<?xml version="1.0" encoding="utf-8" ?>
<?xml-stylesheet href="/pg/xsl/rss_xsl.asp?blogurl=jack4afric" type="text/xsl" media="screen"?>
<rss version="2.0" xmlns:dc="http://purl.org/dc/elements/1.1/" xmlns:sy="http://purl.org/rss/1.0/modules/syndication/" xmlns:admin="http://webns.net/mvcb/" xmlns:rdf="http://www.w3.org/1999/02/22-rdf-syntax-ns#" xmlns:georss="http://www.georss.org/georss">
<channel>
    <title>ジャックの談話室</title>
    <link>http://jack4afric.exblog.jp</link>
    <description>自分の性的嗜好について日頃、考えていることや世界の同性愛文化の比較、世界の男色習俗の紹介、旅行記、大好きなアフリカ大陸や映画の話</description>
    <dc:language>ja</dc:language>
    <dc:creator>jack4africa</dc:creator>
    <dc:rights>Copyright 2012</dc:rights>
    <pubDate>Fri, 25 May 2012 0:02:36 +0900</pubDate>
    <dc:date>2012-05-25T00:02:36+09:00</dc:date>
    <sy:updatePeriod>hourly</sy:updatePeriod>
    <sy:updateFrequency>1</sy:updateFrequency>
    <sy:updateBase>2003-06-01T12:00+09:00</sy:updateBase>
    <image>
        <title>ジャックの談話室</title>
        <url>http://pds.exblog.jp/logo/1/200604/03/98/f010739820080321235112.jpg</url>
        <link>http://jack4afric.exblog.jp</link>
        <width>80</width>
        <height>60</height>
        <description>自分の性的嗜好について日頃、考えていることや世界の同性愛文化の比較、世界の男色習俗の紹介、旅行記、大好きなアフリカ大陸や映画の話</description>
    </image>
    <item>
        <title>クリスチャン・チャベス　－　ゲイをカミングアウトしたメキシコのポップシンガー</title>
        <link>http://jack4afric.exblog.jp/17579286/</link>
        <guid isPermaLink="true">http://jack4afric.exblog.jp/17579286/</guid>
        <description>
<![CDATA[  
<center><img class="IMAGE_MID" src="http://pds2.exblog.jp/pds/1/201205/24/98/f0107398_23534671.jpg" border="0" width="246" height="330"/></center><br/>
上の写真は、メキシコの人気ポップグループのメンバー、クリスチャン・チャベスです。<br/>
<br/>
彼は５年前の２００７年にゲイであることをカミングアウトしてメキシコで話題になったそうです。<br/>
<br/>
カミングアウトしたのは、みずから進んでというわけではなく、ボーイフレンドとキスしている写真がインターネットに流出して、それで仕方なくゲイであることを告白したそうですが、<br/>
<br/>
保守的なカトリックの国であるメキシコでは波紋を呼んだようです。<br/>
<br/><br/>ただし、メキシコはカトリックのタテマエは別にして、男同士のSEXはわりとフツーに行われていて、<br/>
<br/>
アメリカみたいな激しいホモフォビアも存在しないので、ファンも寛大に受け入れたみたいです。<br/>
<br/>
下のミュージックビデオでも、ゲイであることを開き直っているというか、ゲイであることをうまく使っている感じで、こういう路線もありかなと思います。<br/>
<br/>
Christian Chavez & Anahi "LIBERTAD" <br/>
http://www.youtube.com/watch?v=_pj1s79M3PE<br/>
マツコ・デラックスが一瞬、出てきます。<br/>
<br/>
<center><img class="IMAGE_MID" src="http://pds2.exblog.jp/pds/1/201205/24/98/f0107398_2357379.jpg" border="0" width="500" height="312"/></center>
 ]]> 
</description>
        <dc:subject>世界の映画＆音楽、その他</dc:subject>
        <dc:creator>jack4africa</dc:creator>
    <pubDate>Fri, 25 May 2012 0:00:09 +0900</pubDate>
    <dc:date>2012-05-25T00:00:09+09:00</dc:date>
    </item>
    <item>
        <title>私がアフリカに永住することを諦めた理由</title>
        <link>http://jack4afric.exblog.jp/17567977/</link>
        <guid isPermaLink="true">http://jack4afric.exblog.jp/17567977/</guid>
        <description>
<![CDATA[  
<br/>
２０代の前半にブラックアフリカに行って、凄く気に入って、一時は永住したいと思い詰めたくらいですが、、<br/>
<br/>
最終的にアフリカに住むことを断念したのは、自分は白人みたいに黒人を差別できないだろうと思ったからです。<br/>
<br/>
私がアフリカで出会った白人は、例外なく人種差別主義者で、黒人は白人よりも劣る存在だと考えていました。<br/>
<br/>
彼らにとってそれはあまりにも明白なことで、議論の余地がないという感じでした。<br/>
<br/>
その代表がシュバイツァー博士です。<br/>
<br/>
シュバイツァー博士は中央アフリカのガボンのランバレネで病院を運営し、黒人の治療に献身してノーベル平和賞を受賞した偉人として知られていますが、頑固な人種差別主義者で、黒人のことを「愚かな兄弟」と呼んでいました。<br/>
<br/>
シュバイツァー博士のような白人はアフリカではめずらしくないというか、殆どの白人が彼みたいなタイプで、そういう白人は黒人に対して家父長的に接していました。<br/>
<br/><br/>前回、紹介したニジェールで出会った旅行会社を経営しているフランス人もそのタイプで、彼は少々、デキの悪い黒人の部下でもクビにせずに使っていました。<br/>
<br/>
「お前は馬鹿で無能だけれど、そんなお前を俺は見捨てずに使ってやるよ」<br/>
<br/>
という態度で現地人の部下に接していたのです。<br/>
<br/>
シュバイツァー博士がガボンで出会った「愚かな兄弟」に愛情を注いだのと同じです。<br/>
<br/>
現地人の部下はそんな彼に反発を感じるどころか、心酔してました！<br/>
<br/>
彼を見ていてわかったのは、アフリカで黒人に畏敬され、尊敬されるためには、黒人から見て自分は絶対、この人に敵わないというイメージを植え付ける必要があるということです。<br/>
<br/>
そのためにはまず、当の本人が自分は黒人と比較してあらゆる面で優れているという確信というか信仰を持たなければならないのですが、<br/>
<br/>
それを可能にしているのが、白人が持つ強烈な白人至上主義です。<br/>
<br/>
一方、日本人は、白人のように黒人に対する優越感を持っていません。<br/>
<br/>
その結果、日本人は、ついつい「黒人も同じ人間だ」などと思ってしまうのですが、白人は、口には出さなくとも、黒人と白人が同じ人間だなんて絶対に思いません。<br/>
<br/>
つまり、日本人は白人と較べて異人種に対するサベツ意識が薄いということで、それ自体は自慢できることだと思います。<br/>
<br/>
また日本は戦後、一億総中流社会を作り出すことに成功し、社会的な階級というものを失くしてしまいました。<br/>
<br/>
最近は日本社会でも格差が拡大しているといわれていますが、それでも日本社会は基本的に平等社会で、人と付き合うときに互いの身分や階級を意識することはありません。<br/>
<br/>
このこともまた素晴らしいことだと思うのですが、そのような均等社会に育った日本人がアフリカに行って、無邪気な平等意識を持って黒人に接するとどうなるか。<br/>
<br/>
黒人になめられてしまうのです。<br/>
<br/>
アフリカに住んでいたとき、現地の白人によくいわれたのは、黒人にいうことを聞かせるためには、どちらがマスター（主人）であるかはっきりと判らせる必要があるということでした。<br/>
<br/>
黒人がギャアギャアうるさくいったら、横っ面を張り倒せ！　ともいわれました。<br/>
<br/>
しかし、身長１６５センチしかない小柄な私が身長１９０センチくらいある大柄な黒人を張り倒すというのは現実的ではありません。<br/>
<br/>
下手したら殴り返されます（笑）<br/>
<br/>
白人がそういうことを簡単にいえるのは、白人が黒人に負けないくらいの大柄で強靭な肉体を持っているからです。<br/>
<br/>
また、肉食人種である白人はある意味、黒人よりもずっと野蛮なところがあります。<br/>
<br/>
自分たちに刃向う者に対して暴力を行使することに躊躇しません。<br/>
<br/>
もうひとつ白人が黒人に対して圧倒的な優越感を抱く根拠に、キリスト教の存在ような気がします。<br/>
<br/>
キリスト教徒の白人には、ユダヤ教徒と同様の選民思想があって、それが異教徒や有色人種に対するサベツとなって現れているような気がするのです。<br/>
<br/>
たとえば、前記のシュバイツァー博士は、熱心なキリスト教の伝道師としても知られた人で、彼の中では良きキリスト教徒であることと人種差別主義者であることが矛盾なく同居していたのです。<br/>
<br/>
白人たちが黒人が白人よりも劣っていると固く信じているのは、一種の信仰のようなもので、それはキリスト教の信仰と深いところでつながっているような気がするのです。<br/>
<br/>
実際、キリスト教徒の白人ほどサベツ意識の強い人種は世界中、探しても存在しませんし、彼らが異教徒や異人種に対してどれほど酷い仕打ちをしてきたか、歴史を見れば明らかです。<br/>
<br/>
結局、白人のような生まれつきの強靭な肉体を持たず、聖書に裏打ちされた確固たる選民思想も持たない私のような日本人がアフリカに永住することは不可能であるという結論に到達して、私は日本に帰国することに決めたのでした。<br/>

 ]]> 
</description>
        <dc:subject>海外生活</dc:subject>
        <dc:creator>jack4africa</dc:creator>
    <pubDate>Tue, 22 May 2012 0:04:01 +0900</pubDate>
    <dc:date>2012-05-22T00:04:01+09:00</dc:date>
    </item>
    <item>
        <title>女を必要としない男性</title>
        <link>http://jack4afric.exblog.jp/17552298/</link>
        <guid isPermaLink="true">http://jack4afric.exblog.jp/17552298/</guid>
        <description>
<![CDATA[  
<br/>
これまで生きてきて心底からカッコいいと思った男性はアフリカで出会った二人の男性です。<br/>
<br/>
一人はフランス人で、西アフリカのニジェールの首都、ニアメで会いました。<br/>
<br/>
彼はCROIX DU SUD（南十字星）という名前のサハラ砂漠の冒険ツアー専門の旅行会社を経営していたのですが、その旅行会社のネームカードの写真がカッコよかった。<br/>
<br/>
砂漠で遭難した旅行者を救援するために飛んできた小型飛行機に向かって旅行者が頭に巻いていたターバンを外して振って合図している写真で、<br/>
<br/>
「ウチはそんじょそこらの旅行会社とは違いますヨ」というメッセージが一目で伝わってくるものでした。<br/>
<br/>
社長の彼と初めて会ったのは、ニアメで一番の高級ホテルのグランドホテルでしたが、のそっとホテルに入ってきたときの、そのいでたちに驚かされました。<br/>
<br/>
年頃は５０年配、ジョン・ウェインみたいな巨漢で、現地の黒人がよく穿いているモンペみたいな黒いズボンに、これもやはり現地の黒人がよく着ているノースリーブの白いシャツを着ていて、なんと裸足でした。<br/>
<br/>
そんな恰好の彼にホテルの従業員はペコペコ挨拶していて、彼がニアメで大物であることが伝わってきました。<br/>
<br/><br/>彼の部下だった現地人の黒人から聞いたところでは、彼は元々は、サハラ砂漠を縦断して物資を運ぶトラック野郎だったそうで、<br/>
<br/>
