2009年 03月 13日
アフリカを撮った女流写真家 II : レニ・リーフェンシュタール |
レニ・リーフェンシュタールほど毀誉褒貶に富んだ人生を送った女性はいないでしょう。
1902年にベルリンに生まれた彼女は当初、ダンサーを志しますが、足の怪我で断念。
偶然、見た映画のポスターに強く惹かれ、その映画の監督、アーノルド・フランクに会いに行きます。
アーノルド・フランクは当時『山岳映画』と呼ばれたジャンルの映画で人気があった監督で、レニを気に入った彼は、次回作の主演女優に彼女を抜擢します。
運動神経抜群のレニは、『山岳映画』に必要な登山の技術をマスターし、さらに映画のシーンに必要という理由で小型飛行機の操縦免許まで取得します。
映画女優として人気が出た彼女は、自分でも監督するようになり、その作品は一定の評価を得ます。
そして1930年に彼女のその後の人生を大きく変えることになる出来事が起こります。
野心家の彼女は当時、ドイツで台頭しつつあった政党ナチの集会でヒトラーの演説を聴いて感激し、ヒトラーに「ファンレター」を出すのです。
レニの主演映画を見ていて、彼女のファンだったヒトラーは、彼女にナチの党大会の記録映画の監督を依頼します。
このナチの党大会の記録映画『意思の勝利』は、プロパガンダ映画として大成功を収め、レニの映画監督としての力量を認めたヒトラーは、
ナチスドイツの国家的威信をかけた1936年のベルリン・オリンピックの記録映画の監督にレニを抜擢するのです。
レニとヒトラー
1938年に公開された『民族の祭典』と『美の祭典』の2部作から成るベルリン・オリンピックの記録映画、『オリンピア』は、
ベネチア映画祭のグランプリに輝き、興行的にも大成功を収め、ヒトラーが率いるドイツの復活を世界に強く印象づけます。
おそらくこの頃がレニの人生の絶頂期だったと思われますが、ドイツの敗戦と同時に彼女の人生は一変し、ドイツに駐留した連合軍にナチの協力者として逮捕され、厳しい取調べを受けることになります。
結局、彼女は、
(i) ナチの党員ではなかった。
(ii) ナチの政策には関与しなかった。
(iii) ナチのシンパにすぎなかった。
という理由で無罪放免になりますが、ドイツ国民は彼女を許さず、戦後のドイツ映画界から事実上、追放されます。
彼女がドイツ人に嫌われた理由は、ナチの全盛時代にヒトラーの威光を嵩にきて威張り散らしたことや、彼女自身は否定していますが、ナチの宣伝相、ゲッペルスと親密な間柄にあったことをドイツ人が覚えていたことがひとつ。
もうひとつは、彼女が戦後になっても、過去の自分の行動について謝罪することを頑として拒んだせいだといわれています。
彼女はナチ政権下ではドイツ国民の90%がヒトラーを支持していて、自分もそのひとりにすぎなかったこと。
ナチの党大会の宣伝映画を撮ったのは「ヒトラーに頼まれたから撮っただけ」で、自分にはなにひとつやましいところはないと主張したそうですが、
『意思の勝利』を見れば、この作品が「ヒトラーに頼まれて撮っただけの映画」ではないことは一目瞭然です。
獅子咆哮するヒトラーの演説を合間に挟みながら、巨大なナチの鉤十字の旗を先頭に何千、何万という鉄兜に軍服姿のナチの党員が一糸乱れず行進するシーンは今見ても異様な迫力に満ちていて、
レニ自身、ヒトラーに心酔していなければ到底、作り得なかった作品であることがよくわかります。
この『意思の勝利』とそれに続くベルリン・オリンピックの記録映画『オリンピア』でレニが表現した力強さと美しさこそが「ナチの美学」を代表し、彼女はその生みの親なのです。
彼女の生み出した「ナチの美学」は、後のヴィスコンティの作品『地獄に堕ちた勇者ども』で再現され、写真家のヘルムート・ニュートンのスタイルにも影響を与えています。
