なので、給料の遅配などがよくあるそうで、慎子さんは日本の実家から援助を受けているようなことをいっていました。
そのとき、子守りに雇った親せきの女の子に抱かれているお二人の赤ちゃんにも会いました。
前記の彼女の著書によると、ケイタさんご夫婦には2人娘さんがいらっしゃるそうですが、私が会ったときは、下のお子さんはまだ生まれていなかったと思います。
ケイタさんは国営ラジオ局に勤めていたのですが、マリには「移動ラジオ局」なるものがあって、その仕事でトンブクトゥーなどの奥地に行って、二週間ほど家を留守にすることもあるそうで、
その間は、慎子さんはお子さんと2人で待っているといっていましたが、砂埃の舞う殺風景なバマコの街で、子供と2人だけで過ごすにはやはりかなりの精神的な強さが必要なのではないかと思いました。
マリは、フランスの植民地だったのでフランス語が通じるのですが、慎子さんはフランス語があまり話せず、地元の人間が話すバンバラ語もできず、
ご主人のケイタさんとはモスクワ留学時代に覚えたロシア語で会話しているといっていました。
私はバマコに滞在中、ケイタさんご自慢の小型バイクの後部座席に乗せてもらってあちこち用足しに出かけましたが、ケイタさんの背中は日向の匂いがして、私はその匂いを嗅ぐのが好きでした。
ただし、マリ人自体はあまり好きになれませんでした。
自分たちはかって西アフリカに栄えたマリ帝国の末裔であるとの意識が強く大変プライドが高いのですが、現在は貧しい国の多いアフリカの中でも特に貧しい最貧国で、
元の宗主国のフランスを初めとする先進国の援助なしには生きていけないのですが、それが誇り高いマリ人には我慢ならないようで、外国人がマリやマリ人についてちょっとでも批判的なことを口にすると、
すぐに激昂して「マリという国を馬鹿にしている」とか「マリ人を差別している」とか反発してくるので、非常にやりにくかったです。
だいぶ前にマリの元大統領が来日してNHKの番組に出演しているのを視たことがありますが、援助を求めて日本にやって来たくせに、
「私たちは物乞いに来たのではない」などといっているのを耳にして「相変わらずだな」とうんざりしたのを覚えています。
マリにいたときマリの役人が二言目には「私たちはあなたがた先進国の奴隷ではない!」とか「私たちの国はもはや西欧の植民地ではない!」などと口にしていたのを思い出したからです。
しかし、慎子さんの夫のケイタさんには、そういう神経過敏なところはありませんでした。
彼はもちろん自分がマリ帝国の末裔であることを誇りにしていましたが、マリという国が様々な面で遅れている後進国であることを率直に認めていて、
フランスの植民地になったことについても、それを許したわれわれマリ人の側にも責任がある、といっていました。
こういう公平でバランスの取れたものの見方ができる人が日本人である慎子さんの夫であることをうれしく思ったものです。
この本によると、私たちがマリを離れてまもなくケイタさんはジャーナリスト研修でダカール大学に3年間、留学することになって、慎子さんやお子さんと一緒にダカールに移ったそうですが、
ダカールでの研修を終えてもマリではジャーナリストとして活躍する場がないという理由でフランスに渡ったといいます。
その後、風の便りで慎子さんがコートジボワールの日本大使館で働いていると聞きましたが、それ以後の消息はわかりません。
慎子さんの著書、「マリ共和国花嫁日記」を読めばわかりますが、彼女は非常に聡明な女性で、自分が置かれた立場を客観視できる人です。
この本にはアフリカ人と結婚してアフリカで生活したことがある人間にしかわからない、個人主義の先進国のそれとはかけ離れた複雑なアフリカ社会の人間関係や、
「貧しくとも、太陽と音楽だけは満ちあふれ、若者は底抜けに明るく楽天的」といった先進国の人間がブラックアフリカに対して持つステレオタイプのイメージを根底から覆す、
アフリカ社会の厳しい現実が詳しく書かれていて非常に興味深いのですが、日本ではそれほど話題にならず、あまり売れなかったみたいなのが残念です。
外国人と国際結婚して外国で暮らす日本女性がその経験を綴った本は沢山出版されていますが、その中でもこの本は出色で、また結婚相手がアフリカ人というのもめずらしいし、もっと読まれてもよいと思うのですが。
本日のつぶやき
原発汚染水風刺画の仏紙「謝罪しない。問題の本質は東京電力の管理能力のなさにあり、怒りを向けるべき先はそちらだ」
南太平洋で核実験を何度も強行して放射能をまき散らしておきながら一言も謝罪しなかったフランス人だから、この程度のことでは当然、謝罪しないでしょう。
何かあるとすぐに謝罪してしまう日本人は、このフランス人の態度を見習うべきかも。]]>
トロ王国のエリザベス王女
http://jack4afric.exblog.jp/20117139/
2013-07-31T00:07:00+09:00
2013-08-09T20:27:49+09:00
2013-07-31T00:07:21+09:00
jack4africa
アフリカの記憶
プリンセス・エリザベス・バガヤは、ウガンダ国内に存在する4つの伝統的な王国のひとつ、トロ王国の国王、ジョージ・ルキディ3世とその妃のケジア妃の間に1936年に生まれました。
彼女はただの王女ではありません。知性と美貌を兼ね備えた卓越した女性で、そのキャリアには、弁護士、外交官、政治家、ファッションモデル、女優が含まれます。
王女はブガンダの名門の寄宿女学校、ガヤザ・ハイスクールで学んだあと、イギリスの貴族の子女を教育する女学校、シェルボーン・スクールに留学します。
このシェルボーン・スクールで、王女は唯一の黒人生徒だったそうです。
「この女学校で、私は常に試されていると感じていました。もし私が悪い点を取ったら、それが黒人全体の評価につながると感じていたのです」
王女は当時を回顧して語っています。
シェルボーン・スクールを卒業後、ケンブリッジ大学に入学しますが、彼女はケンブリッジに入学を認められた3人目のアフリカ女性だったそうです。
ケンブリッジでは法律を勉強し、卒業3年後の1965年にイギリス初の東アフリカ出身の女性法廷弁護士になります。
父の国王の死去によりウガンダに戻り、跡を継いで国王に就任した弟のオリミ3世のアドバイザーを務めるようになりますが、その傍らウガンダ初の女性弁護士としても働きます。
しかし、トロ王国に不幸が訪れます。ウガンダの独裁者、オボテ大統領がウガンダ国内のすべての王制を廃止することを決定したのです。
この政治的に不安定な時期、彼女は、イギリスのマーガレット王女と夫のスノードン公の誘いを受けてイギリスに渡り、
チャリティのファッションショーのモデルを務めるのですが、それをきっかけに、ファッションモデルとして働くことになります。
自分がファッションモデルとして働くことで、ウガンダやアフリカのイメージを向上させることができるのではないかと考えたからだそうです。
180センチの長身にスレンダーな肢体、王家の血統を示すノーブルな顔立ちの彼女はたちまち人気モデルになり、ヴォーグやハーパーズバザーなどのファッション雑誌の表紙を飾るようになります。
ちなみに彼女はハーパーズバザーの表紙を飾った最初の黒人モデルだそうです。
ジャクリーン・ケネディも彼女の美貌に注目し、彼女が国際的なファッションモデルとして活躍できるように支援します。
その後、彼女はモデルだけでなく、アフリカをテーマにしたいくつかの映画にも出演します。
1971年にウガンダでアミン将軍によるクーデターが起こり、独裁者のオボテ大統領が倒されます。
そのお蔭で、彼女はウガンダに帰国できるようになったのですが、アミンは彼女にウガンダの外務大臣に就任するように要請します。
1974年のことです。
アミンはその後、前任者のオボテ以上の凶暴な独裁者になるのですが、彼女は当初、多くのウガンダ人と同様、アミンに好感を抱いていて、祖国のためになるならとその申し出を受け入れます。
知性と美貌、血統を兼ね備えた彼女は、ウガンダのようなアフリカの小国の外務大臣としては異例の注目を世界のマスコミから浴びます。
彼女が国連で行った演説は大変、評判がよく、アミンはそれに嫉妬したといわれています。
その後、しばらくしてアミンの妻が亡くなり、アミンが殺したという噂が広まります。
そして妻の死からまもなく、アミンは王女に求婚するのです。
当然のことながら、彼女はその申し出を拒絶しますが、その結果、アミンの怒りを買って、外務大臣を辞任することになり、ウガンダを出国します。
結婚を拒絶されて復讐心に燃えるアミンに暗殺される危険があったからです。
アミンは自分の元から去った王女の評判を落とすために卑劣な手を使います。
彼は、王女が外務大臣でありながら、パリのオルリー空港のトイレで白人男性とSEXするというウガンダの名誉を傷つける行為に及んだので、彼女を解任したと発表したのです。