トラック野郎をして稼いだ資金でニジェールでビジネスを始め、現在では、前記の旅行会社とは別に、ニアメと故郷のマルセイユの両方で薬局と写真屋を経営しているとのことでした。<br/>
<br/>
このフランス人に会ったのは彼の経営する旅行会社CROIX DU SUDでサハラ旅行の車と運転手を手配してもらうためでしたが、<br/>
<br/>
サハラ旅行では、彼が所有する砂漠の真ん中にある宿舎に泊まりました。<br/>
<br/>
庭に井戸があるだけの電気もガスも水道もないところでしたが、砂漠の隠れ家的な雰囲気がありました。<br/>
<br/>
現地人の部下によると、彼はときどき一人でこの砂漠の別宅にふらっと出かけていき、二週間くらい滞在して瞑想にふけるんだそうです。<br/>
<br/>
そんな彼は独身で、周囲に女の影もありませんでした。<br/>
<br/>
一度、グランドホテルのバーで一緒に飲んだとき、若いときに親友がいて、その親友と一緒に旅行会社を立ち上げて、一緒にサハラの記録映画を撮っていたのだが、事故で死んでしまったとポツリポツリ話してくれたことがあります。<br/>
<br/>
彼の旅行会社には若いフランス人の部下がいて、アラン・ドロンみたいなイケメンでしたが、ニアメで会ったフランス人の新聞記者は、彼はその部下とデキているといってました。<br/>
<br/>
新聞記者なんて平気で嘘をつく連中ですから、どこまで本当かはわかりませんが、彼が女を必要としない種類の男性であることは見ていてわかりました。<br/>
<br/>
もうひとりアフリカで会ったカッコいい男性は、ケニアで野生動物を捕獲して外国の動物園に売る仕事をしているイギリス人でした。<br/>
<br/>
昔、ケニアで動物のキャッティングの仕事をする男たちを描いたジョン・ウェイン主演の「ハタリ」というハリウッド映画があったのですが、このジョン・ウェインが演じた人物のモデルになったのがこのイギリス人だったそうです。<br/>
<br/>
もっとも、彼はジョン・ウェインみたいな巨漢ではなく、小柄な優しいおじいさんでしたが。<br/>
<br/>
彼は元々は結核で、医者に空気の良いところで転地療養するようにいわれてケニアにやってきて、第二次大戦が終わって不要になっていた英軍のジープを格安で払い下げてもらって動物のキャッティングの仕事を始めたという人です。<br/>
<br/>
彼もまた独身で、日頃はケニア北部のイシオロというところにあるキャンプで仕事仲間と一緒に寝起きして、休日になると首都のナイロビに帰るという生活をおくっていました。<br/>
<br/>
ナイロビにある彼の家は黒人の年老いた女中が一人いるだけで、彼は休日にそこでなにをしているかというとピアノを弾いているんだそうです。<br/>
<br/>
カッコいいでしょ？（笑）<br/>
<br/>
彼と別れるとき、彼が私にいってくれた言葉をいまでも覚えています。<br/>
<br/>
「イシオロにいるわれわれのキャッティング・チームはひとつの家族みたいなもんだよ。もし君がその気になったら、いつでも戻ってきたまえ。君を家族の一員として迎えるから」<br/>
<br/>
私はアフリカで出会ったこの二人から女を必要としない男の生き方のカッコよさを学びました。<br/>
<br/>
私自身は、独身で通したこと以外、彼らと共通するものはなにもないのですが、それでも結婚しなかったこと、独身で通したことを全然、恥ずかしいと思わないのは、<br/>
<br/>
アフリカでこの二人のカッコいい独身男と出会ったからです。<br/>
<br/>
<br/>

 ]]> 
</description>
        <dc:subject>アフリカの記憶</dc:subject>
        <dc:creator>jack4africa</dc:creator>
    <pubDate>Fri, 18 May 2012 1:15:43 +0900</pubDate>
    <dc:date>2012-05-18T01:15:43+09:00</dc:date>
    </item>
    <item>
        <title>フランス人の見た日本人の切腹</title>
        <link>http://jack4afric.exblog.jp/17541126/</link>
        <guid isPermaLink="true">http://jack4afric.exblog.jp/17541126/</guid>
        <description>
<![CDATA[  
<br/>
切腹は日本特有の自殺方法ですが、初めて切腹自殺をしたのは、平安時代末期の武士で、保元の乱で勇名を轟かせた弓の名手、鎮西八郎為朝こと源為朝（みなもとのためとも）であるといわれています。<br/>
<br/>
この頃は、切腹は敵に捕縛され、斬首されることを避けるために行う自決の一種に過ぎなかったそうですが、<br/>
<br/>
その後、時代が下がるにつれて、武士にとって名誉ある自殺方法であると考えられるようになります。<br/>
<br/>
その理由を『武士道』の著者、新渡戸稲造は、<br/>
<br/>
「腹部には人間の霊魂と愛情が宿っているという古代の解剖学的信仰から、勇壮に腹を切ることが武士道を貫く自死方法として適切とされた」<br/>
<br/>
と解説しています。<br/>
<br/>
切腹は、室町時代からは自殺のほかに、処刑（死刑）の方法としても採用されるようになるのですが、切腹は自分で自分の腹を切ることから、<br/>
<br/>
同じ死刑でも、斬首（ざんしゅ）や磔（はりつけ）よりも名誉ある死とみなされたそうです。<br/>
<br/>
また江戸時代初期には、主君が亡くなった場合に家臣が後を追って殉死することが流行し、この場合の切腹を追腹（おいばら）と呼んだといいます。<br/>
<br/>
<br/><br/>その後、幕府の命令によって殉死は禁止されるようになり、また刑罰としての切腹も明治になってから絞首刑に取って替わられます。<br/>
<br/>
それでも太平洋戦争の敗戦に際しては多くの軍人が責任を取って割腹自殺をしましたし、１９７５年には作家の三島由紀夫が市ヶ谷の自衛隊本部で割腹自殺を行って話題になりました。<br/>
<br/>
私ははっきりいって、切腹は嫌いです。<br/>
<br/>
切腹ほど残酷でグロテスクな自殺方法はほかにないと思うし、日本人の過去の切腹の習慣が誇張して伝えられることで、日本人が残酷でクレイジーな国民であるとのイメージが世界に広まっているように感じるからです。<br/>
<br/>
若い頃、フランスのパリに住んでいたとき、フランスに「HARAKIRI」というタイトルのエログロ・ナンセンス雑誌があって、<br/>
<br/>
街角のキオスクで、下品な裸の男女の写真が表紙になっているこの雑誌を見かけるたびに憂鬱な気分になったものです。<br/>
<br/>
ちょうど同じ頃、パリのシネマテークで小林正樹監督の切腹（１９６２）という映画を観たのですが、主人公に真剣ではない、竹を削って刀身にみせかけた竹光（たけみつ）で無理やり腹を切らせるという残酷なシーンが延々と続き、観ていてうんざりしました。<br/>
<br/>
私が不愉快になったのは、ただ単に切腹シーンが残酷であっただけでなく、ことさら残酷な切腹シーンを似せることで、フランス人をはじめとする西洋人が抱く日本人＝ハラキリのステレオタイプのイメージに迎合しているようにみえたからです。<br/>
<br/>
実際、この作品は１９６３年のカンヌ映画祭に出品されていて、作り手の側に最初からフランス人を含む西洋人が日本の切腹に対して抱く悪趣味な好奇心に訴える意図があったことが窺えます。<br/>
<br/>
実は日本人がフランス人の観客向けに切腹ショーを演じてみせたのはこれが初めてではなく、１９００年のパリ万博のときに渡仏して日本の芝居を上演した川上音二郎一座が、フランス人の興行主に頼まれて切腹シーンを演じています。<br/>
<br/>
その頃からすでにフランス人の間では日本人の切腹の習慣が有名だったということらしいですが、フランス人が日本人の切腹を初めて目にしたのは、慶応４年（１８６８年）に起きた堺事件のときであったと思われます。<br/>
<br/>
堺事件というのは、堺に上陸したフランス海軍のコルベット艦、デュプレクスのフランス人水兵１１人が攘夷を叫ぶ土佐藩士に斬殺された事件で、この事件を受けて、駐日フランス公使、ロシュは幕府に厳重に抗議し、賠償金の支払いと犯人の逮捕、処刑を要求します。<br/>
<br/>
彼我の武力の差を知っていた幕府は、フランス側の要求を全面的に飲み、莫大な賠償金を支払うとともに事件に関係した土佐藩士２０名に切腹を命じます。<br/>
<br/>
切腹はロシュ公使、トゥアール艦長以下フランス人将校の立ち会いの下に行われましたが、切腹した土佐藩士が次々に自分のはらわたを引きちぎって見物していたフランス人に投げつけたために、<br/>
<br/>
ショックで嘔吐、失神するフランス人が続出し、その凄惨な光景に耐えかねたロシュ公使がフランス人の死者数と同じ１１人が切腹したところで中止を要請したといわれています。<br/>
<br/>
残りの９人の土佐藩士は後日、別のところで切腹したそうですが、この切腹事件が見物のフランス人に激しいカルチャーショックを与えたであろうことは想像に難くありません。<br/>
<br/>
お蔭で、日本人＝ハラキリをする残酷でクレイジーな国民というイメージがフランスだけでなく世界中に広まったのですが、<br/>
<br/>
戦後、いったんは収まっていた切腹を再演してみせて日本人＝ハラキリのイメージを補強したのがあの三島由紀夫です。<br/>
<br/>
三島の割腹自殺の報を聞いたとき真っ先に私の脳裏に浮かんだのは、あのフランスのエログロ・ナンセンス雑誌「HARAKIRI」でした。<br/>
<br/>
三島の側にも切腹を実行するに際して西洋人に自分の切腹する姿を見せつけてやりたいという露悪的な気持ちがあったことは事実で（「夏目漱石の『こころ』の先生の自殺と三島由紀夫の自殺」を参照）、<br/>
<br/>
本当に悪趣味で、はた迷惑な自殺をしてくれたものです。<br/>
<br/>
三島由紀夫の友人であった劇作家の堂本正樹によると、三島由紀夫は元々、切腹プレイを好み、若い頃、よく一緒に切腹ごっこをして遊んだといいます。<br/>
<br/>
具体的にどのようなプレイをしていたのかよくわかりませんが、切腹というのは究極の被虐行為ともいえるわけで、<br/>
<br/>
マゾヒスティックな性向を持つ人間は、その行為を真似ることで性的快感が得られるみたいで、昔からホモ雑誌にはその手の写真や絵がよく掲載されています。<br/>
<br/>
先日、偶々、テレビでフランス人の振付家、モーリス・ベジャールが東京バレエ団のために振付けした忠臣蔵を題材にしたバレエ「ザ・カブキ」を観ましたが、ラストシーンはやっぱり四十七士が切腹するシーンでした。<br/>
<br/>
モーリス・ベジャールはこの「ザ・カブキ」のほかに、三島由紀夫を主人公にした「Ｍ」というバレエも振付けていて、このバレエもやはり最後は三島由紀夫の切腹シーンで終わるそうです。<br/>
<br/>
モーリス・ベジャールは三島由紀夫と同様、同性愛者だったから、切腹という行為に独特のエロチシズムを見出したのかもしれませんが、<br/>
<br/>
これって一種のオリエンタリズムじゃないでしょうか。<br/>
<center><img class="IMAGE_MID" src="http://pds2.exblog.jp/pds/1/201205/15/98/f0107398_034992.jpg" border="0" width="500" height="347"/></center><br/>
<br/>
「昔の日本人」の目次に戻る<br/>

 ]]> 
</description>
        <dc:subject>未分類</dc:subject>
        <dc:creator>jack4africa</dc:creator>
    <pubDate>Tue, 15 May 2012 0:36:12 +0900</pubDate>
    <dc:date>2012-05-15T00:36:12+09:00</dc:date>
    </item>
    <item>
        <title>男歌・女歌</title>
        <link>http://jack4afric.exblog.jp/17526126/</link>
        <guid isPermaLink="true">http://jack4afric.exblog.jp/17526126/</guid>
        <description>
<![CDATA[  
<br/>
日本の歌謡曲には男歌、女歌というジャンルがあります。<br/>
<br/>
女性歌手が男言葉を使って男心を唄うのが男歌、男性歌手が女言葉を使って女心を唄うのが女歌で、前者の代表としては美空ひばりの「柔」、後者の代表としては森進一の「女のためいき」を挙げることができます。<br/>
<br/>
このようなジャンルの歌は日本の歌謡曲に特有のもので、欧米ではみられないといいます。<br/>
<br/>
欧米では女性歌手が歌っている曲を男性歌手がカバーする場合、歌詞を男性が歌っているように修正し、女性歌手が男性歌手の曲をカバーする場合は、女性が歌っているように修正するのだそうです。<br/>
<br/>
つまり、欧米の場合は、歌っている歌手の性別と歌の内容が合致しているわけです。<br/>
<br/>
欧米では男と女の境界がきっちりと分かれているので、男性歌手が女のふりをして女心を切々と唄ったりしたら、即、ゲイのレッテルを貼られてしまうのでしょう。<br/>
<br/>
実際、欧米ではゲイバーの余興で女装した男性が口パクで女性歌手の持ち歌を唄うのがお約束になっていますし、<br/>
<br/>
洋の東西を問わず、ホモ（ゲイ）がカラオケで女性歌手の持ち歌を唄いたがる傾向があるのも事実です。<br/>
<br/><br/>一度、バンコクのゲイサウナのカラオケルームで、髭面の逞しいオヤジがホイットニー・ヒューストンのGreatest Love of Allを熱唱しているのを見かけたことがありますが、ホモというのはいくら髭を生やしていても心はオンナなのです。<br/>
<br/>
そういうわけで、みずからの男らしさのイメージが傷つくことを極端に怖れる欧米人の男性歌手の場合、女歌を唄うことなど思いも及ばないようなのですが、<br/>