一口に言って、彼女はナチスドイツの芸術面を代表する存在で、映画を重要な宣伝媒体とみなしたナチのために彼女の映画が果たした貢献ははかりしれず、その貢献が大きければ大きいほど、罪も深いといわざるを得ません。
レニとアフリカの関わりは、1950年代に黒人の奴隷貿易をテーマにした映画を製作・監督する企画を立て、アフリカのケニアに渡ったことから始まります。
この映画の企画は結局、実現しなかったのですが、そのとき偶々、スーダンのヌバ族のレスラーの写真を見て、その逞しい肉体に惹かれ、60年代のはじめからスーダンのヌバ・マウンテンに住むヌバ族のもとに通うようになります。
彼女がヒトラーの協力者だったことを知らない、スーダンの未開の部族、ヌバの村での生活は、彼女にとって心休まるものだったらしく、
70年代初めまで10年間ほど、何度もヌバの村に通って、多くのスチール写真と共に映画も撮ります。
しかし映画フィルムは事故で破損したため、写真集『ヌバ』だけを発表します。
この写真集『ヌバ』は世界中で好評を博し、少なくともドイツ国外では、レニは写真家として復権を果たします。
しかし、思わぬところから批判の矢が飛んできます。アメリカのフェミニスト、スーザン・ソンタグが、レニの写真集『ヌバ』を「美のファッシズム」と呼んで批判したのです。
スーザン・ソンタグによると、レニが写真に撮るのは、強く美しく健康な若い男女だけで、老人や病人や子供のような社会的弱者は、レニの写真から排除されており、
その感性は、かってアーリア系の白人を優等な人種、非アーリア系のユダヤ人を劣等な人種であるとみなして、ユダヤ人を排除、抹殺することを考えたナチの優生学的思想に通じるというものです。
スーザン・ソンタグは、もちろんユダヤ人です。
レニは「ヌバの村では老人や病人は家の中に隠れているので、彼らの写真は撮れなかった」と下手な言い訳をしていますが、その気になれば、子供の写真は撮れたはずです。
アフリカの黒人の部落を訪ねたことのある人間はだれでも、村に足を踏み入れた途端、大勢の子供たちに取り囲まれるという体験をしますが、レニはその子供たちの写真を殆ど撮っていないのです!
前回、取り上げた写真家、ミレッラ・リカルディのように女流写真家が好んで撮る、母親と赤ん坊の写真もレニは撮っていません。
レニが撮るのはつねに若くて健康な美しい肉体を持つ男女、特に若くて逞しい男です。
これは『意思の勝利』から『オリンピア』、そして『ヌバ』へと一貫して彼女が追い求めてきた対象で、そこにナチの優生学的思想との関連性を見出したスーザン・ソンタグの指摘はあながち的外れだとは思えません。
もしレニがオリンピックではなく、パラリンピックの記録映画の監督を頼まれていたら、多分、断っていたでしょう。
しかし、様々な批判にもめげず、70歳近くになって自分よりも40歳も年下の孫みたいな青年と結婚し(彼女のことだから、ちゃんとセックスもしていただろうと思えるところが恐ろしい!)、
70歳を過ぎて、ヌバの世界に別れを告げたあとはダイビングの免許を取り、モルディブなど世界各地の海に潜って水中写真を撮り、
2003年に101歳で死ぬ前年、最後の監督作品となった水中映画『ワンダー・アンダー・ウォーター 原色の海』を完成させるなど、生きる意欲、創作意欲は最期まで衰えませんでした。
2000年、98歳のときに26年ぶりにスーダンのヌバ族に会いに行って、帰りに乗ったヘリコプターが墜落したものの、
骨を何本か折っただけで死なずに生き残り、怪我が治るとすぐにモルディブの海に潜りにいったという、うんざりするほど頑強で健康な肉体。
戦後の逆境下で、多数の訴訟を起こし、長い面倒な手続きを経て、自分が監督したすべての作品のフィルムと著作権を取り戻した執念深さというか、意思の強さ。
それらと表裏一体の関係にある唯我独尊的な自尊心、頑固さ、無神経さ、鈍感さは良くも悪くもドイツ人で、個人的にはちっとも好きになれないけど、まぁ、めったに現れないような婆さんであったことは確かです。