このスキャンダラスなニュースはあっという間に世界を駆け巡ります。
私はそのニュースを耳にしたとき、「ホンマかいな?」と半信半疑だったのですが、これはアミンの完全な作り話だったのです。
王女はこのニュースを報じたイギリス、フランス、イタリア、ドイツの雑誌社を名誉棄損で提訴し、そのすべてに勝訴します(彼女が弁護士であることをお忘れなく)。
この亡命中に彼女は、彼女と同様、王家の血を引くウガンダ人のパイロットと結婚しますが、彼は32歳の若さで飛行機事故で亡くなってしまいます。
その後、ウガンダでは、独裁者、アミンが失脚し、先代の大統領、オボテが政権に返り咲きますが、オボテは再度のクーデターによりまたもや政権を追われ、
反乱軍を率いたヨウェリ・ムセベニ中将が大統領に就任します。
ヨウェリ・ムセベニを支援していたエリザベス王女は、ムセベニ政権下で駐米大使に任命され、アメリカのテレビ番組に出演するなどして、ウガンダのイメージの回復に努めます。
ムセベニ政権下の1993年、オボテによって廃止されたウガンダのトロ王国を含む4つの王国は、政治的な実権を伴わない、儀礼的な王国として復活することになりますが、
トロ王国のオリミ3世は若くして亡くなり、王女はその跡を継いだ幼少の甥のルキディ4世の後見人を務めることになります。
彼女は夫の死後、再婚はせず、現在はウガンダに住み、慈善事業に力を入れているそうです。
シヴァの女王に扮したエリザベス王女エリザベス王女の父、トロ国王、ルキディ3世と母のケジア妃エリザベス王女の甥の現トロ国王、ルキディ4世]]>
アガデスのサルタン
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2013-06-04T00:00:00+09:00
2013-06-04T00:09:57+09:00
2013-06-04T00:01:10+09:00
jack4africa
アフリカの記憶
先日、ネットの記事で、昨年の2月にアガデスのサルタンが74歳で逝去されていたことを知りました。
アガデスは西アフリカのニジェール共和国北部のオアシスの町で、このオアシスを中心とするアイール山地一帯は、かってはサルタンと呼ばれるイスラムの宗教的な権威を備える君主によって治められている土侯国でした。
現在は、アイール山地は、ニジェール共和国に組み込まれていますが、サルタンはまだアガデスに健在で、いまなおアイール山地の遊牧民であるトゥアレグ族に対して大きな影響力を持ち続けているといわれています。
サルタンはアガデスの町の中心にある宮殿に住んでおられますが、祭りの日には、色とりどりのターバンに頭と顔を包んだサルタンの護衛兵たちが騎馬で王宮を一周する華やかで勇壮な競技が行われます。
このアガデスのサルタンの由来には面白い伝説が伝えられています。
アガデスには元々、井戸があって、家畜の水を飲ませるために近在の遊牧民であるトゥアレグ族が集まってきていたそうですが、
やがて井戸の近くで市が立つようになり、それが町にまで発展したといいます。
ところが、井戸の水を家畜に飲ませる権利をめぐってトゥアレグの有力部族の間で争いが絶えず、
それで、あるとき、有力な部族の長が集まって相談し、コンスタンティノープル(現イスタンブール)のサルタンのところに使者を送って、
サルタンの王子の一人をアガデスに送ってもらい、その王子にアガデスのサルタンになってもらって、アガデスを治めてもらおうという話になったのだそうです。
15世紀のことだったそうですが、当時、すでにアガデスのトゥアレグはイスラムに改宗していて、サハラ砂漠を横断するラクダの隊商による交易を通じて、コンスタンティノープルのサルタンとも関係があったといいます。
コンスタンティノープルのサルタンは、多くの妻妾を抱え、王子も沢山いたそうですが、どの王子も大都会の安逸な生活に慣れ切っていて、サハラのど真ん中のオアシスなんかに行きたがらなかったそうです。
唯一、サルタンが黒人の女奴隷に生ませた王子だけがアガデスに行くことに同意し、アガデスのトゥアレグたちはこの王子をアガデスのサルタンとして迎えることになったのですが、ひとつだけ問題がありました。
トゥアレグ族の社会は女系性で、部族の人間の身分は父親ではなく、母親によって決まることになっていたのです。
つまり、コンスタンティノープルからやってきた王子は、父親はサルタンですが、母親が奴隷だったので、トゥアレグ族の社会では、奴隷階級に組み入れられることになったのです。
その結果、アガデスのサルタンは「奴隷の王(Slave King)」と呼ばれるようになり、代々のサルタンは、奴隷階級出身の妻を娶ることになったといいます。
これはトゥアレグの有力部族の長が自分の娘をサルタンの妃にし、外戚として権力を振るうことを防止するために、トゥアレグ族が編み出した知恵ではなかったかと思われます。
私が宮殿でお会いしたサルタンも、トゥアレグの酋長によく見られる2メートル近い長身の人物でしたが、肌の色は、奴隷階級の黒人と同様、黒かったです。
サルタンは大変、物静かな方で、あまり口をきかず、何を訊いてもTout va bien(よきにはからえ)としか答えられませんでした。
そのときはテレビのドキュメンタリー番組の取材で行ったのですが、カメラマンがモスクの内部を撮影したいと言い出し、それでサルタンに頼んでみようということになって、お願いしてみたら、例によって、Tout va bien。
我々はこれを承諾と解釈して、モスクに行って、内部の撮影を始めたのですが、直ぐにモスクでお祈りしていた白い顎鬚の老人に撮影を止めるように厳しくいわれました。
サルタンの許可を得ているというと、
「サルタンが許可を出そうが出すまいが関係ない。神様がお許しにならないのだ!」
と言い返されてしまいました。
その毅然とした態度を見て、
「ああ、この人たちは単なる砂漠の遊牧民ではない。イスラムによって文明化された立派な文明人なのだ」
と感動したことを覚えています。
その数年後、私は偶々、アルジェリアのニジェール国境に近いオアシスの町、タマンラセットにいたのですが、そのときタマンラセットの町はずれで小さな見本市が開かれていて、アガデスのサルタンが来賓として招かれていました。
そのひときわ目立つ長身のせいでサルタンであることに気が付いたのですが、サルタンも私のことを覚えておられたみたいで、
なにか話しかけたそうな顔をされていましたが、御付きの者に促され、渋々といった感じで、会場をあとにされたのでした。
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アフリカの飢餓
http://jack4afric.exblog.jp/17861966/
2012-08-14T00:08:00+09:00
2013-07-13T21:50:47+09:00
2012-08-14T00:08:07+09:00
jack4africa
アフリカの記憶
日本ユニセフ協会から銀行の振込み用紙を同封したダイレクトメールがまた届きました。
「アフリカの角」と呼ばれるソマリアやエチオピアなどのアフリカ東部と「サヘル」と呼ばれるサハラ南縁地域のマリ、ニジェールなどの西アフリカ諸国で、
過去60年で最大の干ばつが起こっていて、食糧難のために100万人以上の子供の命が危機に晒されているので寄付をして欲しいと訴えていますが、
アフリカの干ばつや飢饉は、昨日今日始まった現象ではなく、過去何十年にもわたって継続している構造的かつ慢性的な問題です。
60年に一度かなんかしらないけれど、今この時点でわざわざ問題にするのは、寄付金を募る名目が欲しいからで、アフリカの干ばつを利用して募金を増やそうと企んでいるのでしょう。
干ばつが起こるのは地球温暖化が原因だといわれていますが、それ以前に問題なのは、過去何十年にもわたってこのアフリカの乾燥地域で砂漠化が進行していることです。
その一義的な原因はこれら地域に住む人々の生業形態である牧畜にあります。
遊牧民が飼育する家畜が草を食べつくし、遊牧民が煮炊きのための薪を採集することが、これら乾燥地域の砂漠化の進行に拍車をかけているのです。
そのため、家畜の餌が不足して家畜が育たなくなり、最悪の場合には家畜が多数、死んでしまい、牧畜という生計手段を失った牧畜民が飢餓に陥るのです。
飢餓に関していえば、より直接的な原因は、これらアフリカ地域で頻発している戦争や内乱です。
ソマリアでは20年以上にわたって内戦が続いていて、多くの難民が隣国のケニアやエチオピアに逃れているといいます。
西アフリカのサヘル地方でも、20年前からマリやニジェールに住む遊牧民のトゥアレグ族が中央政府からの分離独立を求めて武力闘争を続けていて、多数の避難民が隣国のモーリタニアに逃れているそうです。