<br/>
逆にいうと、平気で女歌を唄う日本の男性歌手は自分が女っぽく見られることにそれほど抵抗がないともいえます。<br/>
<br/>
この日本の歌謡曲の男歌、女歌と関係があるのかどうか知りませんが、日本伝統の詩歌である和歌にも男歌と女歌があるそうです。<br/>
<br/>
和歌の世界では男の作者が詠む男らしい歌を男歌と呼び、女の作者が詠む女らしい歌を女歌と呼ぶそうですが、男の作者の詠んだ歌の中にも女歌のような女らしい歌があるといいます。<br/>
<br/>
たとえば、万葉集に最も多く歌が収録されている歌人の大伴家持（おおとものやかもち）ですが、この人は大変な美男子で、女性にモテたそうで、女性との間に多くの贈答歌を交わしています。<br/>
<br/>
彼は男性の友人との間でも贈答歌を交わしているのですが、それらの歌は、なんの予備知識もない人間が読んだ場合に、男女間で交わされた恋歌であると勘違いしてしまうような内容なのです。<br/>
<br/>
例として、万葉集に収録されている、大伴家持と同性の友人である大伴池主（おおとものいけぬし）が交わした贈答歌を紹介します。<br/>
<br/>
越前国に赴任した大伴池主は、年上の友人である大伴家持と離ればなれになったことを嘆いて、次のような歌を家持に贈っています。<br/>
<br/>
桜花今そ盛りと人は言へど我れはさぶしも君としあらねば　　大伴池主 <br/>
<br/>
[桜の花は今が盛りだと人は言うけれど、私は寂しいのです。貴方と一緒じゃないから]<br/>
<br/>
これに対して大伴家持は次のような返歌を返しています。<br/>
<br/>
我が背子が古き垣内の桜花いまだ含めり一目見に来ね　　　大伴家持 <br/>
<br/>
[君が前に住んでいた古い屋敷の桜の花は未だ蕾のままだよ、一目見においでよ] <br/>
<br/>
もうひとつ、やはり万葉集から、大伴池主が離ればなれになった大伴家持を恋しがって贈った歌。 <br/>
<br/>
うら恋し我が背の君はなでしこが花にもがもな朝な朝な見む <br/>
<br/>
〔敬愛する貴方がなでしこの花であればいいのに。そしたら毎朝見るのに〕 <br/>
<br/>
家持は年下の同性の友人である池主を「我が背子」と呼び、池主は年上の同性の友人である家持を「背の君」と呼んでいますが、<br/>
<br/>
辞書によると「我が背子」も「背の君」も、女性が自分の夫や恋人を親しみを込めて呼ぶ言葉なんだそうです。<br/>
<br/>
それではなぜ男である家持と池主がこのような女性が男性に対して使う言葉を用いて歌を詠んでいるのか。<br/>
<br/>
この疑問に対する唯一、説得力のある解答は、「二人がそういう関係だったから」というものでしょう。<br/>
<br/>
この贈答歌を交わしたとき、家持は３０歳くらい、１０歳年下の池主は２０歳くらいで、二人はイトコ同志で、上司と部下の関係だったといいます。<br/>
<br/>
しかし、男性の部下が男性の上司をなでしこの花に譬えて、毎朝、見ていたいなどと思うでしょうか。<br/>
<br/>
上司の顔なんて、仕事以外は見たくもないと思うのが普通でしょうが、この二人が恋人同士だったとすると、話は違ってきます。<br/>
<br/>
実際、前記した贈答歌はどうみても恋歌にしかみえません。<br/>
<br/>
家持も池主も女性が用いる「我が背子」や「背の君」という言葉を使うことで、自分を女の立場において、恋しい男に対する心情を吐露していると考えると、彼らが「我が背子」や「背の君」という言葉を使っている意味がはじめて理解できるのです。<br/>
<br/>
万葉集にはほかにも男性の作者が「我が背子」や「背の君」という言葉を使って詠んでいる歌があるそうですが、<br/>
<br/>
このような伝統が現在の歌謡曲の男歌や女歌に引き継がれているとしたら、その歴史は古いといえます。<br/>
<br/>
<br/>
<br/>
「昔の日本人」の目次に戻る<br/>

 ]]> 
</description>
        <dc:subject>未分類</dc:subject>
        <dc:creator>jack4africa</dc:creator>
    <pubDate>Fri, 11 May 2012 0:00:49 +0900</pubDate>
    <dc:date>2012-05-11T00:00:49+09:00</dc:date>
    </item>
    <item>
        <title>芭蕉とその弟子</title>
        <link>http://jack4afric.exblog.jp/17514809/</link>
        <guid isPermaLink="true">http://jack4afric.exblog.jp/17514809/</guid>
        <description>
<![CDATA[  
<br/>
「奥のほそ道」で有名な江戸時代前期の俳人、松尾芭蕉（1644‐1694）には男色趣味があったことが知られています。<br/>
<br/>
そのため、一部のゲイリブのライターなどは当時の男色文化と現代の同性愛文化を意図的に混同して、「芭蕉は同性愛者だった！」みたいなことを書いていますが、<br/>
<br/>
芭蕉を含め、この時代に男色行為に耽っていた人間を「同性愛者」と呼ぶのは適切ではないと思います。<br/>
<br/>
同時代の井原西鶴の「男色大鏡」を読めばわかりますが、当時の日本では男色が盛行し、男同士のSEXは特別なことでもなんでもなく、殆どの男性が男色と女色の両方を楽しんでいたわけで、<br/>
<br/>
芭蕉に内縁の妻がいたことからもわかるように、彼らは現在の同性愛者のように同性としかSEXできない種族ではなかったのです。<br/>
<br/>
そもそも、当時の日本では（現在でも基本的に変わりありませんが）男色は趣味嗜好の一種としてみられていて、ゲイリブのいう「性的指向」のようなものではありませんでした。<br/>
<br/>
梅柳さぞ若衆かな女かな　　芭蕉<br/>
<br/>
上の句は若衆の凛々しさを梅に女子のたおやかさを柳になぞらえた句ですが、男女両性の色香を愛でたこの時代の雰囲気をよく表しています。<br/>
<br/><br/>芭蕉は正保元年（1664年）に伊賀国に生まれ、９歳の頃、伊賀国安濃津の城主藤堂氏の分家で、伊賀国上野の城代藤堂主計良忠（かずえよしただ）に稚児小姓として仕えたといわれています。<br/>
<br/>
そのため、芭蕉の初めての男色相手は、主君である良忠であった可能性が高いといえます。<br/>
<br/>
良忠は号を蟬吟（せんぎん）と称し、俳諧に造詣が深かったそうで、少年の芭蕉に衆道を教える傍ら、俳諧の道も手ほどきしたようです。<br/>
<br/>
「悪党芭蕉」の著者、嵐山光三郎によると、「奥のほそ道」の「閑（しず）かさや岩にしみ入（いる）蟬の声」という句は、主君の蟬吟を追悼した句だそうです。<br/>
<br/>
寛文五年（1665年）に開かれた句会で、当時、宋房（そうぼう）と名乗っていた芭蕉と主君の蟬吟が詠んだ連句をみると、二人の親密な関係が窺われます。<br/>
<br/>
出し初（そむ）る船の行方を気遣（きづかは）れ　　         宋房<br/>
涙で暮らす旅の留守中  　　　　　　　　　　　　　　　　        蟬吟<br/>
<br/>
伊達（だて）なりしふり分（わけ）髪は延（のび）ぬるや 　　蟬吟<br/>
俤（おもかげ）に立つかの後（うしろ）つき　　　　　　　       宋房　　<br/>
<br/>
年玉（としだま）をいたう又々申請（またまたもうしう）け　　蟬吟<br/>
子弟（してい）のむつみ長く久しき　　　　　　　　　　　　       宋房　　<br/>
<br/>
　いとも静かな舞（まひ）の手くだり　　　　　　　　　　　　     蟬吟<br/>
見かけより気はおとなしき小児（こちご）にて　　　　　　 　　宋房　<br/>
<br/>
芭蕉が２３歳のとき、良忠が病気で急死。<br/>
<br/>
自分を寵愛してくれた主君であると同時に俳道の同好の士でもあった良忠に死なれて芭蕉は悲嘆にくれたといわれていますが、<br/>
<br/>
その後、仕官を退き、２９歳のとき俳諧で身を立てる決心をして江戸に出ます。<br/>
<br/>
江戸では神田上水の浚渫工事の請負の仕事をしながら俳諧の修行を行い、延宝六年（1678年）３４歳のときに宗匠となり、新しい作風の俳諧師としてめきめき頭角を現し、多くの弟子を集めます。<br/>
<br/>
芭蕉は美少年や美青年の弟子を特別、寵愛したといわれていますが、芭蕉と衆道関係を持っていたことが明らかになっている弟子は坪井杜国（とこく）だけです。<br/>
<br/>
杜国は、芭蕉にその俳諧の才を認められて弟子になった名古屋の富裕な米穀商の若旦那で、女と見まがうような美貌の持ち主だったそうですが、<br/>
<br/>
空米売りの罪を犯したため、御領内追放の刑で、伊良湖畔に近い保美の里に流刑になります。<br/>
<br/>
芭蕉は、その３番目の紀行文「笈の小文」（おいのこぶみ）に綴られている、貞享四年（1687年）１０月から翌年４月にかけて行った旅の途中で伊良湖畔の杜国に会いに行き、<br/>
<br/>
そのまま彼と一緒に伊勢湾を渡り、伊賀上野，大和，吉野，京へと１００日間の蜜月旅行をします。<br/>
<br/>
「笈の小文」で、芭蕉は杜国を次のように紹介しています。<br/>
<br/>
…かの伊良湖岬（いらこざき）にて契り置（おき）し人の、伊勢にて出迎（いでむか）ひ、ともに旅寝のあはれをも見、且（かつ）は、我為（わがため）に童子（どうじ）になりて、道の便りにもならんと、自（みずから）万菊丸（まんぎくまる）と名をいふ。<br/>
<br/>
芭蕉と旅している間は、子供の名前である万菊丸を名乗って、少々、薹は立っているものの、芭蕉の稚児を気取ってみせたということらしいです。<br/>
<br/>
寒けれど二人寝る夜ぞ頼もしき　　芭蕉<br/>
<br/>
杜国とのラブラブムードが伝わってくる句ですが、実は杜国のいびきがうるさくて、最初の二、三日はよく眠れなかったそうです。<br/>
<br/>
伊賀上野の芭蕉翁記念館に芭蕉がいびきをかいて寝ている杜国を描いた「万菊丸いびきの図」が展示されているそうですが、<br/>
<br/>
大きないびきをかいている年下の若い男の寝顔を見つめる芭蕉の眼は愛しさに満ちていたでしょう。<br/>
<br/>
嵐山光三郎は、杜国のほかに、芭蕉３５歳のときに１８歳で芭蕉一門に入門した一番弟子の宝井其角（きかく）と芭蕉が衆道関係にあった可能性があると書いています。<br/>
<br/>
其角が男色好きで男色に関する句を多く詠んでいるというのがその理由ですが、この時代の師弟関係の濃密さと男色に対する抵抗感の無さを考えると、<br/>
<br/>
たとえそれほど男色好きでなくとも、師匠である芭蕉から求められれば、弟子は喜んでその相手をしたんじゃないかという気がします。<br/>
<br/>
<br/>
参照文献：<br/>
岩田準一「本朝男色考」<br/>
嵐山光三郎「悪党芭蕉」<br/>
<br/>
<br/>
「昔の日本人」の目次に戻る<br/>

 ]]> 
</description>
        <dc:subject>未分類</dc:subject>
        <dc:creator>jack4africa</dc:creator>
    <pubDate>Tue, 8 May 2012 0:01:49 +0900</pubDate>
    <dc:date>2012-05-08T00:01:49+09:00</dc:date>
    </item>
    <item>
        <title>徳川五代将軍綱吉と寵臣柳沢吉保</title>
        <link>http://jack4afric.exblog.jp/17489131/</link>
        <guid isPermaLink="true">http://jack4afric.exblog.jp/17489131/</guid>
        <description>
<![CDATA[  
<br/>
歴代徳川将軍の中で男色好きで有名なのは、三代将軍家光と五代将軍綱吉です。<br/>
<br/>
初代将軍家康、二代将軍秀忠、そして四代将軍家綱にも美少年の寵童がいたことが知られていますが、<br/>
<br/>
男色将軍というと必ず家光と綱吉の名前が挙がるのは、この二人が特別、男色に耽溺したからです。<br/>
<br/>
家光のごときは男色に耽るあまり女色を疎かにし、世継ぎが中々、生まれず、周囲をやきもきさせたといいます。<br/>
<br/>
綱吉の場合は、男色だけでなく女色も好んだといわれていますが、どちらかといえば、女性については世継ぎを作る道具とみなし、真の寵愛は美少年に注いだといわれています。<br/>
<br/>
綱吉はその生涯で、名前が知られているだけで３６人の美童を寵愛したそうですが、その多くの美童の中で特別な寵愛を受けたのが柳沢吉保です。<br/>
<br/>
彼は綱吉に寵愛されることで、一介の小姓から将軍の側用人に取り立てられ、綱吉の側近として幕府内で権勢を振るい、晩年は甲府１５万石を領し、松平姓を許される老臣の地位まで登り詰めたのです。<br/>
<br/><br/>柳沢吉保は１５歳のとき、館林藩主であった綱吉に初めてお目見えします。<br/>
<br/>
綱吉は一回り上の２７歳で、当時、房安（ふさやす）と名乗っていたこの少年の美貌に一目惚れし、直ぐに小姓として召し抱えます。<br/>
<br/>
小姓となった房安は、まもなく「お座直し」になります。<br/>
<br/>
お座直しというのは小姓や側室が主君の夜伽の相手を務めるようになることを意味します。<br/>
<br/>
通常、小姓が主君の夜伽の相手をするのは元服前の前髪姿の頃で、前髪を落として元服すると「御褥（おしとね）御免」になり、閨房の務めから解放されます。<br/>
<br/>
当時の男色というのはオトナの男が年下の少年を愛するのが基本で、少年が前髪を落として元服して一人前の男となると最早、性の対象とはみなされなかったのです。<br/>
<br/>
しかし、房安の場合は１７歳のときに前髪を切って元服し、家督を継いで保明（やすあき）と改名したのちも綱吉の枕席に侍ったそうで、それだけ綱吉の寵愛が深かったことが窺われます。<br/>
<br/>
