2009年 07月 31日
真夜中のダンサー |
監督:メール・チョンロー
出演:アレックス・デル・ロザリオ
カンドン・セルバンテス・ジュニア
ローレンス・ダビッド
この映画は、貧しさゆえにマニラのゲイバーでゴーゴーボーイとして働く3人兄弟を描いた映画です。
映画の舞台になっているのは、映画の撮影時にマニラに実在していたゲイバー、『CLUB 690』です。
このゲイバーはマニラでは老舗で、80年代から90年代初めにかけて、マニラで最大かつ一番人気があった店です。
店があったのはマニラ首都圏、ケソン市、レティロ通り、690番地、店の名前はこの番地からとってます。
私はこの690には随分と通いつめて、いろんな男の子との出会いを経験しているので、映画でこのバーのシーンが出てきたときは懐かしかったです。
撮影はセットではなく、実際の690の店内で行われているようです。
あと主役の3兄弟を演じる俳優以外は、実際の690のゴーゴーボーイが、ゴーゴーボーイの役で出演しているみたいです。
つまりこの映画は本物の売り専ボーイが売り専ボーイの役で出ているという、かなりユニークな映画なのです。
主役の3兄弟はホモではないのですが、家が貧しいので男に身体を売って生活しています。
3兄弟の母親は息子たちが身体を売ることに内心では反対みたいですが、兄弟が稼いでくる金がけっこうな額なので黙認しています。
兄弟には一応、父親もいますが、なにをしているのかよくわかりません。
多分、定職がなくぶらぶらしているのだと思いますが、一丁前に若い女と浮気して、母親と派手な痴話喧嘩を繰り広げたりしています。
あと長男は結婚していて、ヨメとの間に生まれてまもない赤ん坊がいます。
我々日本人からみてよく理解できないのは、長男のヨメも含めて、家族全員が、3兄弟が男相手に身体を売っていることにあまり抵抗がないように見えることです。
3兄弟の稼ぎで一家が新しい家に引っ越してきたとき、父親が、
「俺だって踊りはうまいんだぞ」
とゴーゴーボーイの真似をして、身体をくねくねさせて踊ってみせて、それを見た息子たちや母親やヨメが笑い転げるシーンは、
日本人の俳優(イメージとしては竹中直人)が演じたらブラックユーモアになると思いますが、フィリピン人の俳優が演じると和気藹々の家族団欒シーンになってしまうのです。
長男には結婚前から金持ちの男のパトロンがいて、ヨメはそのことを知っているのですが、別になんとも思ってないようです。
そのパトロンの男が用事があって家を訪ねてきたとき、「あなたがウチの旦那のパトロンね。はじめまして、どうぞヨロシク」とにこやかに挨拶をするのです。
物分りの良いのは長男のヨメだけではありません。
長男のヨメが、三男の恋人のニューハーフから日本に出稼ぎに行くといい金になると聞き、突然、亭主も赤ん坊もほったらかして日本に行きたいと言い出したとき、
長男は反対するかとおもいきや(私だったら絶対、反対しますが)、「行っておいで」と優しく言うのです。
そしてヨメが赤ん坊を義理の母親に預けて日本に向けて出発するとき、彼女を車で空港に送るのは長男のパトロンなのです!
本来なら、葛藤がある筈の人間関係にまったく葛藤がなく、完全にユルフン状態なのです。
私がこの映画の登場人物の中で唯一、感情移入ができたのは、長男のパトロンです。
彼は長男のヨメを空港に送っていったり、なにかと家族の面倒をみて、「いい人」を演じていますが、本当はそれほど物分りは良くないのです。
彼は長男が結婚する前に、愛人として自分の家に同居させていたのですが、束縛しすぎて逃げられてしまい、それでも長男のことが忘れられなくて復縁を迫るのですが、
そのとき復縁の条件として、「このままゴーゴーボーイとして働くことに文句を言わないこと」と、
「自分は今では結婚していて子供もいるので、家庭生活を一番に考えなければならない(つまり、かってのように同棲はできない)こと」を条件に出されて、渋々、それを認めたという経緯があるのです。
彼としては本当は長男を独占したいのですが、それができないので我慢しているのです。
それで長男とヨメが仲良くしているのをちょっと離れたところから、ジトーッとした目つきで見てたりします。
彼がホモ仲間の友人から、「ノンケなんかに惚れるからそういう目に遭うんだよ。もうノンケを相手にするのをやめてホモと付き合いなよ」といわれて、
「いや、それでも彼は僕のことを愛してくれてる」とヘンに自身ありげに反論するところはノンケ好きの私にはよく理解できます。
フィリピン人には日本人と同様、「恩に着る」ところがあって、経済的に面倒をみてくれる相手に対しては、自分もまた誠意を尽くす傾向があるからです。
それだって一種の愛情です。
実際、私の知り合いのフィリピン人のホモは、みんな貧しい階級のノンケのイケメンを恋人にしています。
フィリピンのような貧富の差の激しい階級社会では、対等の恋人関係というのが少なくて、金持ちの男が貧乏な若い男を愛人にするケースが多く、
またそのような関係は社会的にある程度、容認されているというか、なかば常識のようになっています。
3兄弟の家族が、3兄弟が身体を売ることにそれほど抵抗感がないのも、金のある人間が貧しい人間の面倒をみるのは当然、というフィリピン人特有の考え方と関係があるのかもしれません。
映画のストーリーは、次男がゲイバーのマネージャーと喧嘩して店を辞めてしまい、悪い仲間と付き合うようになって、仲間内のトラブルから射殺されてしまい、
長男と三男も別の事件に巻き込まれて警察に追われる身になるという風に展開していきます。
監督はこの映画に社会派ドラマ風の体裁を与えたかったらしく、ラストの母親と別れるシーンで、三男に「結局、この国では僕たちみたいな貧しい人間がいつも犠牲になるんだ」などと、取ってつけたような台詞をを吐かせていますが、
フィリピンがいつまでたっても貧乏国で、国民がいっこうに貧困から抜け出せないのは、あの大雑把でいい加減なフィリピン人特有のユルフン・メンタリティーが原因じゃないかと、私なんかは睨んでますけどね。
ニューヨーク・タイムスはこの映画を、「ヴィスコンティの”若者のすべて”を想起させる傑作!」と持ちあげたそうですが、なにそんなご大層な映画じゃありません。
フィリピン人の大好きなセックスシーンと暴力シーンをふんだんに盛り込んで、社会派ドラマ風に味付けした一般大衆向けの娯楽映画です。
ただセックスシーンが男女のそれでなく、男同士のものだというところが、ユニークといえば、ユニークです。
あとこの映画の特徴として、男同士のベッドシーンが非常に美しく、官能的に撮られていることが挙げられます。
欧米映画では、男女のベッドシーンを官能的に撮っても、男同士のそれは即物的に描く傾向が強いのですが、
この映画を含むアジア映画では、たとえ男同士でもベッドシーンを撮るからには美しく撮るという傾向が見られるような気がします。
いずれにせよ、この映画、若くてセクシーなゴーゴーボーイの裸がこれでもか、これでもかといった具合に大量に出てきて、私としては大いに楽しめました。
Midnight Dancers
by jack4africa
| 2009-07-31 00:57
| 世界の映画&音楽