これらの地域紛争を解決しない限り、難民の流出は続くでしょうし、子供たちの栄養不良も改善されることはないでしょう。
それでも、今現在、飢えに苦しむ子供たちがいるのであれば緊急の援助を行う必要があるのではないかといわれるかもしれませんが、
北朝鮮の例をみてもわかるように、国際的な援助物資が横流しされて、本当に困っている人々の手にわたらないことが多々あるのです。
1985年のエチオピア大飢饉のときには、マイケル・ジャクソンをはじめとするアメリカのポップシンガーたちが集まって、
エチオピアの飢えた人々を救うためにWe are the worldという曲を作って大々的に募金を呼びかけましたが、
エチオピア政府は世界中から集まってきた援助物資をソ連に売って、その金で武器を買ったといわれています。
また難民キャンプにいれば、最低限の衣食住が保証されることから、仕事をせずに遊んで暮らしたい連中がキャンプに集まってくるという問題もあります。
もちろん、これらのことは日本ユニセフとは直接、関係ありません。
彼らの仕事は寄付金を募ることであって、寄付金の使途については本家のユニセフに丸投げしているからです。
日本ユニセフとしては、多額の寄付金を集めて、その25パーセントをコミッションとしてピンハネして儲ければいいだけで、自分たちが集めた寄付金がどこでどのように使われるかはどうでもいいことなのです。
私が日本ユニセフのダイレクトメールを受け取って不愉快に思うのは、封筒に必ず栄養失調の黒人の子供の写真を印刷していることです。
日本ユニセフの広告塔の中国人歌手、アグネス・チャンは児童ポルノに反対していて、ポルノ写真を撮られた子供は大きくなって自分の写真をみて傷つくことになると主張していますが、
募金広告に写真が掲載されている子供たちが大きくなって、自分の写真が募金の宣伝のために使われていたことを知ったら傷つくとは思わないのでしょうか。
自分たちは子供たちを救うという善行を施しているのだから、そのためには子供の写真を利用するくらいは許されると考えているのであれば、それは傲慢というものです。
私は日本ユニセフに限らず、黒人の子供の写真を掲載して寄付金を募集している団体の広告をネットでみるたびにインドの女乞食を思い出します。
インドを旅行した経験のある方はご存じだと思いますが、インドの観光地には観光客相手の乞食が沢山いて、特にしつこいのが赤ん坊を腕に抱いた女乞食です。
彼女たちは左手に赤ん坊を抱いて、右手を観光客に差し出して、哀れっぽい表情を作って、「バクシーシ」といって物乞いするのですが、
赤ん坊を抱いているのは、観光客の同情をひくためで、インドには女乞食専門に赤ん坊を貸し出す商売があるそうです。
つまり、日本ユニセフもインドの女乞食も子供をダシにして金儲けをしているという点では同じなのです。
日本ユニセフの広告塔であるアグネス・チャンは、東日本大震災のあった昨年、ソマリアへ6100万ドル(約47億円)の募金を促す書き込みをブログに投稿し、
日本が震災で大変なときに、他国への寄付を呼びかけるその無神経さが批判されました。
その前年の2010年には、彼女は日本ユニセフ協会大使として治安が悪化し危険度最大レベルといわれているソマリアに行き、戦乱と貧困に苦しむ子どもたちを視察したと発表したのですが、
あとで実際に行っていたのは、危険なソマリアではなく、安全な隣国のソマリランドであることが判明しました。
この女はインドの女乞食よりも百万倍、悪質で、そんな女を広告塔に据える日本ユニセフも同じ穴のムジナでしょう。
1973年にアフリカに行ったとき、サヘル地方の飢餓の実態を垣間みたことがあります。
そのときは、テレビのドキュメンタリー番組の取材で、砂漠の遊牧民、トゥアレグが住むマリやニジェールなどをまわっていたのですが、
私たちが滞在中に、日本の新聞がサヘル地方が干ばつで深刻な飢饉に見舞われていると報じたのです。
干ばつで川などの水源が干上がり、何万頭ものゾウが水を求めて南下しているなどというヨタ記事を読んだプロデューサーが興奮して、
今やっている撮影を後回しにして、すぐに干ばつで苦しむ動物の姿を撮るようにと日頃、ケチな彼にはめずらしく相当額の追加の取材費を送ってきたのです。
プロデューサーの頭には何万頭ものゾウの群れが南を目指して移動している迫力のある映像が浮かんだのでしょうが、ディレクターは、
「新聞記者は何万頭ものゾウが南下してるなんて簡単にペンで書けるけど、こっちはその様子を写真に撮らなきゃならないんだから大変だよ」
と頭を抱えていました。
そもそも東アフリカのサバンナとは異なり、西アフリカのサヘル地方にはゾウはあまり生息していないのです。
実はその知らせが届くまで、私たちは現地にいながら、サヘル地方で飢饉が起こっていることを知りませんでした。
なぜ知らなかったかというと、ひとつは後述する理由により、飢饉のニュースがかなり誇張して報道されていたことと、もうひとつはサヘル地方は人口密度が低い地域で、飢餓が起こっても目立たないのです。
飢餓それ自体は報道されているほどの規模ではなくとも、たしかに起こっていました。
ニジェールのアイール山地で、撮影の合間に休んでいると、どこからともなく栄養失調で下腹がぷっくり膨れた子供が木製のボウルを手に持って現れ、食べ物を乞われたことがありますし、
ニジェールのアガデスの空港では、母親に抱かれた骨と皮に痩せた老婆みたいにしわしわの顔になっている赤ん坊に援助活動で来ているらしい欧米人の男性がビスケットを食べさせている光景を目撃しました。
しかしそれらの光景は散発的に目撃したもので、同じ飢餓の光景でも、その数年前、インドのカルカッタで目撃したハウラー駅の構内を埋め尽くすバングラデシュの飢饉を逃れてやって来た難民の群れの殺気立った様子と較べるとずっとおとなしく目立たないものでした。
カルカッタでは食べ物を求める飢えた人々が駅の構内だけでなく町中に溢れていましたが、サヘル地方では、人々は砂漠に散在するテントの中でひっそりと飢えていたのです。
プロデューサーが金を送ってきたので仕方なく飢饉の取材を始めたのですが、餓死した人間が出た村があると聞いて、その村に取材に行ったことがあります。
そこはトゥアレグ族の村で、飢えで亡くなったのは小さな子供でした。
子供の父親は遠方に出稼ぎに行っていて留守で、母親と4人の子供たちがひとつテントの下で生活していたのですが、食べ物がなくなって一番、身体の弱い下の子が死んだのです。
村に行ったとき、村長が出てきて、
「トゥアレグはプライドが高い部族だ。彼女は食べる物がなくなっても、隣人に助けを求めようとしなかった。だから子供が死んでしまった」
と熱弁をふるっていましたが、当の母親は、私たちの姿を見るとインドの女乞食みたいに手を差し出してきて、とても村長のいう誇り高い女性には見えませんでした。
実際は、この家族は父親のいない母子家庭だったために、ほかの村人から無視されてほったらかしにされていたのでしょう。
それが子供が死んでみて事態が深刻であることにようやく気づき、村長が慌てて助けに動いたらしかったです。
その頃には飢饉のニュースは世界中を駆け巡っていたのか、村の広場にはアメリカから送られてきたコンデンスミルクを入れたドンゴロスの袋が山積みになっていて、子供たちがそれに登って遊んでいました。
取材を進めていくうちに、干ばつや飢饉の話を大げさに言いふらしているのが、ニジェール在住のフランス人宣教師であることがわかってきました。
また干ばつと飢饉のニュースを世界に向けて発信したのは、ニジェールの首都、ニアメに駐在するAFP(フランス通信)のフランス人記者であることが判明しました。
私たちは彼に会いに行って、「飢饉というのはいわれているほど深刻ではないのではないか?」と問いただしたのですが、彼は早口のフランス語でどうでもいいようなことをペラペラしゃべりまくり、質問をはぐらかすだけでした。
その後、事情通の人間から、この時期、フランス通信が西アフリカの干ばつと飢餓のニュースを誇張して世界に報じたのは、
西アフリカのフランスの元植民地である国々からCFA圏を離脱する動きが出ていることと関係があると教えられました。
CFAというのは、「Communauté Financière Africaine」(アフリカ金融共同体)の略語で、アフリカの元フランス植民地はこの経済共同体に加盟し、フランスフランによって裏書きされるCFAフランという通貨を使用しているのですが、
このフランス主導の経済共同体に加盟するということは実質的にフランスの経済的植民地であり続けることを意味し、
それに反発したモーリタニアなど元フランス植民地の一部の国が経済的独立を目指してCFA圏を離脱しようとしていたのです。
それでフランスとしては、これら元フランス植民地諸国がフランスから経済的に独立するのは時期尚早であることを世界にアピールするために、