綱吉はまた愛妾のお伝の方と愛童であった房安を自分の左右に寝かせて同衾したといわれています。<br/>
<br/>
３Ｐという奴ですね。<br/>
<br/>
寵童である房安の見ている前で愛妾のお伝の方を抱き、房安が快感によがり泣くお伝の方の狂態を眺めて興奮する様を楽しみ、お伝の方を抱いたあと、<br/>
<br/>
興奮のあまりフンドシの前を突っ張らせている房安を抱き、先走りで濡れているビンビンにおっ勃った房安のイチモツをしごきながら、その菊門を犯して愉しむ。<br/>
<br/>
そして房安が堪え切れずに上げる苦痛と快感の入り混じったあえぎ声をお伝の方に聞かせ、お伝の方が興奮してしとどに濡れる頃を見計らってまた彼女を抱く。<br/>
<br/>
あるいはお伝の方と房安に命じて自分の見ている前で交わらせ、最初は恥ずかしがっていた二人が次第に快感に我を忘れて行為に没頭していく様を見て愉しみ、<br/>
<br/>
お伝の方と交合している房安の背後に回って彼の菊門を指で弄び、菊門がほぐれたところでおのれの陽物でその菊門を差し貫き、<br/>
<br/>
お伝の方と綱吉のサンドイッチの具状態になった房安を犯しながら、房安が苦痛と喜悦にあえぐのを見て愉しむ。<br/>
<br/>
等々、痴態の限りを尽くしたものと思われます。<br/>
<br/>
その後、第四代将軍家綱が没し、世継ぎがなかったことから、家綱の弟である綱吉が第五代将軍に就くのですが、<br/>
<br/>
将軍になってからも綱吉の男色趣味は下火になるどころか、ますます勢いを増していきます。<br/>
<br/>
綱吉は能楽を好み、能役者や狂言師を数多く京から呼び寄せたのですが、能役者の中の容貌美麗な者は、綱吉に「芸よりも尻にてご奉公」するようになります。<br/>
<br/>
しまいには能役者だけでは足らなくなって、旗本御家人の子弟の中から美童の噂高い者を召し出して、能楽、小鼓、太鼓、笛などを教え込んだといいます。<br/>
<br/>
これらの美童たちは「桐の間御番」と呼ばれたそうですが、綱吉は、元禄４年に桐の間御番の美童の中、お手付きの少年だけを集めて別の宿舎に収容します。<br/>
<br/>
この宿舎は「桐御殿」と呼ばれたそうですが、なんとこの桐御殿はかっての寵童、柳沢保明の屋敷内に置かれたそうです。<br/>
<br/>
このとき柳沢保明は３３歳、当然のことながら、とっくの昔におしとね御免になっていますが、綱吉の寵愛は変わらず、綱吉が将軍になってからは、禄高三万二千石を賜り、お側御用人に取り立てられています。<br/>
<br/>
この桐御殿には数十人の美童が収容されたそうですが、彼らは柳沢家士の厳重な監視の下に置かれ、夕方になると美しく化粧して、いつ綱吉のお召しがあってもいいように待機していたといいます。<br/>
<br/>
つまり桐御殿は綱吉のための美少年のハーレムだったわけですが、このハーレムをかっての寵童、柳沢保明に監督させたのは、やはり蛇の道は蛇、というか、<br/>
<br/>
綱吉の男色に関する趣味嗜好を知り尽くしている保明に預けるのが一番相応しいと考えたのでしょう。<br/>
<br/>
この頃、保明自身、大名として小姓を抱える身分になっていたのですが、その小姓の中からも何人かの美少年がこの桐御殿に入ったといいます。<br/>
<br/>
この時代、家臣のお手付きの少年を将軍に献上するのは将軍に対して失礼にあたるということでタブーだったそうですが、綱吉は保明の寵童だった少年と契ることに抵抗がなかったといいます。<br/>
<br/>
かって自分の寵童だった保明が寵愛した美童を自分もまた寵愛することで、保明に対する変わらぬ愛を確かめていたのかもしれません。<br/>
<br/>
将軍綱吉は寵臣である柳沢保明と美童だけでなく、女性も共有していたという噂があります。<br/>
<br/>
江戸中期の実録体小説「護国女太平記」によると、保明の側室の染子は綱吉のお手付きの女性で、綱吉によって保明に下賜されたそうで、<br/>
<br/>
保明の側室になったあとも綱吉と関係を持ち続け、染子の生んだ保明の嫡男、吉里の本当の父親は将軍綱吉だったということになっています。<br/>
<br/>
これはあくまでも俗説であって、史実とは異なるそうですが、そのような噂が出るほど、綱吉と保明の中が親密であったということでしょう。<br/>
<br/>
中国の史家、司馬遷は、容色が優れているという理由だけで、能力のない人間を高官に引き立てて、国政に関与させることの弊害を説いていますが、<br/>
<br/>
柳沢保明の場合、非常に有能なテクノラートで、頭の切れる人物であったといわれています。<br/>
<br/>
ただ彼はその頭の良さを天下国家のために使わず、ひたすら綱吉へのゴマすりとみずからの私利私欲のために用いたのです。<br/>
<br/>
たとえば、綱吉が天下の悪法、生類憐みの令を発令したときには、忠臣としてその愚挙を諌めるどころか、唯々諾々としてそれに従っています。<br/>
<br/>
生類憐みの令が出されるようになったそもそもの原因は綱吉の側室、お伝の方が生んだ世継ぎの男児、徳松が４歳で早世し、その後、中々、世継ぎが生まれなかったことにあります。<br/>
<br/>
このことを心配した綱吉の生母、桂昌院は隆光という僧侶に頼んで世継ぎ誕生の祈祷をさせたのですがいっこうに効果が現れません。<br/>
<br/>
するとこのインチキ坊主は自分の法力の無さをごまかすために、<br/>
<br/>
「綱吉公に世継ぎが生まれないのは前世で多くの殺生をなした報いである。そのため世継ぎを得るためには生き物を愛護し、殺生を禁じなければならない。綱吉公は戌年生まれなので、特に犬を大切にする必要がある」<br/>
<br/>
と進言したのです。<br/>
<br/>
偶然にも保明もまた綱吉より一まわり下の戌年でした。<br/>
<br/>
この「生類憐みの令」は何度も発令されたのですが、その度に内容が厳しくなり、しまいには鳥を撃っただけで切腹を命じられたり、犬を斬っただけで打ち首になったり、猫を傷つけただけで流罪になるなどしたそうです。<br/>
<br/>
この愚劣な法令は綱吉が死ぬまで２２年間も続いたそうですが、綱吉を継いで次期将軍となった家宣は将軍職に就くと同時にこの悪法を廃止し、<br/>
<br/>
それによりこの法令に違反して牢に入れられていた者６７３７人、遠島追放禁極の刑に服していた者８６３４人が赦免されたといわれています。<br/>
<br/>
保明はまた綱吉の生母、桂昌院が朝廷から女性最高位の従一位の官位を賜るように自分の側室である公家の娘、町子を通して朝廷に働きかけ、それに成功したといわれています。<br/>
<br/>
桂昌院というのは元はといえば京の八百屋の娘だったそうで、そういう下賤の出身にありがちな名誉欲の強い人間だったそうです。<br/>
<br/>
そのため、それまでの徳川家の女性としては最高位の従一位に叙せられたことを非常に喜んだといいますが、<br/>
<br/>
この功績により保明は本来ならば徳川一族の人間にしか許されない松平の姓を名乗ることを許され、名前も綱吉の「吉」の字を取って吉保と改名します。<br/>
<br/>
この頃が柳沢吉保の全盛期で、幕閣の実力者として大老格の権限を振るう彼に楯突くことができる者は一人もいなかったそうですが、<br/>
<br/>
元禄１４年に起こった赤穂藩主、浅野内匠頭の殿中刃傷事件では、事件の内容を十分に吟味することなく浅野内匠頭に即日、切腹を命じる一方で、<br/>
<br/>
他方の当事者、吉良上野介にはお咎めなしの片手落ちの処分を行ったことで批判され、忠臣蔵の芝居や映画では悪役にされています。<br/>
<br/>
綱吉に世継ぎの男子が生まれる気配がないことから、そのまま行くと次期将軍は水戸光圀公が強力に推していた三代将軍家光の孫で綱吉の甥にあたる甲府藩主、松平綱豊が就任する可能性が強かったのですが、<br/>
<br/>
お伝の方は自分が生んだ綱吉の唯一の実子である鶴姫の婿である紀州藩主、徳川綱教を次期将軍にすることを望み、綱吉もそれに賛成します。<br/>
<br/>
柳沢吉保は、お伝の方と綱吉の意を汲んで綱教を次期将軍にするための工作を開始するのですが、鶴姫と婿の綱教が流行り病に罹って呆気なく死んでしまったことからこの計画はとん挫してしまいます。<br/>
<br/>
綱教が死んだことから、綱吉は結局、松平綱豊を後継者に指名せざるを得なくなり、綱豊は江戸城西の丸に移り、徳川家宣と改名します。<br/>
<br/>
そして柳沢吉保は綱豊が次期将軍となることで藩主が不在になった甲府藩の新しい藩主に封じられ、１５万石を賜るのです。<br/>
<br/>
甲府藩主に徳川一族以外の人間が封じられた前例はなく、この人事は極めて異例のことだったそうですが、綱吉としてはそのような形で寵臣吉保の長年の忠誠に報いたかったのでしょう。<br/>
<br/>
徳川家宣が次期将軍に決定したあとは、吉保は早速、家宣にゴマをすりはじめるのですが、<br/>
<br/>
家宣は吉保が家宣のライバルであった綱教を将軍にするために様々な工作を行ったことを知っていて、綱吉の死後、将軍職に就くと直ちに吉保にお役御免を申し渡します。<br/>
<br/>
その結果、吉保は家督を嫡男の吉里に譲って引退、５年後にひっそりと亡くなりますが、嫡男の吉里が吉保から受け継いだ領地を召し上げられることもなく、<br/>
<br/>
甲府藩主として無事に一生を終えることができたのは、吉里＝綱吉のご落胤説が流布していたことと無関係ではないでしょう。<br/>
<br/>
<br/>
参照文献：南条範夫「五代将軍」<br/>
<br/>
「昔の日本人」の目次に戻る<br/>

 ]]> 
</description>
        <dc:subject>未分類</dc:subject>
        <dc:creator>jack4africa</dc:creator>
    <pubDate>Tue, 1 May 2012 11:30:17 +0900</pubDate>
    <dc:date>2012-05-01T11:30:17+09:00</dc:date>
    </item>
    <item>
        <title>愛的發聲練習（My So-Called Love）</title>
        <link>http://jack4afric.exblog.jp/17472996/</link>
        <guid isPermaLink="true">http://jack4afric.exblog.jp/17472996/</guid>
        <description>
<![CDATA[  
<center><img class="IMAGE_MID" src="http://pds2.exblog.jp/pds/1/201204/27/98/f0107398_0321660.jpg" border="0" width="457" height="640"/></center>「愛的發聲練習（My So-Called Love）」は、２００８年に公開された台湾映画です。（日本未公開）<br/>
<br/>
「盛夏光年（邦題：花蓮の夏）」に出演して日本のホモの間でも人気が出たジョセフ・チャン（張孝全）が主演女優のバービー・スー（徐熙媛）相手に濃厚なベッドシーンを演じて話題になったそうですが、<br/>
<br/>
ホモの観客向けのサービスなのか、若手俳優のエディ・ボン（彭于晏）とレゴ・リー（李國毅）が同志愛のカップルを演じています。<br/>
<br/>
エディ・ボンもレゴ・リーも台湾ではけっこう売れている俳優だそうで、そういう有名な俳優であっても、かなり激しい男同士のからみをみせてくれるのが台湾映画の良いところです。<br/>
<br/>
テレビでも気色の悪い「イケメン」ばかり出てくる韓流ドラマはもういいから、本物のイケメンが沢山でている台湾ドラマをもっと放送して欲しいですね。<br/>
<br/>
<br/><br/>My So-Called Love: Gay Scene<br/>
http://www.youtube.com/watch?v=2tg7YxeQbus<br/>
<br/>
<br/>
ジョセフ・チャン（張孝全）<center><img class="IMAGE_MID" src="http://pds2.exblog.jp/pds/1/201204/29/98/f0107398_176577.jpg" border="0" width="395" height="296"/></center><br/>
エディ・ボン（彭于晏）<center><img class="IMAGE_MID" src="http://pds2.exblog.jp/pds/1/201204/27/98/f0107398_8512933.jpg" border="0" width="500" height="474"/></center><br/>
レゴ・リー（李國毅）<center><img class="IMAGE_MID" src="http://pds2.exblog.jp/pds/1/201204/27/98/f0107398_8522993.jpg" border="0" width="458" height="640"/></center>
 ]]> 
</description>
        <dc:subject>世界の映画＆音楽、その他</dc:subject>
        <dc:creator>jack4africa</dc:creator>
    <pubDate>Fri, 27 Apr 2012 0:35:59 +0900</pubDate>
    <dc:date>2012-04-27T00:35:59+09:00</dc:date>
    </item>
    <item>
        <title>裏の垣根はマラだらけ</title>
        <link>http://jack4afric.exblog.jp/17461468/</link>
        <guid isPermaLink="true">http://jack4afric.exblog.jp/17461468/</guid>
        <description>
<![CDATA[  
<br/>
若い頃、外国に１０年ほど住んだあと、日本定住を決意して帰国してまもなく、東京新宿の牛込柳町の交差点でフンドシ一丁の裸で歩いている中年男を目撃してショックを受けたことがあります。<br/>
