2009年 01月 06日
ラッフルズ・ホテル |
1988年(昭和63年)の暮れは、昭和天皇の病状が重篤だった時期で、国民の間には海外旅行の自粛ムードが高まっていると聞いていましたが、いざシンガポールに来てみると、オーチャード・ロードは日本人の観光客で溢れかえっていて、少なくとも個人レベルでは自粛の影響は見られませんでした。
この年の年末年始にかけて、私はバンコクからシンガポールまで汽車でマレー半島を縦断する旅をしたのですが、シンガポールではやはり有名なラッフルズ・ホテルに泊まりたいと思い、
いつもは事前にホテルの予約などしない習慣なのに、このときばかりは日本を出発する前に、日本のラッフルズ・ホテルの代理店というところに電話をして部屋を予約しようとしました。
ところが年末年始は満室だと断られ、それでいったんは諦めたものの、夜行列車でマレーシアのクアラルンプールからシンガポールにやってきて、早朝、シンガポールの駅に降り立ってみると、
やっぱりラッフルズ・ホテルに泊まりたいという思いがつのってきて、ダメモトで直接、あたってみようという気になり、駅前で拾ったタクシーの運転手にラッフルズ・ホテルに行くように命じたのでした。
その日はちょうど大晦日にあたっていたのですが、ラッフルズ・ホテルに着いて、フロントというよりも旅館の帳場といった方が似つかわしい古めかしい小さなレセプションにいた受付係りのインド系の中年男性と中国系の若い女性に、
予約はしていないけど部屋があれば泊まりたいというと、ちょっと驚いた顔になったものの、すぐに空室があるかどうかチェックしてくれ、意外とすんなりと宿泊をOKしてくれたのでした。
私に与えられた2階の部屋はスタンダードルームということでしたが、実際はセミスイートで、入ったところが6畳位のソファと椅子のセットと書き物机を置いた部屋になっていて、その奥が12畳位のツインベッドの広い寝室、その奥に広いバスルームがあり、その先が中庭を見おろすバルコニーになっていました。
これで当時は日本円に換算して1泊8000円位で泊まれたのです!
ラッフルズ・ホテルは、1887年にイギリス植民地だったシンガポールにアルメニア人のサーキーズ兄弟によってオープンされました。
すでにペナンのE&Oホテルとラングーン(現ヤンゴン)のストランド・ホテルを経営していたサーキーズ兄弟が、シンガポールにも国際的な水準のホテルが必要であると考え、女学校の寮だった建物を買い取り、改修してホテルにしたのだそうです。
ラッフルズという名前は、英国植民地としてのシンガポールを建設したイギリス人のトーマス・ラッフルズ卿からとっています。
シンガポールに行ったことのある方はご存知だと思いますが、シンガポールではやたらとラッフルズの名前を耳にします。
旧英領植民地で、ここまで植民地の支配者だった人間を敬愛している国はほかにないと思いますが、
その理由はおそらくシンガポール国民の大半を占める華僑が、植民地時代に英国植民地支配に特有の「分割支配」によって、土着のマレー人よりも優遇されていたという歴史があるせいでしょう。
ちなみにシンガポールが昭南島と呼ばれていた第二次大戦中の日本占領下では、ラッフルズ・ホテルは「昭南旅館」と呼ばれていたそうです!