この地域が干ばつと飢饉に苦しんでいるとのニュースを誇張して流したというのです。
実際、ニジェールのあとにモーリタニアに行ったのですが、首都、ヌアクショットで会ったモーリタニア政府高官は、フランス通信の干ばつと飢餓に関する記事に強く反発していて、「モーリタニアでは飢饉など起こっていない」と力説していました。
この取材中、日本の某大手新聞社の特派員が西アフリカに飢饉の取材にやってきて、彼とはしばらく行動を共にしたのですが、
彼も飢饉が実際よりも大げさに伝えられていることがわかったといい、日本に帰ったらそういう趣旨の記事を書くといっていました。
しかし、あとで聞いた話では、飢饉は大したことはないという彼の記事はボツになったそうです。
新聞社としては、いったん飢饉は深刻だという記事を載せておいて、それを否定するような記事は載せられないということらしかったです。
その後、私も日本に帰国したのですが、東京の街角でボランティア団体が、
「西アフリカの干ばつで飢えに苦しむ子供たちを救うために寄付をお願いしま~す」
といって街頭募金をしている光景を見て、ひどく違和感を覚えたものです。
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女を必要としない男性
http://jack4afric.exblog.jp/17552298/
2012-05-18T01:15:00+09:00
2012-05-18T01:27:02+09:00
2012-05-18T01:15:42+09:00
jack4africa
アフリカの記憶
これまで生きてきて心底からカッコいいと思った男性はアフリカで出会った二人の男性です。
一人はフランス人で、西アフリカのニジェールの首都、ニアメで会いました。
彼はCROIX DU SUD(南十字星)という名前のサハラ砂漠の冒険ツアー専門の旅行会社を経営していたのですが、その旅行会社のネームカードの写真がカッコよかった。
砂漠で遭難した旅行者を救援するために飛んできた小型飛行機に向かって旅行者が頭に巻いていたターバンを外して振って合図している写真で、
「ウチはそんじょそこらの旅行会社とは違いますヨ」というメッセージが一目で伝わってくるものでした。
社長の彼と初めて会ったのは、ニアメで一番の高級ホテルのグランドホテルでしたが、のそっとホテルに入ってきたときの、そのいでたちに驚かされました。
年頃は50年配、ジョン・ウェインみたいな巨漢で、現地の黒人がよく穿いているモンペみたいな黒いズボンに、これもやはり現地の黒人がよく着ているノースリーブの白いシャツを着ていて、なんと裸足でした。
そんな恰好の彼にホテルの従業員はペコペコ挨拶していて、彼がニアメで大物であることが伝わってきました。
彼の部下だった現地人の黒人から聞いたところでは、彼は元々は、サハラ砂漠を縦断して物資を運ぶトラック野郎だったそうで、
トラック野郎をして稼いだ資金でニジェールでビジネスを始め、現在では、前記の旅行会社とは別に、ニアメと故郷のマルセイユの両方で薬局と写真屋を経営しているとのことでした。
このフランス人に会ったのは彼の経営する旅行会社CROIX DU SUDでサハラ旅行の車と運転手を手配してもらうためでしたが、
サハラ旅行では、彼が所有する砂漠の真ん中にある宿舎に泊まりました。
庭に井戸があるだけの電気もガスも水道もないところでしたが、砂漠の隠れ家的な雰囲気がありました。
現地人の部下によると、彼はときどき一人でこの砂漠の別宅にふらっと出かけていき、二週間くらい滞在して瞑想にふけるんだそうです。
そんな彼は独身で、周囲に女の影もありませんでした。
一度、グランドホテルのバーで一緒に飲んだとき、若いときに親友がいて、その親友と一緒に旅行会社を立ち上げて、一緒にサハラの記録映画を撮っていたのだが、事故で死んでしまったとポツリポツリ話してくれたことがあります。
彼の旅行会社には若いフランス人の部下がいて、アラン・ドロンみたいなイケメンでしたが、ニアメで会ったフランス人の新聞記者は、彼はその部下とデキているといってました。
新聞記者なんて平気で嘘をつく連中ですから、どこまで本当かはわかりませんが、彼が女を必要としない種類の男性であることは見ていてわかりました。
もうひとりアフリカで会ったカッコいい男性は、ケニアで野生動物を捕獲して外国の動物園に売る仕事をしているイギリス人でした。
昔、ケニアで動物のキャッティングの仕事をする男たちを描いたジョン・ウェイン主演の「ハタリ」というハリウッド映画があったのですが、このジョン・ウェインが演じた人物のモデルになったのがこのイギリス人だったそうです。
もっとも、彼はジョン・ウェインみたいな巨漢ではなく、小柄な優しいおじいさんでしたが。
彼は元々は結核で、医者に空気の良いところで転地療養するようにいわれてケニアにやってきて、第二次大戦が終わって不要になっていた英軍のジープを格安で払い下げてもらって動物のキャッティングの仕事を始めたという人です。
彼もまた独身で、日頃はケニア北部のイシオロというところにあるキャンプで仕事仲間と一緒に寝起きして、休日になると首都のナイロビに帰るという生活をおくっていました。
ナイロビにある彼の家は黒人の年老いた女中が一人いるだけで、彼は休日にそこでなにをしているかというとピアノを弾いているんだそうです。
カッコいいでしょ?(笑)
彼と別れるとき、彼が私にいってくれた言葉をいまでも覚えています。
「イシオロにいるわれわれのキャッティング・チームはひとつの家族みたいなもんだよ。もし君がその気になったら、いつでも戻ってきたまえ。君を家族の一員として迎えるから」
私はアフリカで出会ったこの二人から女を必要としない男の生き方のカッコよさを学びました。
私自身は、独身で通したこと以外、彼らと共通するものはなにもないのですが、それでも結婚しなかったこと、独身で通したことを全然、恥ずかしいと思わないのは、
アフリカでこの二人のカッコいい独身男と出会ったからです。
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ゾマホン・ルフィン(2)
http://jack4afric.exblog.jp/14872374/
2010-10-28T02:03:00+09:00
2016-12-22T21:07:54+09:00
2010-10-28T02:03:02+09:00
jack4africa
アフリカの記憶
ゾマホンは日本に来てから、日本が先進国になったのは教育のお陰だとわかったといってます。
日本の国民の識字率は100パーセントだけど、そんなことはベナンでは考えられないといいます。ちなみにベナンの識字率は30パーセントだそうです。
一度、西アフリカのマリで、ニジェール川の河岸の町ジェンネからトンブクツーまで運転手付きの日産の四輪駆動車を借りて行ったことがあります。
そのときの運転手はマリの隣国のブルキナ・ファソ出身の黒人でしたが、ガソリンスタンドを見つけると必ず停車して給油するんですよね。
助手席に乗っていた私はガソリンスタンドの場所がすべて記載してあるミシュランの地図を持っていて、リッター当たり何キロ走れるか計算すると、そのスタンドで給油しなくとも次の町まで行けることがわかり、
そのことを運転手の彼にいうのですが、いくら言い聞かせても彼はガソリンスタンドを見つけるたびに停車し、ガソリンを満タンにするのです。
そのうち彼が地図を読めないことに気がつきました。また燃費の計算もできないみたいで、それでガソリンがいつなくなるかわからず不安で、ガソリンスタンドを見つけると給油しないではいられないようなのです。
これじゃあどうしようもないとため息が出ましたが、こういうアフリカの底辺の人間のレベルを引き上げるためには教育が不可欠であると考えるゾマホンの気持ちはよくわかります。
それでゾマホンは日本でタレントとして稼いだ金で故国に学校を建てているそうで、そのこと自体はとても立派なことだと思うのですが、
国家の根幹に関わる教育事業をゾマホンのような個人の篤志家に任せるベナンという国もどうかと思いますネ。
ゾマホンはアフリカ人は何百年にもわたって奴隷交易と植民地支配によって欧米から搾取されたといいます。
それはそのとおりですが、ベナンは1960年に独立してもう50年も経っているのです。それで識字率30パーセントというのは、これまで50年間、何をしていたのかといいたいですね。
ゾマホンは、ベナンに学校ができないのはベナンが貧しいせいで、なぜベナンが貧しいかというと、
独立後もベナンが元の宗主国のフランスに経済的に支配され、実質的にフランスの植民地であることから抜け出せないせいだというかもしれません。
それもそのとおりなんだけど、それではベナンの側に責任はないのでしょうか?