<br/>
アフリカやニューギニアの奥地ならともかく、この文明国の日本で白昼堂々、裸で大通りを歩いている人間がいるとは思わなかったのです。<br/>
<br/>
あとでわかったのですが、その日は近くの神社の祭りの日で、その裸男は神輿を担いだ帰りだったのです。<br/>
<br/>
深沢七朗の小説「因果物語」によると、明治になって裸体で外出することが禁止されるようになるまで、昔の日本の庶民の男たちは夏の暑いときなどフンドシ一丁で歩き回っていたそうです。<br/>
<br/>
当時は美人を形容する決まり文句として「裏の垣根はマラだらけ」という言葉があったといいます。<br/>
<br/>
たとえば、旅芝居などで座がしらが、<br/>
<br/>
「エー、これからお目にかけますのは『赤穂浪士』のうち、裏の垣根はマラだらけと言われる祇園、一力の美人舞子初菊と大石主税の悲恋物語でございます」<br/>
<br/>
などと口上を述べたそうです。<br/>
<br/>
初菊という女は大層、いい女だったそうで、近所の若い男たちは夕方、仕事を終えると初菊の家に彼女を見にやってきたといいます。<br/>
<br/><br/>初菊の家は貧乏で一間しかなく、裏に八畳くらいの狭い庭があって、まわりはヒバかなんかの垣根が三尺ばかり高く囲ってあるだけです。<br/>
<br/>
若い男たちはその垣根の上から顔を出して家の中にいる初菊を覗くのですが、夏のこととてみんなフンドシ一丁の裸で、美女の初菊を眺めているうちに自然と興奮してフンドシの前が膨らんできます。<br/>
<br/>
しかしフンドシの幅は狭いので、大きく膨らんだモノはフンドシからはみ出てしまいます。<br/>
<br/>
若い男たちは垣根があるので気がつきませんが、初菊の家から見ると、垣根の上にはずらーっと若い男の顔が並び、垣根の間からは勃起したマラがニョキニョキ生えていて、それで、<br/>
<br/>
「ひとり娘にムコ八人、裏の垣根はマラだらけ」<br/>
<br/>
と言われるようになったのだそうです。<br/>
<br/>
幕末から明治の初めにかけて日本にやってきた西洋人は、多くの日本人が男はフンドシ一丁、女は腰巻一枚の裸でいるのを見て驚きます。<br/>
<br/>
当時、日本は裸族の住む国だったのです！<br/>
<br/>
日本が野蛮な国であると思われるのを嫌った明治政府は、裸体禁止令を出して、裸体の風俗を取り締まるようになりますが、<br/>
<br/>
法律で裸体を禁止しても、それが一般国民に浸透するのには時間がかかり、銭湯の帰り、フンドシ一丁で歩いているのを巡査に見つかって叱られるというようなことがよくあったそうです。<br/>
<br/>
このような取り締まりの結果、日本ではフンドシ一丁で通りを闊歩する人間は見られなくなりましたが、唯一の例外が祭りのときで、このときばかりは大っぴらに裸を晒してもだれも文句をいいません。<br/>
<br/>
日本には全国各地に裸祭りの習俗が残っていて、祭りの日ともなると男たちは競って裸になって祭りに参加するのですが、<br/>
<br/>
そのような裸の男たちを見ていると、日本人は基本的に裸になるのが好きな国民ではないかという気がしてきます。<br/>
<br/>
同じアジアといっても、人前で裸になるのを嫌う中国人とは大きな違いです。<br/>
<br/>
実際、中国や朝鮮半島に裸祭りが存在するという話は聞いたことがありません。<br/>
<br/>
日本は過去に中国文化を輸入しましたが、輸入された中国文化はあくまでも日本社会の表層に留まったに過ぎないように思われます。<br/>
<br/>
その表層の中国文化も年と共に徐々に日本化されていくのですが、日本社会の基層には縄文時代から育まれてきた日本独自の文化が存在し、<br/>
<br/>
その日本の基層文化は、台湾やフィリピン、ボルネオの先住民の文化、ミクロネシアからメラネシア、さらにはハワイを含むポリネシアなどの太平洋の島嶼地域の文化と大きな共通点を持っているような気がします。<br/>
<br/>
裸体の風俗がその代表的なもので、これら太平洋の島々ではキリスト教の宣教師が来るまでは、日本と同様、男はフンドシ、女は腰巻一枚の裸で暮らしていたのです。<br/>
<br/>
<br/>
<br/>
飛脚や人足などは全身に刺青を彫っていました。裸体は見せるものだったのです。<center><img class="IMAGE_MID" src="http://pds2.exblog.jp/pds/1/201204/24/98/f0107398_055177.jpg" border="0" width="283" height="368"/></center><br/>
<br/>
幕末に西洋人が撮った日本女性の入浴写真。混浴の習慣があったことからもわかるように日本女性は裸を見せるのに抵抗がなかったといいます。<center><img class="IMAGE_MID" src="http://pds2.exblog.jp/pds/1/201204/24/98/f0107398_7293832.jpg" border="0" width="500" height="382"/></center><br/>
<br/>
「昔の日本人」の目次に戻る<br/>

 ]]> 
</description>
        <dc:subject>未分類</dc:subject>
        <dc:creator>jack4africa</dc:creator>
    <pubDate>Tue, 24 Apr 2012 0:07:27 +0900</pubDate>
    <dc:date>2012-04-24T00:07:27+09:00</dc:date>
    </item>
    <item>
        <title>このブログの読み方</title>
        <link>http://jack4afric.exblog.jp/17391321/</link>
        <guid isPermaLink="true">http://jack4afric.exblog.jp/17391321/</guid>
        <description>
<![CDATA[  
<br/>
初めてこのブログをご覧になる方のために、このブログの簡単なご案内をさせていただきます。<br/>
<br/>
このエキサイトブログは去年（２０１１年）の中頃から、カテゴリーの項目をクリックするとそのカテゴリーに含まれる記事を一覧できるようになりましたが、<br/>
<br/>
以前にはそのような機能はなく、自分が重要であると考えるカテゴリーや、時系列順の方が読みやすいだろうと考える旅行記については、独自に目次を作成していました。<br/>
<br/>
このような自分で作った目次の記事は、このブログの仕組み上、「未分類」のカテゴリーに収められていますが、<br/>
<br/>
実際には、この未分類のカテゴリーの記事は、ほかのカテゴリーの目次にすでに存在することから、このブログを読むにあたっては、未分類のカテゴリーについては、完全に無視していただいてけっこうです。<br/>
<br/>
あとこのブログはホモログ（カマログ）なので、ホモネタが多いのですが、ホモネタが嫌いな方は、ホモネタの少ない「国際関係」と「日本と日本人」のカテゴリーの記事だけを読んでくださるようにお願いします。<br/>
<br/>
ただし、個人的にはホモにまったく関心のないノンケの方にもホモネタを扱っている記事を読んでいただきたいと思っています。<br/>
<br/>
よくホモが作っているウェブサイトやブログに「同性愛に対する理解のない方は閲覧をご遠慮ください」などと書いてありますが、私はそんな無粋なことは申しません。<br/>
<br/>
ホモに対してまったく無関心なノンケの方にこそ、このブログのホモネタ記事を読んで男色に対する理解を深めていただいて、最終的には、<br/>
<br/>
<br/>
禁断の性であるホモセックスに挑戦してもらいたい！<br/>
<br/>
<br/>
と考えているからです（笑）<br/>
<br/>
<br/><br/><center><img class="IMAGE_MID" src="http://pds2.exblog.jp/pds/1/201204/06/98/f0107398_01575.jpg" border="0" width="500" height="313"/></center>ノンケだってこれくらいの美少年が相手ならその気になるんじゃないでしょうか。<br/>
<br/>

 ]]> 
</description>
        <dc:subject>このブログの読み方</dc:subject>
        <dc:creator>jack4africa</dc:creator>
    <pubDate>Fri, 6 Apr 2012 0:01:34 +0900</pubDate>
    <dc:date>2012-04-06T00:01:34+09:00</dc:date>
    </item>
    <item>
        <title>ベトナムのゲイ映画</title>
        <link>http://jack4afric.exblog.jp/17379817/</link>
        <guid isPermaLink="true">http://jack4afric.exblog.jp/17379817/</guid>
        <description>
<![CDATA[  
<center><img class="IMAGE_MID" src="http://pds2.exblog.jp/pds/1/201204/02/98/f0107398_23551212.jpg" border="0" width="246" height="400"/></center><br/>
サイゴンのゲイの若者の生態を描いたベトナム映画を発見しましたので、ご紹介します。<br/>
<br/>
「Hotboy Noi Loan」（英題：Lost in Paradise）<br/>
<br/>
ベトナム映画界の新鋭、ヴー・ゴック・ダーン監督の作品で、２０１１年トロント国際映画祭に出品されたそうです。<br/>
<br/>
日本では未公開ですが、Youtubeで英語字幕付きで全編、観ることができます。<br/>
<br/>
Hot Boy Noi Loan<br/>
http://www.youtube.com/watch?v=ei-xt8wkgHI&feature=related<br/>
<br/>
予告編<br/>
http://www.youtube.com/watch?v=gMDnKa3Xdv0<br/>
<br/>
<br/>
大都会、サイゴンに憧れて地方から出て来たコアは、サイゴンの公園でハンサムな若い男、ドンに話しかけられます。<br/>
<br/>
コアがサイゴンでどこに住むか決めていないというと、ドンは自分のアパートに来るように誘います。<br/>
<br/>
ドンに連れられて彼のアパートに行ったコアは、そこでドンの同居人、ラムと出会います。<br/>
<br/>
ドンとラムはサイゴンでホモ相手に身体を売って生活している男娼仲間なのですが、二人はコアにシャワーを浴びるように勧め、コアがシャワーを浴びている間に彼の所持金と荷物を持って逃げ出します。<br/>
<br/>
二人は最初からコアを騙すつもりでいたのです。<br/>
<br/><br/>ドンはコアの衣類の入ったバッグはラムに与えますが、金は全部、独り占めして、しばらくサイゴンを離れるといってラムの元から去って行きます。<br/>
<br/>
ドンを愛していたラムは、ドンに捨てられて傷つきます。<br/>
<br/>
有り金全部と衣類の入ったバッグまで取られたコアは、肉体労働をしながら、夜は路上で寝るという生活を始めます。<br/>
<br/>
ある晩、偶然、屋台の上で寝ているコアを発見したラムは、コアを可哀想に思い、彼の衣類の入ったバッグにいくばくかの金を入れて、寝ているコアの傍に置きます。<br/>
<br/>
目を覚ましたコアは、ラムを見つけ、彼に飛び掛かります。<br/>
<br/>
しばらく争っていた二人ですが、いきなりラムがコアにキスしたので、コアは驚いて殴る手を止めます。<br/>
<br/>
ラムは初めてコアを見たときから、コアが自分と同じゲイであることを見抜いていたのです。<br/>
<br/>
やがて二人は愛し合うようになり、同居生活を始めます。<br/>
<br/>
そこにしばらく姿を消していたドンがやってきて。。。<br/>
<br/>
というふうに話が展開していきます。<br/>
<br/>
このゲイの若者たちの話と並行して、サイゴンの通りで立ちんぼしている娼婦とサイゴン河に浮かぶボロ船をねぐらにしながら、廃品回収で生計を立てている知恵おくれのデブの小男との交情が描かれます。<br/>
<br/>
決して傑作ではありませんが、しみじみした中々、情緒のある作品です。<br/>
<br/>
セクシーな若い男の子の裸もふんだんに出て来るし。。。<br/>
<br/>
個人的には、去年２回、訪れたサイゴンの見覚えのある街並みが出てきて、懐かしかったです。<br/>
<br/>
<center><img class="IMAGE_MID" src="http://pds2.exblog.jp/pds/1/201204/02/98/f0107398_2356238.jpg" border="0" width="400" height="267"/></center><center><img class="IMAGE_MID" src="http://pds2.exblog.jp/pds/1/201204/02/98/f0107398_23573149.jpg" border="0" width="400" height="266"/></center><center><img class="IMAGE_MID" src="http://pds2.exblog.jp/pds/1/201204/02/98/f0107398_23575859.jpg" border="0" width="400" height="267"/></center>
 ]]> 
</description>
        <dc:subject>世界の映画＆音楽、その他</dc:subject>
        <dc:creator>jack4africa</dc:creator>