ラッフルズ・ホテルは開業されるとすぐにシンガポールのイギリス人をはじめとする西洋人の社交場となり、シンガポールを訪れる王侯貴族や作家、映画俳優などのセレブが好んで宿泊するホテルになりました。
ラッフルズ・ホテルをこよなく愛したことで知られる作家のサマーセット・モームは、名作短編小説『雨』をこのラッフルズ・ホテルの部屋で執筆したといわれています。
もっとも、彼はイギリスに帰国してから、「シンガポールに行って、イギリスで最近、馬丁や女中のなり手が減ってきている理由がよくわかったよ」などと悪態をついて、シンガポール在住のイギリス人の憤激を買ったそうですが。
このサマーセット・モームという人は知る人ぞ知る男色家で、89歳でなくなるまで彼に付き添った男性秘書が愛人だったといわれています。
ほかにもヘルマン・ヘッセやジョセフ・コンラッド、ラドヤード・キプリングなど錚々たる作家がこのラッフルズ・ホテルに宿泊していますが、彼らをはじめ有名人の泊まった部屋の扉には、その名前を銘記したプレートが貼り付けられていました。
憧れのラッフルズ・ホテルに無事、宿泊できた私は、部屋に落ち着いてから、シンガポール人の友人に電話をしました。
その友人は日本在住なのですが、年末年始にシンガポールへ行くといったら、自分もその頃、シンガポールに里帰りしているので、着いたら是非、連絡してくれといわれていたのです。
彼に電話をするとすぐにホテルにやってきて、シンガポールの町を案内してくれ、夜には、彼の友人宅で開かれたニューイヤーのカウントダウンのパーティーに連れて行ってくれました。
彼の友人宅というのは、シンガポールでは珍しい一戸建ての家で、かなり広い前庭があり、そこに100人ほどのシンガポール人のゲイが集っていました。
この頃、シンガポールには現在のようにゲイバーやゲイサウナは存在せず、金曜や土曜の夜に限って特定のディスコにゲイが集るといった程度のゲイシーンしかみられなかったのですが、個人の自宅に集ってパーティーを開くことには問題はないようでした。
男ばかり100人近くも集ってわいわい騒いでいるんだから、近所の人間が見れば、ゲイパーティーであることがすぐに判るはずですが、集っていた連中にコソコソしたところはまったくなく大っぴらに楽しんでいました。
ひとつだけ残念だったのは、パーティーに来ていたシンガポール人が全員、私の友人と同じ中国系で、私が好きなマレー系は一人しかいず、しかも中年だったことです。
シンガポールはタテマエとしては中国人、マレー人、インド人の3つの民族で構成される多民族国家ということになっているのですが、プライベートな場では民族間の交流は少ないようにみえました。
ほかに外国人として、私を含めて日本人が2人、タイ人が1人来ていました。
タイ人の男の子は背の高いイケメンで、中国系のシンガポール人の中では断然、目だっていました。
実際、彼はその後、おこなわれたパーティーの参加者全員の投票で選ぶ、その夜のイケメン・コンテストで見事1位に選ばれて優勝したのでした。
午前零時直前になるとお約束のカウントダウンが始まり、午前零時きっかりに爆竹ならぬクラッカーが一斉に鳴らされ、出席者全員にシャンパンが振舞われて新年を祝ったのですが、
寒い日本と違って、Tシャツ一枚で新年を祝うのは不思議な気分でしたネ。
この年末年始にラッフルズ・ホテルに泊まって、その名門ホテルにありがちな気取りのなさや、べたべたしたところのないスマートで行き届いたサービスにすっかり惚れ込んでしまい、
「これからは毎年、ラッフルズ・ホテルに泊まるためにだけシンガポールに来てもよい」
とまで思ったほどですが、なんと私が泊まった直後に、老朽化を理由にホテルの建物が取り壊されてしまい、
昔の設計図通り、忠実に建てたという新しいホテルは1泊最低でも4万円もする、私なんかにはとても手の届かない高級ホテルになってしまったのです。
しかし、新築なったラッフルズ・ホテルの写真を見たときは唖然としましたね。
宿泊料が高くなって泊まれなくなったから嫌味をいうわけじゃないけれど、「ペンキ塗りたて」といった感じで、かっての情緒がなくなっていたのです。
建て替え前の建物は、あちこち痛んだところを何度も修理して使っているのがよく判り、それがかえって歴史の古さを感じさせて、古き良き時代のノスタルジックな雰囲気を醸し出していたのですが・・・
女性に譬えると、若いとき散々、男と浮名を流し、今は齢をとっているけど昔の色香はまだ残っている、話の面白い、さばけた感じの芸者あがりのお婆さんというか・・・
中国人にはワビとかサビとかいった情緒を楽しむ感性がないことをあらためて思い知った新築の姿でした。
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by jack4africa
| 2009-01-06 00:18