アフリカの多くの国では大統領は独裁者で政権は腐敗していますが、ベナンの政権は腐敗していないのでしょうか。腐敗していないのであれば学校くらい作れると思いますけどね。
それにしてもこういう話を聞くと、朝鮮を併合したとき100校しかなかった学校を5000校まで増やし、小学校だけでなく中学や高校、大学まで作った日本は本当にエライと思いますね。
ゾマホンは、韓国人は植民地になったにもかかわらず、自分たちの言葉であるハングルがあるのでシアワセだといってますが、植民地時代の朝鮮でハングルの教科書を作って広めたのは日本なのです。
それを思うと日本の朝鮮や台湾の植民地支配と欧米によるアフリカの植民地支配はまったく性質の異なるものだったという気がします。
あとゾマホンはベナンにいたときから日本に憧れていたそうですが、日本には直接、留学せず、まず最初に中国に留学しました。
これはどういうことかというと、ベナンを含めて西アフリカの元フランス植民地の多くが独立後、社会主義路線を歩み、
旧ソ連や中国などの共産主義国家がこれらアフリカ諸国を積極的に支援し、これらの国から多くの留学生を自国の大学に受け入れたからです。
ゾマホンは中国には国費留学生として行ったそうですが、その後、日本には私費留学生としてやってきたといいます。
ベナン人で日本に留学したのは彼が最初だったそうです。
彼のような真面目で勉強好きな人間こそ国費留学生として日本に受け入れるべきだと思うのですが、日本とベナンの間には国費留学生の制度がないといいます。
日本政府は、反日の中国人学生を国費留学生として何千人も受け入れる金があるのであれば、その分をアフリカ人留学生に回すべきでしょう。
アフリカには今、問題になっているレアアースをはじめ地下資源が豊富に存在し、アフリカ大陸全体で50近い国々があって、その各々が国連で1票を持っているのです。
中国はそういうアフリカの重要性をちゃんと認識していて、日本から貢がせたODAで浮いた金をアフリカに回して、着実にアフリカに食い込んでいます。
例えば、ベナンには「中国文化センター」なるものがあるそうですが、「日本文化センター」は存在しないのです。
ゾマホンは、自費でベナンに「たけし日本語学校」を作ったそうですが、何度もいうように、こういう仕事は個人の篤志家に頼らず、日本政府がやるべきです。
あとこの本を読んで興味深かったのは、ゾマホンが性に対して非常に禁欲的なことです。
彼は男も女も結婚するまで、処女や童貞を守るべきだといってますが、これは私の知っているブラックアフリカの黒人の考えとは大きく異なります。
ベナンには行ったことがないので、なんともいえないのですが、一般的にいって、アフリカの黒人は性に対して寛容です。
ブラックアフリカでエイズが蔓延しているのは、このことと無関係ではないと思います。
あとゾマホンは「アフリカにはゲイはいない」といったそうですが、これは別に間違っていないと思いますネ。
アフリカにも男同士でセックスすることを好む人間はけっこういますが、彼らは必ずしも欧米人のいう「ゲイ」や「同性愛者」のカテゴリにあてはまりませんから(「スワジ族の男同士のセックス」を参照)。
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ゾマホン・ルフィン(1)
http://jack4afric.exblog.jp/14859584/
2010-10-26T00:00:00+09:00
2015-08-01T23:16:40+09:00
2010-10-26T00:00:18+09:00
jack4africa
アフリカの記憶
先日、西アフリカの小国、ベナン出身のテレビタレント、ルフィン・ゾマホンが1999年に出版した「ゾマホンの本」という本を読みました。
この本は30万部も売れてベストセラーになったそうですが、ゾマホンはこの本の印税、2000万円をすべて故国、ベナンでの学校建設の費用に充てたといいます。
ゾマホンは、ビートたけしが司会する番組、「ここがヘンだよ日本人」で人気が出たそうですが、私はこの番組を見たことがなかったので、彼の名前を知ったのは比較的、最近のことです。
ゾマホンの故国、ベナンで水上集落のある湖がゴミによって汚染され、住民の健康に悪影響を与えているので、ゾマホンがそれを改善するために日本の水質浄化専門家を連れていって対策を講じる話をテレビで見たのが最初で、
その後、別の番組で、彼の特集をやっていて、彼が有名になった今も、家賃3万5000円の木造アパートに住んで1ヶ月の生活費を8万円以下に抑えて、
あまった金をすべてベナンでの学校建設などの社会福祉事業に遣っていると聞いて随分、立派なアフリカ人がいるなぁ、と感心しました。
それでこの本を買って読んだのですが、この本で彼は故国、ベナンでの生活、中国への留学、その後の日本への留学と日本でタレントになったきっかけについて詳しく書いています。
彼はベナンの水準では、特別、貧しくも裕福でもない平均的な家庭に生まれたそうですが、学校が大好きでよく勉強したそうです。
学校は家から10キロ離れていて、毎日、往復5時間かけて歩いて通ったそうで、学校から家に帰ると母親を手伝って農作業をし、家に電気がないので、夜は街灯の下で宿題をしたといいます。
学校の昼休みには、昼飯を食べる金がなくて井戸水ばかり飲んでいたそうです。
そのような話が大した苦労話に聞こえないのは、実際、ベナンではこの程度の苦労は苦労の内に入らないからでしょう。
学校に通えない子供が数多くいるベナンでは、学校に通えるだけでも恵まれた境遇だし、昼食を抜いて水を飲むことなども本人にとってはありふれた日常でしかなかったのではないでしょうか。
その証拠に、彼は日本に来てからも、お腹が空いたときは水を飲んでいたそうで、日本では公園でおいしい水がタダでいくらでも飲めるので感激したと書いています。
そんなゾマホンから見て、アフリカとは較べものにならないほど恵まれた環境で生活していながら、生活が大変だのへったくれのと文句をいい、
ちょっと挫折しただけで簡単に自殺してしまう日本人は甘ったれているとしか思えず、自分の恵まれた境遇にもっと感謝しないとバチが当たるヨ、と警告しています。
彼はこの本で繰り返し「人生甘くない」と書いていますが、これは彼が15歳のときに過労でなくなったお父さんが口癖のようにいっていた言葉だそうです。
実際、人生は甘くないし、人生に苦労はつきものです。
おのれの無能と努力不足を棚に上げて、自分が希望する仕事に就けないのは、社会が悪い、自民党が悪い、小泉改革のせいだなどと文句をいう連中は、
人生というものはすべて、自分の思うとおりになるのが当たり前だと考えている幼稚な子供と同じです。
人生というものは自分の思うとおりにならないのが普通なのです。
こんなこといちいち言わなくとも、昔の日本人は常識として知っていたのですが・・・
ゾマホンはまた、日本人は欧米文化に毒されて堕落していると批判しています。
自分たちアフリカ人は実際に欧米の植民地になって、欧米の奴隷にされたからよくわかるけれど、日本人もこのまま行ったら欧米の奴隷になるよ、と警告しています。
ゾマホンの故国のベナンがある西アフリカのギニア湾沿岸は、ヨーロッパ人が一番最初に接触したアフリカの地域で、この地域に住む黒人が一番最初に奴隷にされたんですよね。
またこの地域はブラックアフリカでは比較的、文化レベルの高いところで、ヨーロッパ人が来る前から黒人の王国ができていました。
そのため、この地域のアフリカ人は、アフリカの中でも特別、プライドが高く、それだけ自分たちの住む国が欧米の植民地になってしまったことが悔しくてしょうがないみたいです。