    <pubDate>Tue, 3 Apr 2012 0:00:05 +0900</pubDate>
    <dc:date>2012-04-03T00:00:05+09:00</dc:date>
    </item>
    <item>
        <title>なぜ日本でゲイリブの運動が成功しなかったのか</title>
        <link>http://jack4afric.exblog.jp/17354351/</link>
        <guid isPermaLink="true">http://jack4afric.exblog.jp/17354351/</guid>
        <description>
<![CDATA[  
<br/>
最近、日本ではゲイリブの運動はすっかり下火になり、ゲイリブ活動家を自称する人間もめっきり減ってきています。<br/>
<br/>
大変、けっこうなことだと思いますが、ここらへんで、なぜ日本でゲイリブの運動が成功しなかったのか、その理由を整理して考えてみたいと思います。<br/>
<br/>
私は日本でゲイリブの運動が成功しなかった理由は大別して２つあると思っています。<br/>
<br/>
第一の理由は、欧米と日本の文化の差を完全に無視して、欧米のゲイリブの運動をそのままの形で日本に輸入しようとしたことです。<br/>
<br/>
このブログで何度も繰り返し指摘しているように、欧米のゲイ差別の根幹にはキリスト教があります。<br/>
<br/>
欧米で同性愛差別が激しいのは、欧米で優勢な宗教であるキリスト教が同性愛を禁じているからです。<br/>
<br/>
敬虔なキリスト教からみれば、同性愛者は神の教えに背く背教者で、地獄に堕ちてもしようがない人間なのです。<br/>
<br/>
そのため、彼らはキリスト教保守派から徹底的に攻撃され、差別されます。<br/>
<br/>
「同性愛やめますか、それとも人間やめますか」<br/>
<br/>
といった感じで人格まで否定され、社会で生きる場を失くしてしまうのです。<br/>
<br/>
欧米のゲイたちはこのような状況に耐えかねて、「自分たちもまた人間だ」と主張するためにゲイリブの運動を起こしたのです。<br/>
<br/><br/>つまり、欧米キリスト教圏では長い間、同性愛者は人間扱いされていなかったのです。<br/>
<br/>
翻って日本の状況をみれば、日本には昔から「下半身に人格はない」という考え方があります。<br/>
<br/>
人間の性欲は人間の意思とは無関係に勝手に暴走してしまうことがあるので、人間をその性的な行動によって判断するのは適当ではないという非常に現実的というか、世俗的な考え方で、<br/>
<br/>
昔は政治家に妾がいても、マスコミはそれを知りながら、報道することはしませんでした。<br/>
<br/>
下半身＝性に関する事柄は不問に帰すという暗黙の了解があったのです。<br/>
<br/>
最近はウーマンリブの台頭もあって、政治家の不倫なども報道されるようになりましたが、ウーマンリブにいわせると、日本の社会はまだまだこの面では男に甘いんだそうです。<br/>
<br/>
下半身＝性に関する事柄は不問に帰すという暗黙の了解は、同性愛にもあてはまります。<br/>
<br/>
先日、亡くなられたある女優さんが若いとき、あるコメディアンと結婚してすぐに離婚するという事件があったのですが、離婚の原因はこのコメディアンがホモであることがわかったからだといわれています。<br/>
<br/>
しかし、芸能記者はそのことを知っていて報道しなかったそうです。<br/>
<br/>
この女優さんが、離婚後、だいぶ経ってから、雑誌のインタビューで、昔のマスコミはプライバシーを守ってくれたと語っていたのを思い出します。<br/>
<br/>
このように日本では、欧米キリスト教圏とは異なり、人間の人格とその性的嗜好を切り離して考える傾向があり、他人の下半身事情についてはプライバシーに属することだから干渉しないという不文律があるのですが、<br/>
<br/>
これは「神様がお許しにならない」という理由で、他人の性的行動に平気で干渉してくる欧米社会とは大きな違いです。<br/>
<br/>
また日本ではホモであることがバレても、欧米のように人間性まで否定されることはありません。<br/>
<br/>
そんな日本でアメリカ流のゲイリブの運動など始めても成功するはずがないことは最初からわかっていたと思うのですが、<br/>
<br/>
アメリカコンプレックス丸出しの外専ホモはアメリカのサル真似をして、ゲイパレードを開催し、同性愛者であることを主張し始めたのです。<br/>
<br/>
しかし、元々、同性愛者に対する法的、制度的差別が存在せず、偏見も少ない日本で、同性愛者差別を訴えることには無理があり、<br/>
<br/>
一般国民はもとより、当事者である同性愛者の関心も薄く、彼らの運動はマスコミからも完全にシカトされました。<br/>
<br/>
マスコミから無視されたリブガマたちは「日本では同性愛者は存在しないものにされている」と言って憤慨したのですが、<br/>
<br/>
日本人には前述したように下半身に関する事柄＝性的な事柄は個人のプライバシーとみなす傾向があり、それを大っぴらに語ることに抵抗があるのです。<br/>
<br/>
多くのリブガマはこれを日本における同性愛差別の表れであると主張していますが、一般の日本人から見れば、<br/>
<br/>
別に法律で禁止されてもいないのに、わざわざデモして自分たちの存在をアピールするリブガマの行動の方がよほど奇異に映るのです。<br/>
<br/>
リブガマたちは「同性愛に対する偏見をなくし、同性愛者に対する理解を求める」ためにゲイパレードを実行するといっていましたが、<br/>
<br/>
あのチンケなゲイパレードは同性愛者に対する偏見を減らすどころか、逆に増やす効果しかなく、自己主張を嫌う日本のノンケや一般ホモからは反発を招いたのです。<br/>
<br/>
２ちゃんねるのゲイパレードに関するスレに書き込まれた代表的なノンケの意見を要約すると、<br/>
<br/>
「同性愛者が仲間内でこっそり楽しむのは彼らの勝手だが、同性愛者であることを主張されると引いてしまう」<br/>
<br/>
というものですが、もしアメリカ人の同性愛者に対する一般的な意見がこのような寛大なものであったなら、アメリカでゲイリブの運動なんて起こらなかったでしょう。<br/>
<br/>
アメリカでは、同性愛者たちが仲間内でパーティーを開いて楽しむことさえ許されず、その結果、ゲイリブの運動が起こったのです。<br/>
<br/>
リブガマたちは「同性愛に対する理解を深めたい」などと甘ったれたことをいってますが、他人の性癖なんてそんな簡単に理解できるものではありません。<br/>
<br/>
「同性愛は理解できないけど、そのような性癖を持つ人間が存在することは認め、他人に迷惑を及ぼさない限り、その行動には干渉はしない」<br/>
<br/>
という日本人の一般的な考え方で十分でしょう。<br/>
<br/>
実際、同性愛に対してこれだけ冷静な見方が出来る国民は世界でも稀です。<br/>
<br/>
大多数の日本のホモはこのような現状に満足し、その結果、日本のゲイリブの運動は一般ホモの支持を得られず、挫折してしまったのです。<br/>
<br/>
日本でゲイリブの運動が成功しなかったもう１つの理由は、ゲイリブ運動が一般ホモを置き去りにした被差別利権獲得運動になってしまったことにあります。<br/>
<br/>
アメリカのサル真似で始まった日本のゲイリブの運動ですが、気がついたら人権活動家を自称する人権やくざや在日朝鮮人が運動を主導するようになっていたのです。<br/>
<br/>
ゲイリブ運動がいつ頃からプロ市民や人権屋に乗っ取られるようになったのかはっきりしませんが、<br/>
<br/>
元々、ゲイリブ運動を始めた活動家にはサヨク思想の持ち主が多く、活動家に占める在日朝鮮人の割合も高かったので、<br/>
<br/>
運動の最初から在日団体やフェミ団体などの反日サヨクグループと人的交流があったのではないかと想像されます。<br/>
<br/>
また日本では過去に同和部落や在日朝鮮人たちが差別を言い立てることで様々な利権や特権を獲得してきたという「成功例」があることから、ゲイリブ活動家が意識的に彼らの運動を真似した可能性もあります。<br/>
<br/>
北海道のアイヌ協会の利権体質を批判する、アイヌの血を引く陶芸家、砂澤陣氏によると、アイヌ協会の実権を握っているのは在日や同和団体の関係者で、<br/>
<br/>
協会に被差別利権獲得のノウハウを持ち込んだのはこれら在日や同和団体の関係者だそうです（「アイヌの真実」を参照）。<br/>
<br/>
ゲイリブの団体についても、ゲイリブ活動家やそのシンパに在日が占める割合が多いことからみて、在日団体の関係者から被差別利権獲得のノウハウを学んでいた可能性は十分に考えられます。<br/>
<br/>
日本のゲイリブ団体がそのサヨク的体質をむき出しにしはじめたのは、２００７年、朝鮮総連との黒い関係が噂されていた自称レスビアンの活動家、尾辻かな子が民主党から参院選に出馬したとき、なりふりかまわず応援したときからです。<br/>
<br/>
この年には、東京都知事選も行われ、石原慎太郎の対抗馬として反日サヨク勢力が担ぎ上げた候補者、浅野某に対してもゲイリブは全面的に応援し、<br/>
<br/>
この男を二丁目に連れてきて挨拶させ、都知事候補が初めて二丁目に来たとはしゃいでいましたが、はしゃいでいたのはゲイリブだけで、一般ホモはその様子を白けた気分で眺めていました。<br/>
<br/>
この反石原候補をわざわざ二丁目に連れてきたことからもわかるように、当時の二丁目はゲイリブの支配下にありました。<br/>
<br/>
本来、政治とは無縁の飲み屋街である二丁目がなぜゲイリブに乗っ取られ、選挙のときにサヨクの候補者ばかり応援するようになったのか、不思議でしょうがなかったのですが、<br/>
<br/>
二丁目のゲイバーのママや店子に在日朝鮮人が多いと聞いて納得しました。<br/>
<br/>
ゲイリブは、二丁目の在日コネクションを通して二丁目に浸透していったのです。<br/>
<br/>
日本のゲイリブ運動のリーダーを自認する二丁目のゲイリブバーのマスターが在日朝鮮人であることはよく知られている事実です。<br/>
<br/>
ちょうど今、フジテレビを初めとする日本のテレビ局が韓流ゴリ押しにやっきになっていて、一般視聴者は白けた気分でそれを眺めていますが、<br/>
<br/>
この韓流ゴリ押しの先兵となって暗躍しているのが、各テレビ局に巣食う在日社員だといわれています。<br/>
<br/>
二丁目は政治化することで、その衰退が加速し、現在は閑古鳥も寄り付かないほど寂れた場所になっているそうですが、<br/>
<br/>
韓流ゴリ押しのテレビ局も視聴者を無視した韓国マンセーを続けることによってその衰退は加速していくでしょう。<br/>
<br/>
元々、日本のゲイリブの運動はアメリカの運動をサル真似した「気分はアメリカン」の軽薄な一時的流行でしかありませんでした。<br/>
<br/>
その軽薄さにプロ市民や人権やくざが付け込み、同性愛者を「差別される少数派」に仕立て上げ、被差別利権の獲得を目指す運動に変えていったのです。<br/>
<br/>
アメリカのゲイリブの運動は「同性愛者を異性愛者と平等に扱うことを要求する」運動だったのですが、<br/>
<br/>
日本では、ゲイリブの運動は「同性愛者を特別扱いすることを要求する」運動になってしまったのです。<br/>
<br/>
このような特定の社会集団を被差別集団に認定し、特別扱いして様々な特権や利権を与えることは、差別を解消するどころか、逆差別を生み、<br/>
<br/>
そのような特権に嫉妬し反発する一般国民からのバッシングを引き起こすことは、在日朝鮮人の例をみればあきらかです。<br/>
<br/>
彼らは、現在、在特会など日本の保守派による厳しい批判に晒されていますが、結局のところ、戦後の日本における在日の運動は、在日に対する新たな差別感情や偏見を生み出しただけで終わったのです。<br/>
<br/>
日本のゲイリブ運動を乗っ取った在日朝鮮人たちは、アイヌに対してそうしたように、同性愛者を被差別民に仕立て上げて、被差別利権の甘い汁を吸おうと企んだのですが、<br/>
<br/>
アイヌについては成功したこの手法は、同性愛者には通用しませんでした。<br/>
<br/>
あたり前のことですが、日本のホモの大半は日本人で、彼らは特別、差別など感じていなかったからです。<br/>
<br/>
そしてネットなどで、日本には存在しない差別をわざわざねつ造してまで運動を進めようとするゲイリブ活動家を自称する連中の胡散臭さに気がついた、<br/>
<br/>
一般ホモによるゲイリブ活動家に対する激しいバッシングが湧きおこり、彼らの犯罪歴や出自、スキャンダル、等々が暴かれた結果、運動家たちは内輪もめを起こして分裂し、自滅していったのです。<br/>
<br/>
<br/>
「私的男色論」の目次に戻る
 ]]> 
</description>
        <dc:subject>未分類</dc:subject>
        <dc:creator>jack4africa</dc:creator>
    <pubDate>Tue, 27 Mar 2012 7:23:41 +0900</pubDate>
    <dc:date>2012-03-27T07:23:41+09:00</dc:date>
    </item>
    <item>
        <title>台湾の純情</title>
        <link>http://jack4afric.exblog.jp/17339361/</link>
        <guid isPermaLink="true">http://jack4afric.exblog.jp/17339361/</guid>
        <description>
<![CDATA[  
<br/>
去る３月１１日に東京で開かれた政府主催の東日本大震災一周年追悼式典で、民主党政府は、２００億円を超す義捐金を拠出してくれた台湾の代表を指名献花から外すという無礼な行動に出ました。<br/>
<br/>
震災で９３の国・地域、国際機関から義援金や救援物資が寄せられ、その総計は１７５億円に達するそうですが、これに含まれない台湾は単独で２００億円を超える義援金を寄せてくれたのです。<br/>