1902年にベルリンに生まれた彼女は当初、ダンサーを志しますが、足の怪我で断念。
偶然、見た映画のポスターに強く惹かれ、その映画の監督、アーノルド・フランクに会いに行きます。
アーノルド・フランクは当時『山岳映画』と呼ばれたジャンルの映画で人気があった監督で、レニを気に入った彼は、次回作の主演女優に彼女を抜擢します。
運動神経抜群のレニは、『山岳映画』に必要な登山の技術をマスターし、さらに映画のシーンに必要という理由で小型飛行機の操縦免許まで取得します。
映画女優として人気が出た彼女は、自分でも監督するようになり、その作品は一定の評価を得ます。
そして1930年に彼女のその後の人生を大きく変えることになる出来事が起こります。
野心家の彼女は当時、ドイツで台頭しつつあった政党ナチの集会でヒトラーの演説を聴いて感激し、ヒトラーに「ファンレター」を出すのです。
レニの主演映画を見ていて、彼女のファンだったヒトラーは、彼女にナチの党大会の記録映画の監督を依頼します。
このナチの党大会の記録映画『意思の勝利』は、プロパガンダ映画として大成功を収め、レニの映画監督としての力量を認めたヒトラーは、
ナチスドイツの国家的威信をかけた1936年のベルリン・オリンピックの記録映画の監督にレニを抜擢するのです。
レニとヒトラー
1938年に公開された『民族の祭典』と『美の祭典』の2部作から成るベルリン・オリンピックの記録映画、『オリンピア』は、
ベネチア映画祭のグランプリに輝き、興行的にも大成功を収め、ヒトラーが率いるドイツの復活を世界に強く印象づけます。
おそらくこの頃がレニの人生の絶頂期だったと思われますが、ドイツの敗戦と同時に彼女の人生は一変し、ドイツに駐留した連合軍にナチの協力者として逮捕され、厳しい取調べを受けることになります。
結局、彼女は、
(i) ナチの党員ではなかった。
(ii) ナチの政策には関与しなかった。
(iii) ナチのシンパにすぎなかった。
という理由で無罪放免になりますが、ドイツ国民は彼女を許さず、戦後のドイツ映画界から事実上、追放されます。
彼女がドイツ人に嫌われた理由は、ナチの全盛時代にヒトラーの威光を嵩にきて威張り散らしたことや、彼女自身は否定していますが、ナチの宣伝相、ゲッペルスと親密な間柄にあったことをドイツ人が覚えていたことがひとつ。
もうひとつは、彼女が戦後になっても、過去の自分の行動について謝罪することを頑として拒んだせいだといわれています。
彼女はナチ政権下ではドイツ国民の90%がヒトラーを支持していて、自分もそのひとりにすぎなかったこと。
ナチの党大会の宣伝映画を撮ったのは「ヒトラーに頼まれたから撮っただけ」で、自分にはなにひとつやましいところはないと主張したそうですが、
『意思の勝利』を見れば、この作品が「ヒトラーに頼まれて撮っただけの映画」ではないことは一目瞭然です。
獅子咆哮するヒトラーの演説を合間に挟みながら、巨大なナチの鉤十字の旗を先頭に何千、何万という鉄兜に軍服姿のナチの党員が一糸乱れず行進するシーンは今見ても異様な迫力に満ちていて、
レニ自身、ヒトラーに心酔していなければ到底、作り得なかった作品であることがよくわかります。
この『意思の勝利』とそれに続くベルリン・オリンピックの記録映画『オリンピア』でレニが表現した力強さと美しさこそが「ナチの美学」を代表し、彼女はその生みの親なのです。
彼女の生み出した「ナチの美学」は、後のヴィスコンティの作品『地獄に堕ちた勇者ども』で再現され、写真家のヘルムート・ニュートンのスタイルにも影響を与えています。
一口に言って、彼女はナチスドイツの芸術面を代表する存在で、映画を重要な宣伝媒体とみなしたナチのために彼女の映画が果たした貢献ははかりしれず、その貢献が大きければ大きいほど、罪も深いといわざるを得ません。