以前、フランスのパリに住んでいたとき、アフリカの元フランス植民地から来た黒人留学生に、
「日本人はフランス語が下手だな」
といわれて、
「日本はフランスの植民地になったことがないからね」
と言い返したら、黒い顔を真っ赤にして怒ったので驚いたことがあります。
こういうプライドの高い黒人にはアフリカでも沢山、出会いましたが、彼らのプライドの高さと現実の生活の貧しさのギャップが見ていて辛かったです。
ゾマホンの故国、ベナンもフランスの植民地になって、住民はキリスト教に改宗させられ、学校ではフランス語を教えられたそうですが、
すべての子供が学校に通うわけではないので、大統領が公用語であるフランス語で演説しても、国民の多くはその言葉を理解できないという、滑稽かつ悲劇的な状況が起きているそうです。
ゾマホン・ルフィン(2)へ
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ピグミーを愛した男
http://jack4afric.exblog.jp/14179099/
2010-07-13T07:26:00+09:00
2013-11-13T14:32:15+09:00
2010-07-13T07:26:03+09:00
jack4africa
アフリカの記憶
コリン・M・ターンブルは、ピグミー研究で有名な人類学者です。
ロンドン生まれで、オックスフォード大学で哲学・政治学を修めたあと、第二次大戦中は海軍士官として兵役につき、除隊後、インドのバラナシ・ヒンズー大学でインド哲学とインド宗教を2年間、学びます。
その後、オックスフォード大学に復学して本格的に人類学を学び、アフリカを研究対象に選び、ベルギー領コンゴ(現コンゴ民主共和国)のイツリの森でピグミー研究のフィールドワークを行います。
1961年に彼のピグミー研究の成果である処女作、The Forest People(邦訳『森の猟人ピグミー』筑摩書房=絶版)を出版しますが、この本は世界的なベストセラーとなり、コリン・ターンブルの名を一躍、有名にすると同時に、
それまでジャングル奥地に住む未開のコビト人種としてしか認識されていなかったピグミーが、いかに才能に恵まれた(特に音楽分野で)魅力ある人々であるかを世界に知らしめることになります。
コリン・ターンブルのアフリカでの研究対象はピグミーだけではなく、ウガンダの高地に住む狩猟民イク族の村にも滞在してフィールドワークを行っています。
このときの体験記が1972年に出版されたThe Mountain People(邦訳『ブリンジ・ヌガグ』筑摩書房=絶版)ですが、村を襲った飢餓によって、
村のコミュ二ティーが崩壊していく様を淡々とした筆致で冷静に描いた(ターンブルは大変な名文家です)この本は大きな反響を呼び、賛否両論を巻き起こしました。
演劇界の鬼才ピーター・ブルックが、この本をもとに『イク族』(The Iku)という戯曲を書き、世界各地で上演して好評を博する一方で、
ターンブルが飢餓に苦しむ村人を助けようとせず、彼らが苦しむ様を「冷静に観察した」ことにたいして批判の声があがったのです。
これは人類学者がその研究対象にどのように向かい合うべきかという、容易に答えが出ない難しい問題に関係する議論なのですが、
ターンブル自身は、アフリカで接触した人々にたいし、常に理解のある、あたたかい見方をしていたと言われています。
そのことをよく示しているのが1962年に出版されたThe Lonely African(邦訳『ローンリーアフリカン』白日社=絶版)です。
この本には、三度にわたるコンゴのイツリの森でのフィールドワークを通して知り合ったイツリの森周辺に住むバンツー族の黒人が、
伝統的な部族的価値観と、新しく彼らの生活に侵入してきた西欧的価値観の間で引き裂かれ、苦しむ様子が生々しく描かれています。
欧米人の学者によって書かれた非欧米地域の文化や人々を紹介する本を読むと、著者がその研究対象とする地域やそこに住む人々に愛着を示す一方で、
自分が属する西欧文化の優越を自明の理としているところが随所にうかがえて、鼻白むおもいをすることが多いのですが、
この『ローンリー・アフリカン』では、ターンブルは完全にアフリカの黒人の視点に立って、白人の行政官や宣教師が、いかに無神経なやり方で土着の黒人文化を破壊したかを抑えた筆致ながら厳しく告発しています。
ターンブルが、アフリカの黒人の心情をこれほど深く理解できたのは、彼がホモセクシュアルであったことと無関係ではないと思います。
ターンブルは、自分が同性愛者であることを隠さずにオープンにしていたそうですが、著作では自分の性的嗜好については一切、触れていません。
それでも『ローンリー・アフリカン』に書かれている、ベルギー人行政官の愛人になった黒人の美少年の話や、
ケニアの首都ナイロビの公園などで白人旅行者相手に身体を売る黒人の若者の話を読んで、彼が同性愛者であることはピンときました。
ターンブルの死後、出版された彼の伝記、In the Arms of Africa by Roy Richard Grinkerによると、ターンブルは、イツリの森でピグミーと一緒に生活しているときに、ピグミーの若い男と性的関係を持ったことがあるそうです。
私がピグミーと暮らした経験からいうと(「ピグミー」を参照)、ピグミーには独特の強烈な体臭があって、とてもじゃないけど、セックスなんかする気にはなれなかったのですが、
ターンブルが愛し、研究助手に雇っていたケンゲという名前のピグミーの若者は、ターンブルがピグミー研究の基地にしていた街道沿いのエプルーという村で、西洋人が経営するホテルで下働きをしていたことのある、
文明化されたピグミーで、村のホテルでシャワーを浴びるときや、森の中の小川で水浴びするときは必ず、石鹸で身体を洗う習慣を持っていたのだそうです。
まぁ、そうじゃないと無理だろうなと思います。
私は森の中でピグミーと一緒に生活していたときは、テントを張って、折り畳み式のベッドで寝袋にくるまって寝ていましたが、
ターンブルは、森の中でピグミーと生活していたときは、他のピグミーと同様、木の枝を組み合わせて作った骨組みを木の葉で葺いたゴリラの巣に毛が生えたような小屋に住み、夜は小屋の中でケンゲと抱き合って寝ていたそうです。
抱き合って寝るのは、必ずしも性的な関係を意味するものではなく、赤道直下にもかかわらず、ジャングルの夜は寒いので、暖を取るために、ピグミーたちは夜、抱き合って寝る習慣があるのです。
しかし、若い男が抱き合って寝ていれば、特にホモ趣味がなくとも、成り行きで性的関係を持ってしまうことはよくあることです。
ましてやターンブルは、男好きだったわけですから、ケンゲとそういう関係を持っていたとしても不思議ではなでしょう。
ターンブルは、スコットランド系の大柄なイギリス人でしたが、ピグミーのような小柄な人種を好み、ピグミーのあと研究対象にしたウガンダのイク族も、やはり小柄な部族でした。
そして、彼が長年にわたって人生を共にしたパートナーであるアメリカの黒人、ジョセフ・タウルズ(1937-1988)、通称ジョーも、身長170センチそこそこのアメリカの黒人としては小柄な男性でした。
前記のターンブルの伝記は、このジョーとの30年に及ぶ事実上の「結婚生活」の実態について、赤裸々に語っています。
コリン・M・ターンブルとジョセフ・タウルズの関係は、ハッピーエンドにはなりませんでしたが、「マイ・フェア・レディ」のヒギンズ教授と花売り娘、イライザのゲイバージョンでした。
ターンブルは、アフリカでのピグミーの研究を終えたあと、NYのアメリカ自然史博物館のアフリカ民族学担当のキュレーターの職を得て、1959年にNYに移り住みます。
