2009年 09月 11日
河口慧海「チベット旅行記」(2) |
チベットを脱出する決心をした慧海は、脱出ルートとしてあえて公道を選び、ラサから英領インドのダージリンまでまっすぐ南下します。
途中には5つの関所があるのですが、その5つの関所をとっさの機知や機転で次々と突破して行くくだりは小説でも読んでいるような面白さです。
実際、慧海が日本に帰国してからこの旅行記を出版したとき、口述筆記による講談調の語りも相まって、内容があまりに面白いので、ホラを吹いているのではないかと疑われたそうです。
しかし、戦後、日本のヒマラヤ探検隊が慧海が踏破したルートを実際に辿ってみて、チベット各地の自然や風物に関する慧海の記述が非常に正確であることがわかり、「やっぱり本当に行ってたんだ」ということになったそうです。
ところで、ラマ教寺院では僧侶間の同性愛が盛んであるといわれていますが、慧海はその実態についても、この旅行記で触れています。
まず最初にチベットで三番目に大きい寺院であるサッキャア寺に参詣したとき、その寺に住む500人の僧侶を導く大教師に面会し、教えを乞うのですが、
その大教師の傍らに12、3歳の小僧がいて、教師にしきりにふざけて、馴れ馴れしくしている様子を目にします。
最初は、教師の子供かと思うのですが、僧侶は妻帯しないことから、子供がいる筈はありません。
それにしてもこの二人の様子は普通ではない、いったい、どういう関係なのか、と訝しく感じたけれど、あとでラサに行ってセラ寺に住むようになって、その疑問が氷解したと書いています。
慧海によると、チベットの僧侶には、修学僧侶と壮士坊主の2種類があるそうです。
修学僧侶は名前のとおり、寺院付属の大学で学問を学び、やがては博士になるのですが、壮士坊主は、修学僧侶のように学費を払って勉強する金のない僧侶で、修学僧侶に仕えたり、寺の各種の雑用を引き受けているそうです。
また、高僧が地方を旅行するときには護衛を務めるそうで、そのため、日頃から身体を鍛えていて、腕っぷしの強さが自慢の坊主が多かったといいます。
ちょうど、荒法師と呼ばれた比叡山の僧兵みたいなものらしいです。
僧兵といえば、昔、延暦寺の僧兵は、美貌の稚児を巡って、三井寺の僧兵と争ったそうですが、慧海によると、チベットのラマ寺院の僧兵である壮士坊主のケンカも、そのほとんどが可愛らしい小僧の取り合いから起こるそうです。
このような争いが起こった場合、その決着は決闘でつけることになっていたそうで、当事者の2人の坊主が立会人の見守るなか、刀で闘うそうですが、
立会人は適当なところを見計らって、仲に割って入り、2人に酒を飲ましてその場を収めることになっていたといいます。
この壮士坊主の男色の習慣は、寺院内では公然の秘密で、壮士坊主がなにかと役に立つことから、寺院当局もその習慣を黙認していたそうです。
慧海は、決闘や運動でケガをした壮士坊主を随分と治療してやったそうですが、壮士坊主は、身分が低く粗野であるが、義が堅く心に毒はない。
反対に上等の衣服に包まれている高僧のラマ達に心の卑しい陰険な人間が多い、と鋭いことをいってます。
あとチベット人は生まれてから死ぬまで一度も風呂に入らないので、垢だらけで、非常に不潔だとか、チベット人は大便をしても尻を拭かないとか、
チベットには便所というものがないので (糞便は犬が始末するそうです!)、ラサの町にはし尿が溢れていて、あんな汚い町はない、とか随分といいたい放題をいってますが、
それが嫌味に聞こえないのは、慧海が公平無私の人物だからでしょう。
慧海はチベット人を蛮人と呼び、チベットを半未開の土地と呼んでいますが、そんな未開の地に慧海だけでなく、多くの仏教僧が命がけで潜入を試みたのは、人類の宝ともいうべきチベット仏教があったからで、
その人類の宝ともいうべきチベット仏教を破壊してしまった中国共産党の罪は本当に深いと思いますね。
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by jack4africa
| 2009-09-11 00:03