レニとアフリカの関わりは、1950年代に黒人の奴隷貿易をテーマにした映画を製作・監督する企画を立て、アフリカのケニアに渡ったことから始まります。
この映画の企画は結局、実現しなかったのですが、そのとき偶々、スーダンのヌバ族のレスラーの写真を見て、その逞しい肉体に惹かれ、60年代のはじめからスーダンのヌバ・マウンテンに住むヌバ族のもとに通うようになります。
彼女がヒトラーの協力者だったことを知らない、スーダンの未開の部族、ヌバの村での生活は、彼女にとって心休まるものだったらしく、
70年代初めまで10年間ほど、何度もヌバの村に通って、多くのスチール写真と共に映画も撮ります。
しかし映画フィルムは事故で破損したため、写真集『ヌバ』だけを発表します。
この写真集『ヌバ』は世界中で好評を博し、少なくともドイツ国外では、レニは写真家として復権を果たします。
しかし、思わぬところから批判の矢が飛んできます。アメリカのフェミニスト、スーザン・ソンタグが、レニの写真集『ヌバ』を「美のファッシズム」と呼んで批判したのです。
スーザン・ソンタグによると、レニが写真に撮るのは、強く美しく健康な若い男女だけで、老人や病人や子供のような社会的弱者は、レニの写真から排除されており、
その感性は、かってアーリア系の白人を優等な人種、非アーリア系のユダヤ人を劣等な人種であるとみなして、ユダヤ人を排除、抹殺することを考えたナチの優生学的思想に通じるというものです。
スーザン・ソンタグは、もちろんユダヤ人です。
レニは「ヌバの村では老人や病人は家の中に隠れているので、彼らの写真は撮れなかった」と下手な言い訳をしていますが、その気になれば、子供の写真は撮れたはずです。
アフリカの黒人の部落を訪ねたことのある人間はだれでも、村に足を踏み入れた途端、大勢の子供たちに取り囲まれるという体験をしますが、レニはその子供たちの写真を殆ど撮っていないのです!
前回、取り上げた写真家、ミレッラ・リカルディのように女流写真家が好んで撮る、母親と赤ん坊の写真もレニは撮っていません。
レニが撮るのはつねに若くて健康な美しい肉体を持つ男女、特に若くて逞しい男です。
これは『意思の勝利』から『オリンピア』、そして『ヌバ』へと一貫して彼女が追い求めてきた対象で、そこにナチの優生学的思想との関連性を見出したスーザン・ソンタグの指摘はあながち的外れだとは思えません。
もしレニがオリンピックではなく、パラリンピックの記録映画の監督を頼まれていたら、多分、断っていたでしょう。
しかし、様々な批判にもめげず、70歳近くになって自分よりも40歳も年下の孫みたいな青年と結婚し(彼女のことだから、ちゃんとセックスもしていただろうと思えるところが恐ろしい!)、
70歳を過ぎて、ヌバの世界に別れを告げたあとはダイビングの免許を取り、モルディブなど世界各地の海に潜って水中写真を撮り、
2003年に101歳で死ぬ前年、最後の監督作品となった水中映画『ワンダー・アンダー・ウォーター 原色の海』を完成させるなど、生きる意欲、創作意欲は最期まで衰えませんでした。
2000年、98歳のときに26年ぶりにスーダンのヌバ族に会いに行って、帰りに乗ったヘリコプターが墜落したものの、
骨を何本か折っただけで死なずに生き残り、怪我が治るとすぐにモルディブの海に潜りにいったという、うんざりするほど頑強で健康な肉体。
戦後の逆境下で、多数の訴訟を起こし、長い面倒な手続きを経て、自分が監督したすべての作品のフィルムと著作権を取り戻した執念深さというか、意思の強さ。
それらと表裏一体の関係にある唯我独尊的な自尊心、頑固さ、無神経さ、鈍感さは良くも悪くもドイツ人で、個人的にはちっとも好きになれないけど、まぁ、めったに現れないような婆さんであったことは確かです。
by jack4africa
| 2009-03-13 00:17
| アフリカの記憶