そしてNYのゲイバーで、アメリカ南部出身の俳優志願の貧しい黒人の若者、ジョーと出会うのです。
二人は出会ってすぐに恋に落ち、NYのターンブルのアパートで同棲するようになります。
そしてターンブルは、ジョーのためにアメリカ自然史博物館のボランティアの仕事をみつけます。
当時はアメリカではまだ同性愛が社会的に認知されておらず、ターンブルの同僚の人類学者が館長に宛てて、
「ターンブルとジョセフ・タウルズのようなホモ・カップルを博物館で雇用すべきではない」
という告発の手紙を出したそうですが、逆にその手紙を書いた本人が博物館をクビになったそうです。
1961年にターンブルが出版した「森の猟人、ピグミー」が世界的なベストセラーになってターンブルの名声が高まり、ターンブルが働いていることは博物館にとって名誉なことになっていたのです。
ターンブルは、ジョーを自分と同様、一流の文化人類学者に育てるという野心を持ち、学費を出してジョーを大学に入れて、人類学の勉強をさせます。
しかし、ジョーはなんとか大学院を卒業し、博士号を取って、人類学者の卵にはなったものの、学者としては大した業績を挙げることはできませんでした。
ターンブルは、アメリカ自然史博物館で働いた後、アメリカのいくつかの大学で教えるようになりますが、彼は、大学教師としても有能で、彼の講義は大変人気があり、多くの学生が集まったといいます。
そのため、ターンブルの元には、全米の大学から教授に迎えたいというオファーが舞い込んだそうですが、彼は必ず自分と一緒にジョーを助教授として雇うという条件を出し、その条件が満たされない限り、オファーを受けなかったそうです。
大学の多くは、ターンブルという名物教授を手に入れるためなら、助教授の1人くらい雇ってもかまわないという考えだったので、ジョーは簡単に助教授の職を得ることができました。
しかし、彼の助教授としての評判はよくありませんでした。学生の間では、彼は、教え方が下手くそで、ヒステリックで、すぐにかんしゃくを爆発させるといわれ、嫌われていました。
ジョーはもともと、キャリア志向はなく、料理が得意な家庭的なタイプで、専業主夫として家庭にいるのが似合っていたのです。
しかし、ターンブルはジョーが家庭に入ることを許さず、あくまでも人類学者として成功することを望みました。
当時、アメリカの黒人差別はまだ厳しく、ターンブルは、黒人であっても努力すれば優秀な学者になれることをジョーを使って証明したかったのです。
しかし、このターンブルの期待はジョーにとって重荷になり、彼は徐々に、子供が父親に反抗するように、ターンブルに反抗するようになります。
1960年代の後半に、2人は、バージニア州のジョーの故郷の町に豪邸を建てて移り住みますが、
2人が住む豪邸には、夜ごと、ジョーの幼馴染の黒人の若者たちが訪れるようになり、ジョーは彼らと遊び歩いて、セックスとドラッグに溺れるようになります。
さらにジョーは精神的にもおかしくなり、ターンブルに向かって暴力を振るうようになります。
ジョーが斧を手にして「殺してやる」と叫びながら、屋敷中、ターンブルを追い回したときには、さすがのターンブルも生命の危険を感じ、心配した友人たちの忠告を受け入れてジョーと別居することに決めます。
しかし、1982年にジョーはHIVに感染していることが判明し、エイズを発症します。
ジョーがエイズを発症したとき、彼と性関係をもっていたターンブルは、当然のことながら、自分も感染しているのではないかと疑い、HIV検査を受けます。
検査の結果が陽性であると判明したとき、彼はむしろ喜んだといいます。愛するジョーと同じ病気にかかって嬉しかったというのです。
ターンブルは大学を辞めて、ジョーを献身的に看病しますが、1988年にジョーが亡くなると、自分とジョーの合同の葬式をあげて共同の墓を作り、全財産をアメリカの黒人支援団体に寄付して出家します。
そして1994年に自身もまたエイズで死亡するまで、ダライラマの長兄に師事するチベット仏教僧、Lobsong Ridgolとして余生を送るのです。
コリン・ターンブルとジョー、1972年、コンゴ、イツリの森
ターンブルとピグミー
チベット僧になった晩年のターンブル
本日のお知らせ:
「北欧の個人主義と「釜ヶ崎の語源」を一部、加筆修正しました。
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トゥアレグ
http://jack4afric.exblog.jp/12369929/
2009-11-24T00:07:00+09:00
2009-11-24T00:10:53+09:00
2009-11-24T00:07:10+09:00
jack4africa
アフリカの記憶
トゥアレグは、西アフリカのマリからニジェール、アルジェアに至るサハラ砂漠一帯に住む遊牧民で、その起源ははっきりしませんが、北アフリカの先住民である白人系のベルベル族の一種であるといわれています。
かって収穫期になるとサハラ以南の黒人のバンツー族の農民の村落を襲って穀物を略奪すると同時に黒人も捕らえて家内奴隷として使う習慣があったため、
現在では黒人との混血が進んでいますが、昔は金髪碧眼のトゥアレグもいたそうです。
トゥアレグ族は一応、イスラム教徒ですが、女系性で女性の立場が強く、一般のイスラム教徒と異なり、女性が顔をベールで隠す習慣はありません。
反対に男性がターバンと覆面で顔を隠すのです。
彼らは人前で素顔を晒すことを極端に嫌い、人と一緒に食事をするときも、うつむいて左手で覆面を下にずらし、右手にもった食べ物を素早く口に入れると、すぐに覆面を引き上げて顔を覆うという用心深さで、
彼らにとって素顔を晒すことは、我々が人前でパンツを脱いで裸になる感覚に近いという印象を受けました。
なぜ、トゥアレグの男たちが顔を隠すようになったのか、その経緯は知りませんが、元々は砂漠をラクダで旅しているときに、風と共に吹き付けてくる砂塵から顔を守るために布で覆っていたのが習慣化したのではないかと思います。
いずれにせよ、頭にターバンを巻き、覆面をして、日本のサムライのように腰に大小の刀を差しているトゥアレグには近寄りがたい雰囲気があり、
また実際、彼らは猜疑心が強く、外部の人間にたいしては容易に心を開こうとしないところがあります。
私は西アフリカのマリとニジェールでトゥアレグと3ヶ月近く一緒に暮らしたのですが、最後まで彼らが何を考えているか、よく理解できませんでした。
その前の年にジャングルで一緒に暮らしたピグミーとは対照的で、日本人のルーツを辿っていくとアフリカのピグミーに行き着き、
欧米の白人のルーツを辿っていくとこの遊牧民のトゥアレグに行き着くのではないかという印象を受けました。
各トゥアレグの部族はアメノカルと呼ばれる酋長によって率いられています。
アメノカルに会う前から、アメノカルは特別な人間だから、会えばひと目でその人物であることが判るといわれていましたが、
実際、ニジェール北部にあったアメノカルのキャンプを訪れて、出迎えたアメノカルの息子に会ったとき、その身体が大きいことと容貌が魁偉なことに驚きました。
アメノカルのキャンプに案内してくれたのは、チャーターした四輪駆動のジープの運転手で、アーメッドという名前の「文明化されたトゥアレグ」でした。
アーメッドはターバンも覆面もしていず、普通の服装をしていましたが、大変ハンサムな男で、背も高く、身長は180cmくらいありました。
ところが、出迎えたアメノカルの息子は、そのアーメッドよりもさらに頭ひとつほど背が高かったのです!