<br/>
つまり、台湾１国で、世界中から寄せられた義捐金の合計を大きく上回る額の義捐金を送ってくれたことになります。<br/>
<br/>
そのような厚い友情を示してくれた台湾の代表を無視して献花をさせなかったということは、外交的にみても非礼にあたるし、台湾の国民に対して申し訳ない気持ちでいっぱいです。<br/>
<br/>
日華議員懇談会の平沼赳夫会長（たちあがれ日本代表）は１７日夜、台北市内で台湾の王金平立法院長と会談し、この件に関して謝罪したそうですが、<br/>
<br/>
台湾側は「日台関係は花束一つで揺るがない」と大人の対応を見せて、今回の件は問題にしないと言明したそうです。<br/>
<br/>
中国や南北朝鮮の日本に対する気違い染みた言動を見るにつけ、あらためて台湾という国の品格を感じましたが、日本がこのような素晴らしい隣国と外交関係を持っていないのは本当に残念なことです。<br/>
<br/><br/>ただし、正式な外交関係は維持していないものの、台湾の国民と日本国民は互いに相手の国を旅行し合って民間レベルの親善を深めていますし、<br/>
<br/>
政治家レベルでも平沼先生など保守派議員を中心に台湾の政治家と交流を持っているそうで、台湾側の「日台関係は花束一つで揺るがない」という言葉は決して誇張ではないと思います。<br/>
<br/>
以前、ある雑誌のコラムで、ある自民党の議員が昔、台湾を視察したときの思い出を語っているのを読んだことがあります。<br/>
<br/>
彼は一人で台湾に行って、一週間ほど台湾各地を回ったそうですが、台湾政府は彼のために通訳兼ガイドとして一人の台湾人青年を同行させてくれたそうです。<br/>
<br/>
議員先生を迎えたその台湾人の青年は最初の晩、議員先生に対して、<br/>
<br/>
「先生がお望みであれば、ホテルに女性を呼ぶことができますが…」<br/>
<br/>
と女性を勧めたそうです。<br/>
<br/>
これは中国共産党が得意とするハニートラップなんかではなく、当時の台湾ではVIPを女性で接待することは普通に行われていて、青年は純粋な好意から女性を勧めてくれたのだそうです。<br/>
<br/>
議員先生は女嫌いではなかったのですが、その種の女性と交渉を持つことには抵抗があるタイプで、青年の申し出を断ったといいます。<br/>
<br/>
その後、一週間、議員先生と通訳兼ガイドの台湾人青年は一緒に台湾各地を回ったそうですが、どこに行っても青年は夜になると必ず先生に女性を勧め、先生はそれを断るということを繰り返したそうです。<br/>
<br/>
そんな風にして台湾各地を視察し、台北に戻ってきて、明日は日本に帰国するという最後の晩、青年はまたもや女性を勧めてきたといいます。<br/>
<br/>
そして、議員先生はまたもやその申し出を断ったのだそうです。<br/>
<br/>
すると、その台湾人青年は悲壮な顔つきになって、議員先生の前で服を脱ぎ始めたんだそうです……（笑）<br/>
<br/>
<br/>
中国のハニートラップとは似て非なる話です。<br/>
<br/>
<br/>
多額の義援金を寄せてくれた台湾の人たちに感謝の気持ちを伝えるために、沖縄県の与那国島から台湾北東部の蘇澳まで泳いで渡った日本の水泳選手たち<center><img class="IMAGE_MID" src="http://pds2.exblog.jp/pds/1/201203/22/98/f0107398_23505459.jpg" border="0" width="500" height="310"/></center><br/>
<center><img class="IMAGE_MID" src="http://pds2.exblog.jp/pds/1/201203/22/98/f0107398_23513216.jpg" border="0" width="500" height="312"/></center><center><img class="IMAGE_MID" src="http://pds2.exblog.jp/pds/1/201203/22/98/f0107398_23515925.jpg" border="0" width="500" height="315"/></center><center><img class="IMAGE_MID" src="http://pds2.exblog.jp/pds/1/201203/22/98/f0107398_23522845.jpg" border="0" width="500" height="331"/></center>
 ]]> 
</description>
        <dc:subject>国際関係</dc:subject>
        <dc:creator>jack4africa</dc:creator>
    <pubDate>Fri, 23 Mar 2012 0:00:15 +0900</pubDate>
    <dc:date>2012-03-23T00:00:15+09:00</dc:date>
    </item>
    <item>
        <title>田中絹代 - 女優の鑑 - （１９０９～１９７７）</title>
        <link>http://jack4afric.exblog.jp/17313851/</link>
        <guid isPermaLink="true">http://jack4afric.exblog.jp/17313851/</guid>
        <description>
<![CDATA[  
<center><img class="IMAGE_MID" src="http://pds2.exblog.jp/pds/1/201203/16/98/f0107398_17394529.jpg" border="0" width="200" height="276"/></center>１９０９年（明治４２年）生まれの女優、田中絹代の全盛期の作品をリアルタイムで観るには、私は遅く生まれ過ぎました。<br/>
<br/>
私が物心ついたとき、すでに彼女はお婆さんだったのです。<br/>
<br/>
私が初めてみた田中絹代の作品は、彼女が６５歳のときの作品で、元からゆきさんだった老女を演じた「サンダカン八番娼館 望郷」（１９７４）でしたが、それほど印象に残りませんでした。<br/>
<br/>
次にみたのは、パリのシネマテークで上映された溝口健二監督の「西鶴一代女」（１９５２）です。<br/>
<br/>
この作品を撮ったとき、彼女は４３歳で、２０歳の娘から６５歳の老婆までの女の一生を演じているのですが、４３歳の彼女が２０歳の娘を演るのはやっぱり無理があって、それほど感情移入できませんでした。<br/>
<br/><br/>彼女に初めて関心をもったのは、数年前に溝口健二の作品が２０本ほどまとめてYoutubeに投稿されたのをみてからです。<br/>
<br/>
その多くは溝口健二のお気に入りだった田中絹代の主演作だったのですが、どんな役でも体当たりでぶつかっていくその女優根性というか、気迫に打たれ、やっと彼女の凄さがわかってきたのです。<br/>
<br/>
それから「マダムと女房」（１９３１）、「お琴と佐助」（１９３５）、「愛染かつら」（１９３８）、「陸軍」（１９４４）などの彼女の初期の作品のDVDを買ってみたのですが、<br/>
<br/>
彼女の晩年の作品からみはじめて、娘時代の作品へと時代を遡ってみたわけで、一人の女優の年齢による変化をみることができて面白かったです。<br/>
<br/>
田中絹代は前述したように１９０９年（明治４２年）に山口県下関に生まれます。<br/>
<br/>
生家は裕福な商家だったそうですが、絹代が３歳のときに父が死亡、一家は零落し、大阪にいる伯父を頼って上京します。<br/>
<br/>
大阪で絹代は琵琶を習い始めるのですが、１０歳のとき、琵琶の師匠が始めた琵琶少女歌劇団に加わります。<br/>
<br/>
琵琶少女歌劇団というのは、琵琶を伴奏に少女たちが劇を演じるというもので、当時、大阪で人気があったそうですが、絹代は１２歳ですでにこの歌劇団のスターになり、一家を養っていたそうです。<br/>
<br/>
当然のことながら、小学校にはほとんど通えなかったそうですが、学校の成績は常に一番だったといいます。<br/>
<br/>
その後、当時の松竹の大スターだった粟島すみ子の映画を観て映画女優に憧れ、松竹大阪支社の給仕をしていたすぐ上の兄の紹介で、松竹下賀茂撮影所に入って大部屋女優になります。<br/>
<br/>
彼女が１５歳のときでした。<br/>
<br/>
彼女は小柄で特別、美人でもなかったのですが、後に短期間、結婚することになる清水宏や五所平之助などの若手監督に気に入られ、彼らの作品に出演することで純情可憐な娘役としてめきめき頭角を現します。<br/>
<br/>
彼女は大人しそうな外見に似合わず、人一倍、負けん気の強い性格で、大変な努力家だったそうで、並み居る先輩女優を追い越してどんどん出世していったそうです。<br/>
<br/>
彼女とよく共演していた松竹の女優、吉川満子はテレビのインタビューに答えて、<br/>
<br/>
「田中さんというのは本当に凄い人でねぇ。あんな人が出てきた日にゃ、あたし達はどうしようもありませんヨ」<br/>
<br/>
と述懐しています。<br/>
<br/>
１９３１年には、日本映画の本格的トーキー作品「マダムと女房」に主演します。<br/>
<br/>
彼女は下関訛りを気にしてトーキー作品に出るのを嫌がったそうですが、映画を封切ってみると、彼女の独特の話し方が好評で、返って人気が高まったそうです。<br/>
<br/>
DVDをみる限り、訛りはあんまり感じられないし、独特の鼻にかかった甘えた声が色っぽくて、男性の観客を魅了したのがよくわかります。<br/>
<br/>
その後、１９３５年には谷崎潤一郎原作「春琴抄」を映画化した「お琴と佐助」で驕慢な性格の盲目の琴の名手、春琴を演じ、後年の演技派女優の片鱗をのぞかせます。<br/>
<br/>
そして１９３８年に往年の二枚目スター、上原謙と共演したメロドラマ「愛染かつら」が空前の大ヒットとなり、彼女が劇中で歌った主題歌「旅の夜風」も大ヒットします。<br/>
<br/>
この頃の彼女は、押しも押されぬ松竹のトップ女優になっていて、鎌倉に「絹代御殿」と呼ばれる豪邸を建てて住んでいたそうです。<br/>
<br/>
戦時中は、日本映画界は軍部に協力して国策戦争映画ばかり作っていたので、女優の出番はあまりなかったのですが、その中で特筆すべきは、木下恵介監督の「陸軍」（１９４４）でしょう。<br/>
<br/>
この作品は陸軍省の後援で戦意発揚のために製作された国策映画なのですが、出来上がってみたら反戦映画になっていたというトンデモナイ作品で、田中絹代は出征兵士の母親を演じています。<br/>
<br/>
「息子の命は天子様にお預けしました」と軍国の母を気丈に演じていた出征兵士の母親が愈々、息子が出征する日になって、見送りに行くと泣いてしまうからといって、家に引きこもっているのですが、<br/>
<br/>
軍楽隊のラッパの音が聞こえてくると、いてもたってもいられなくなって、家を飛び出します。<br/>
<br/>
そして小走りに出征兵士の隊列が行進している大通りに向かいます。<br/>
<br/>
大通りの沿道は、日の丸の小旗を振る見送りの群衆で埋め尽くされています。<br/>
<br/>
その群衆をかき分けながら必死で息子の姿を探す母親。<br/>
<br/>
やっと息子の姿を見つけて、息子に目で合図を送る母親。<br/>
<br/>
母親に気がついて、笑顔を見せる息子。<br/>
<br/>
涙を拭きながら、それでも一生けん命、笑いかける母親。<br/>
<br/>
隊列の歩調に合わせて小走りに走っていく途中、群衆の一人にぶつかって転んでしまう母親。<br/>
<br/>
去って行く息子の後ろから手を合わせて祈る母親。<br/>
<br/>
母親はもちろん息子の無事の生還を祈っているのです。<br/>
<br/>
この１０分近い殆どセリフのないラストシーンで田中絹代は監督の意を汲んで、軍国の母のタテマエに隠されたホンネを見事に表現したのです。<br/>
<br/>
この作品は当然のことながら陸軍の不興を買ったそうですが、なぜかラストシーンはカットされずにそのまま上映されたそうです。<br/>
<br/>
映画「陸軍」ラストシーン<br/>
http://www.youtube.com/watch?v=BTa6a2HmzWc<br/>
<br/>
映画の検閲については、戦時中の軍の検閲よりも戦後のGHQの検閲の方が厳しかったといいます。<br/>
<br/>
戦後まもなく、日本がまだ米軍占領下にあった１９４９年、田中絹代は「日米親善芸術使節」としてハリウッドを訪問します。<br/>
<br/>
このアメリカ行きが彼女の経歴の汚点になるとは、本人も含めてだれも考えていなかったでしょう。<br/>
<br/>
アメリカから帰国した彼女を出迎えた日本人はそのいでたちをみて唖然となります。<br/>
<br/>
和服姿で「行ってまいります」といって出かけた彼女が、緑色のサングラスに毛皮のコート、真っ赤な口紅といった格好で飛行機を降りてきて、第一声が「ハロー」。<br/>
<br/>
その後、銀座通りをオープンカーでパレード、周囲に投げキッスを振りまく彼女についたあだ名が「アメション女優」（「アメリカにションベンしに行っただけの女優」の意）。<br/>
<br/>
そのあまりのアメリカかぶれがマスコミによって袋叩きにあったのです。<br/>
<br/>
子役時代から田中絹代と共演し、私生活でも親交があった女優、高峰秀子によると、このとき田中絹代は４０歳、娘役で売ってきた彼女も目尻に小じわが目立つようになり、イメチェンを考えていたのではないかといいます。<br/>
<br/>
そのイメチェンは完全に裏目に出たのですが、それにしても彼女に対するマスコミのバッシングは凄まじかったといいます。<br/>
<br/>
おそらく、日本人の多くは、戦時中は「鬼畜米英」を叫んでおきながら、戦争に負けた途端、アメリカ一辺倒になり、<br/>
<br/>
「これからは民主主義の時代だ」などと言い始めた自分たちの節操の無さ、変わり身の早さを彼女の中にみて、近親憎悪的に彼女を憎んだのではないかと思われます。<br/>
<br/>
このマスコミのバッシングのお蔭で、ファンレターは一通も来なくなり、彼女は自宅のある鎌倉山の崖の上から飛び降り自殺しようかと本気で考えたそうです。<br/>
<br/>
窮地に陥った彼女に救いの手を差し伸べたのが彼女を女優として高く評価していた名監督、溝口健二です。<br/>
<br/>
溝口は田中絹代を主役に抜擢した「西鶴一代女」（１９５２）、雨月物語（１９５３）、「山椒大夫」（１９５４）で、３年連続してベネチア映画祭で受賞するという快挙を成し遂げ、彼女も女優として復活します。<br/>
<br/>
溝口は、田中絹代のことを女優としてだけでなく、一人の女性としても惚れ込んでいたそうですが、彼女の方は溝口を監督としては尊敬していたけれど、男性としてはそれほど魅力を感じなかったと語っています。<br/>
<br/>
いずれにせよ、清水宏監督との短期間に終わった結婚以来、彼女は「私は映画と結婚した」と広言していて、病気の兄の看病もあって、だれとも結婚する気はなかったようです。<br/>
<br/>
溝口との関係は、彼女が映画の監督をやりたがり、溝口がそれに反対したことがきっかけで破たんしてしまいます。<br/>
<br/>
その後、彼女は女優出身の女流監督第１号（第２号は左幸子）として「お吟さま」（１９６２）など６本の作品を監督します。<br/>
<br/>
女優としては、「流れる」（１９５６）、「異母兄弟」（１９５７）、「彼岸花」（１９５８）などで印象深い演技を披露していますが、彼女の女優人生の集大成となった作品は、木下恵介監督の「楢山節考」（１９５８）だと思います。<br/>
<br/>
深沢七郎の名作を映画化したこの作品で、田中絹代は主人公のおりん婆さんを演じているのですが、<br/>
<br/>
７０歳になってもまだ丈夫な歯を持っていることを恥じたおりん婆さんが前歯を石うすに打ち付けて歯を砕き、歯が欠けた血だらけの口を開けて笑うシーンには鬼気迫るものがあります。<br/>
<br/>
このとき田中絹代はまだ４８歳。彼女がアメリカから帰国後に出演した同じ木下恵介監督の「婚約指輪」（１９５０）を観たマスコミがこの作品の彼女を「老醜」と貶したのですが、<br/>
<br/>
彼女は、その言葉を逆手に取って、この作品で７０歳の老婆を演じてみせたのです。<br/>
<br/>
「よく見ておおき、これが本物の老醜というんだよ」<br/>
<br/>
という彼女の啖呵が聞こえるようです。<br/>
<br/>
その後、６５歳のときに出演した「サンダカン八番娼館　望郷」）１９７４）では、元からゆきさんの老婆を演じ、ベルリン映画祭の最優秀女優賞を受賞します。<br/>
<br/>
１９７７年、６７歳のときに脳腫瘍が見つかって入院しますが、見舞いに訪れた知人に、<br/>
<br/>
「寝たきりでも演じられる役があるだろうか」<br/>
<br/>
と訊いたそうです。<br/>
<br/>
最後まで女優一筋に生きた、女優の鑑ともいえる一生でした。<br/>
<br/>
<br/>
「マダムと女房」（１９３１）<center><img class="IMAGE_MID" src="http://pds2.exblog.jp/pds/1/201203/19/98/f0107398_2353342.jpg" border="0" width="400" height="283"/></center><br/>
「伊豆の踊子」（１９３３）<center><img class="IMAGE_MID" src="http://pds2.exblog.jp/pds/1/201203/19/98/f0107398_2355276.jpg" border="0" width="500" height="362"/></center><br/>
「愛染かつら」（１９３８）<center><img class="IMAGE_MID" src="http://pds2.exblog.jp/pds/1/201203/19/98/f0107398_23564646.jpg" border="0" width="360" height="266"/></center><br/>
「陸軍」（１９４４）<center><img class="IMAGE_MID" src="http://pds2.exblog.jp/pds/1/201203/19/98/f0107398_23581451.jpg" border="0" width="378" height="288"/></center><br/>
「西鶴一代女」（１９５２）<center><img class="IMAGE_MID" src="http://pds2.exblog.jp/pds/1/201203/19/98/f0107398_2359239.jpg" border="0" width="330" height="239"/></center><br/>
「山椒大夫」（１９５４）<center><img class="IMAGE_MID" src="http://pds2.exblog.jp/pds/1/201203/19/98/f0107398_00571.jpg" border="0" width="500" height="242"/></center><br/>
「楢山節考」（１９５８）<center><img class="IMAGE_MID" src="http://pds2.exblog.jp/pds/1/201203/20/98/f0107398_011932.jpg" border="0" width="320" height="236"/></center><br/>
「サンダカン８番娼館　望郷」（１９７４）<center><img class="IMAGE_MID" src="http://pds2.exblog.jp/pds/1/201203/20/98/f0107398_022976.jpg" border="0" width="400" height="286"/></center>
 ]]> 
</description>
        <dc:subject>思い出の女優たち</dc:subject>
        <dc:creator>jack4africa</dc:creator>
    <pubDate>Fri, 16 Mar 2012 0:04:11 +0900</pubDate>
    <dc:date>2012-03-16T00:04:11+09:00</dc:date>
    </item>
    <item>
        <title>森鴎外「ヰタ・セクスアリス」</title>
        <link>http://jack4afric.exblog.jp/17302735/</link>
        <guid isPermaLink="true">http://jack4afric.exblog.jp/17302735/</guid>
        <description>
<![CDATA[  
<br/>
森 鷗外（１８６２ – １９２２）は、夏目漱石と並ぶ明治の文豪として知られていますが、本職は軍医で、軍医総監まで出世したエリートでした。<br/>
<br/>
１９０９年に発表した自伝的小説「ヰタ・セクスアリス」（ラテン語で「性生活」の意）では、自身の幼年時代からの性体験について率直に語っています。<br/>
<br/>
本人は青少向けの啓蒙の書として書いたつもりだったみたいですが、卑猥な小説とみられ、掲載した雑誌は発禁処分になったそうです。<br/>
<br/>
今、読むと十分に抑制された文章で、卑猥な箇所などまったくないのですが、当時は、性的な事柄をテーマにしただけでも発禁になったみたいです。<br/>
<br/>
鴎外は、１８６２年（文久２年）、島根県の代々藩主の御典医をつとめる家に生まれます。<br/>
<br/>
郷里で過ごした幼年時代の性にまつわる思い出としては、近所の家に遊びに行ってそこのおばさんに春画を見せられたとか、近所の女の子とお医者さんごっこをして遊んだとか他愛のないものですが、<br/>
<br/>
１８７２年（明治５年）、１０歳のときに父と共に上京し、ドイツ語を教える私立学校に入学、そこで初めて性の洗礼を受けます。<br/>
<br/>
ただし、相手は女ではなく、男でした。<br/>
<br/>
当時、東京の学生の間では男色が流行していて、少年の鴎外は上級生から性の対象として見られ、誘惑されるのです。<br/>
<br/><br/>鴎外は下宿して学校に通っていたのですが、この学校には寄宿舎があって、その寄宿舎に住む上級生に遊びに来いと誘われます。<br/>
<br/>
最初の二、三回は、菓子や羊羹などをご馳走してくれるだけだったのが、そのうち、手を握ったり、頬擦りしてくるようになり、ある日のこと、部屋に行ってみたら、布団が敷いてあり、一緒に寝ようと口説いてきます。<br/>
<br/>
嫌だといって抵抗していると、隣の部屋の学生が入ってきて、「応援してやる」といい、鴎外少年の頭から布団をかぶせ、押さえつけようとするので、どたばた暴れていたら、<br/>
<br/>
騒ぎを聞きつけたほかの学生たちが集まってきて止めに入ったので、隙をみて跳ね起きて、ようやく逃げ出すことができた語っています。<br/>
<br/>
週末、父の家に行って、事の顛末を話すと、びっくりするかと思いきや、<br/>
<br/>
「そういう奴がいるから、気をつけなければいかん」<br/>
<br/>
といわれただけで、拍子抜けしてしまったそうです。<br/>
<br/>
実際、この頃には、このようなことは日常茶飯事で起きていたようです。<br/>
<br/>
稲垣足穂著「南方熊楠稚児談義」に、ある学生が東京の薩摩出身の学生が多く住む学生寮に友人を訪ねていったとき、友人が、<br/>
<br/>
「芋をご馳走しようか、少年をご馳走しようか」<br/>
<br/>
と訊くので、「少年を」と望むと、一人の幼年生を連れて来て、布団をかぶせて「さあ」と勧めるので、ご馳走になって帰ってきたという話が出てきます。<br/>
<br/>
当時の学生には少年好きの硬派の学生と女好きの軟派の学生がいたと鴎外は語っています。<br/>
<br/>
硬派の学生は主として九州出身の学生で、残りの九州以外の地方の学生はすべて軟派で、数からいうと軟派の学生の方が優勢だったそうですが、<br/>
<br/>
学生の本分は硬派にあるとみなす風潮があって、軟派の学生は多少、後ろめたい気持ちを抱いていたといいます。<br/>
<br/>
たとえば、硬派の学生の服装は紺足袋に小倉袴で、軟派の学生も一応、硬派の真似をして同じ服装でいるものの、硬派の学生のように腕をまくったり、肩を怒らせたりすることは少なく、休日になるとそっと白足袋を履き、絹物を着て、遊郭に行ったりしていたそうです。<br/>
<br/>
また軟派の学生の読む本は春本であったのに対して、硬派の学生は春本など見向きもせず、平田三五郎という美少年について書かれた「賤（しず）のおだまき」という本を愛読していたといいます。<br/>
<br/>
平田三五郎というのは、慶長４年（１５９９年）、１５歳のときに、薩摩藩主である島津氏に対して重臣の伊集院忠真が起こした内乱である庄内の乱を鎮圧するために、<br/>
<br/>
義兄弟の契りを結んだ吉田大蔵という武士と共に出陣し、吉田が戦死したあと、みずからもその後を追うように壮烈な戦死を遂げたという薩摩藩に実在した美少年で、<br/>
<br/>
鹿児島の塾ではこの三五郎と大蔵の愛と友情の物語である「賤のおだまき」を毎年元旦に読むしきたりになっていたそうです。<br/>
<br/>
薩摩隼人を祖父に持つ随筆家の白洲正子は、その著書「両性具有の美」の中で、この本は薩摩の人々にとっては道徳の書とみなされていたのではないかと推測しています。<br/>
<br/>
男同士の男色について書いた本が道徳の教科書としてみなされるというのは、ＢＬコミックが規制の対象になっている現代では考えられないことですが、<br/>
<br/>
白洲正子によると、薩摩の武士の間では「菊花の契り」を結ばないような男は一人前の人間として扱われなかったそうで、三五郎と大蔵は、武士の子弟が手本とすべき理想の衆道カップルとして称賛されていたというのです。<br/>
<br/>
この薩摩の武士の子弟の愛読書であった「賤のおだまき」が東京の硬派の学生たちの愛読書になっていたという事実は、<br/>
<br/>
薩摩の男色の習慣が明治維新と共に東京に伝わって、学生の間で流行するようになったという俗説を裏書きしているように思われます。<br/>
<br/>
生粋の江戸っ子である小説家の谷崎潤一郎は、今東光の小説「十二階崩壊」で今東光に向かって、<br/>
<br/>
「ありゃね。薩長の田舎っぺ武士が江戸を征服した結果、薩摩藩の芋侍がもたらした薩藩の風俗だよ。平田三五郎という美少年を讃える馬鹿な唄など流行らせたのも彼奴等だよ」<br/>
<br/>
と語っていますが、そのお蔭で、東京では多くの少年が尻を狙われるようになったのです。<br/>
<br/>
その後、鴎外はドイツ語の勉強を辞めて、英語の勉強をするために東京英語学校に入学し、寄宿舎生活を始めます。<br/>
<br/>
鴎外にとって幸いなことに寄宿舎の同室の先輩の学生は硬派ではなく軟派でした。<br/>
<br/>
先輩の学生は外出するとき、<br/>
<br/>
「おれがおらんと、また穴（けつ）を覗う馬鹿もの共が来るから、用心しておれ」<br/>
<br/>
といって出かけたそうですが、鴎外はいわれなくとも用心していて、寄宿舎が長屋造りで、両側に出口があることを確認し、敵が右から来れば左に逃げ、左から来れば右に逃げることに決めていたそうです。<br/>
<br/>
それでも心配なので、父の家にあった短刀を持ちだしてきて、常に懐に隠し持っていたといいます。<br/>
<br/>
さすが武士の息子といったところですが、それだけ危険を身近に感じていたのでしょう。<br/>
<br/>
<br/>
「読書日記」の目次に戻る<br/>

 ]]> 
</description>
        <dc:subject>未分類</dc:subject>
        <dc:creator>jack4africa</dc:creator>
    <pubDate>Tue, 13 Mar 2012 0:01:03 +0900</pubDate>
    <dc:date>2012-03-13T00:01:03+09:00</dc:date>
    </item>
    </channel>
</rss>