ということは身長が2メートルくらいあったことになります。
彼を見た瞬間、弱い動物が自分よりも格段に強い動物で出会ったときに感じるような本能的な恐怖感に襲われたことを覚えています。
彼が敵対的な態度をとったわけではありません。それどころか、とても紳士的で丁寧な対応をしてくれたのですが、普通の人間の倍はありそうな大きな顔、
猛禽類を思わせる大きなワシ鼻、目の網膜の血管がはっきりわかるほど真っ赤に充血した大きな目をした彼の前に立つと、自分がワシに狙われたネズミになったような気がしたのです!
彼の父親のアメノカルにはテントの中で会いました。
彼はもう90歳を過ぎた痩せ細った老人で、病気で臥せっていましたが、横たわったまま若い頃、敵対するトゥアレグの部族との間で行なった数々の戦闘について懐かしそうに語ってくれました。
その風貌をみて、伝説のアメリカ・インディアンの酋長、シッティング・ブルやジェロニモはこんな感じの人物ではなかっただろうか、と思ったものです。
トゥアレグは昔から、アザライと呼ばれるラクダの隊商を組んで、サハラの交易に従事してきました。
彼らが運ぶ主な商品は塩で、それは現在でも変わっていません。
マリでは、ニジェール河沿岸の古くからの交易都市、トンブクトゥーとその北方、750kmの砂漠のど真ん中にある岩塩の採掘場、タウデニを結ぶラクダのキャラバンが有名です。
ニジェールでは、北部の交易都市、アガデスとその東方、600kmのところにある塩田のオアシス、ビルマを結ぶルートが知られています。
このアガデスからビルマの間にはテネレ砂漠と呼ばれる砂漠が広がっているのですが、このテネレ砂漠を越えてビルマまで行くラクダのキャラバンの様子は以前、NHKで放映したのを観たことがあります。
アガデスからビルマの間は途中に涸れかけた井戸が一箇所あるだけの完全な砂漠で、そこを行くキャラバンの旅は大変、過酷なもので、砂嵐に巻き込まれて遭難することも多いといいます。
前述した運転手のアーメッドは13歳のときに父親に連れられてこのキャラバンに参加した経験があるそうですが、一回でこりごりで、二度と行きたくないと語っていました。
私自身、実際にキャラバンに同行してみて、ラクダを率いて砂漠を旅することが、いかに過酷な労働であるかよく理解できました。
私が同行したのは、アガデスの北にあるアイール山地に住むトゥアレグのキャラバンで、彼らはアガデスとビルマ、ザンデールの3地点を結ぶ交易を行なっていました。
まず彼らは最初にアガデスからビルマまで行って、ビルマの塩田でできた塩を購入してアガデスに戻り、
アガデスでその一部を売ってから、残りの塩と共にニジェールの南、ナイジェリアとの国境に近い町、ザンデールに向かいます。
ザンデールではビルマから運んできた塩を黒人のバンツー族が収穫した穀物と物々交換します。
そして塩と交換した穀物をアガデスまで運んでいってアガデスの商人に売り、それで得た金で生活必需品や家族への土産を買ってアイール山地の故郷の村に戻るのです。
私が同行したのは、ザンデールから穀物を積んでアガデスに向かう50頭くらいのラクダのキャラバンでしたが、彼らは毎朝8時頃、出発すると日没まで途中で休憩することなく歩き続けます。
途中で休んでしまうと、せっかく組んだラクダの隊列が乱れてしまい、また組み直す必要があるので休憩しないということでしたが、昼食なんかも歩きながら食べるのです。
歩く速度も速く、私みたいな足の短い人間は小走りに走らないとついてゆけない程のスピードでスタスタ歩いて行きます。
幸い、アーメッドの運転するジープでついていったので、無理に歩く必要はなかったのですが・・・
途中、井戸があるところでラクダに水を飲ませるときでも、隊列を乱さないように先に一人の男が井戸まで走っていって、
あらかじめ井戸から水を汲んで傍の水槽に水を貯めておき、隊列を保ったまま、先頭のラクダから順番に要領よく水を飲ませていくのです。
そして夕方7時頃、陽が沈むと歩みを止めて宿営することになるのですが、ラクダの背から積んでいる荷を降ろし、
夜の間にラクダが遠くまで行ってしまわないように1頭ずつ後ろ脚2本を一緒に紐で縛るという仕事が残っています。
それが終わると焚き火をおこしてやっと夕食の時間になるのですが、翌朝は6時頃に起きて、あちこちに散らばっている草を食んでいるラクダを集め、
後ろ脚を縛っている紐をほどいてからラクダの背に荷物を積み込み、また隊列を組んで出発するのです。
このような日々が最長で2週間くらい続くのです。
私はこのキャラバンに合流する前に彼らの故郷のアイール山地のトゥアレグの村にしばらく滞在していました。
そのときにトゥアレグの女たちの歌をテープレコーダーに録音したのですが、ある晩、夕食後にキャラバンの男たちと焚き火を囲んで、
お茶を飲みながら雑談しているときにそのテープを聴かせたら、男たちは興味津々で耳を傾けていました。
テープからトゥアレグの女たちが祝いの席や旅に出る男たちを見送るときに発する舌の先を口蓋に断続的に打ちつけながら、ラ・ラ・ラ・ラ・ラ・・・・♪
という頭のてっぺんから突き抜けるような甲高い歓声が流れてくると、男たちは奇声をあげ、ひどく興奮して落ち着かない様子になりました。
故郷のアイール山地を出てから何ヶ月も女っ気なしに過ごしているわけですから、女たちの歌声を聴いて興奮するのも無理はありません。
女たちの声を聴かせることで、寝た子を起こすというか、彼らの抑えていた性欲を刺激してしまった結果になり、余計なことをしてしまったとあとで後悔しました。
この女たちの歌をトゥアレグの村で録音したときのことも、印象深く覚えています。
そのとき、集落では男たちは殆どキャラバンに出てしまい、僅かな男たちを除いて、女ばかり残っていたのですが、あるとき一人の男がやってきて、ある女に悪霊が憑いたので、それを払う儀式をするといいました。
悪霊を払う儀式というと大げさに聞こえますが、悪霊が憑いたという女は、夫がキャラバンに出ていて、ずっと一人で孤独な生活をしていたために憂鬱症にかかったらしく、
みんなで賑やかに歌って踊って彼女の憂鬱を吹き飛ばすというのが儀式の主旨のようでした。
悪霊が憑いているという女の家に入っていく通路の左手に女たちが並んで座り、スイカほどの大きさの球形のひょうたんを半分に切った上半分を、
水を張った洗面器にお椀のように伏せて載せ、太鼓代わりにしたものを叩きながら、賑やかに歌いはじめました。
女たちの対面には、数メートルの間隔を開けて低い木のベンチが置かれ、その上に村に残っている男たちが5人ほど並んで腰かけました。
私も一応、男ということで、彼らと一緒にベンチに腰かけさせられました。
女たちの歌がはじまってしばらくすると、前の家から頭からすっぽりとベールを被り、首のまわりを紐で縛ったテルテル坊主みたいな格好をした女がぴょこぴょこ飛び跳ねるようにして踊りながら出てきました。
それが悪霊が憑いたといわれる女で、顔はベールで完全に覆われていて見えないものの、まだ少女といった感じの幼い年頃に見えました。
女たちは賑やかにひょうたんの太鼓を叩き、歌いながら、ときどきラ・ラ・ラ・ラ・・・♪という例の歓声をあげます。
すると女たちの正面に座った男たちが女たちの歓声にあわせて腹の底から押し出すようなオッ、オッ、オッ、という低いうめき声を出して唱和するのです。
テルテル坊主は女たちと男たちの間に挟まれたスペースで一心不乱に踊り続け、徐々にトランス状態に入っていきます。
女たちの金切り声と男たちの低いうめき声、代わる代わる発せられるその声を聴いているうちに、それがあのときに男女があげる声を模したものであることがわかってきました。
男たちと並んでベンチに座っていると、女たちが金切り声をあげるたびに、男たちが性的に興奮してくるのがわかり、
その興奮が隣に座っている男の密着した身体から私の身体にじかに伝わってきて、私までエロチックな気分になって、ひどく興奮してしまったことを覚えています。
タウデニからトンブクトゥーまで板状の岩塩をラクダに載せて運ぶトゥアレグのキャラバン
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