2010年 07月 13日
ピグミーを愛した男 |
コリン・M・ターンブルは、ピグミー研究で有名な人類学者です。
ロンドン生まれで、オックスフォード大学で哲学・政治学を修めたあと、第二次大戦中は海軍士官として兵役につき、除隊後、インドのバラナシ・ヒンズー大学でインド哲学とインド宗教を2年間、学びます。
その後、オックスフォード大学に復学して本格的に人類学を学び、アフリカを研究対象に選び、ベルギー領コンゴ(現コンゴ民主共和国)のイツリの森でピグミー研究のフィールドワークを行います。
1961年に彼のピグミー研究の成果である処女作、The Forest People(邦訳『森の猟人ピグミー』筑摩書房=絶版)を出版しますが、この本は世界的なベストセラーとなり、コリン・ターンブルの名を一躍、有名にすると同時に、
それまでジャングル奥地に住む未開のコビト人種としてしか認識されていなかったピグミーが、いかに才能に恵まれた(特に音楽分野で)魅力ある人々であるかを世界に知らしめることになります。
コリン・ターンブルのアフリカでの研究対象はピグミーだけではなく、ウガンダの高地に住む狩猟民イク族の村にも滞在してフィールドワークを行っています。
このときの体験記が1972年に出版されたThe Mountain People(邦訳『ブリンジ・ヌガグ』筑摩書房=絶版)ですが、村を襲った飢餓によって、
村のコミュ二ティーが崩壊していく様を淡々とした筆致で冷静に描いた(ターンブルは大変な名文家です)この本は大きな反響を呼び、賛否両論を巻き起こしました。
演劇界の鬼才ピーター・ブルックが、この本をもとに『イク族』(The Iku)という戯曲を書き、世界各地で上演して好評を博する一方で、
ターンブルが飢餓に苦しむ村人を助けようとせず、彼らが苦しむ様を「冷静に観察した」ことにたいして批判の声があがったのです。
これは人類学者がその研究対象にどのように向かい合うべきかという、容易に答えが出ない難しい問題に関係する議論なのですが、
ターンブル自身は、アフリカで接触した人々にたいし、常に理解のある、あたたかい見方をしていたと言われています。
そのことをよく示しているのが1962年に出版されたThe Lonely African(邦訳『ローンリーアフリカン』白日社=絶版)です。
この本には、三度にわたるコンゴのイツリの森でのフィールドワークを通して知り合ったイツリの森周辺に住むバンツー族の黒人が、
伝統的な部族的価値観と、新しく彼らの生活に侵入してきた西欧的価値観の間で引き裂かれ、苦しむ様子が生々しく描かれています。
欧米人の学者によって書かれた非欧米地域の文化や人々を紹介する本を読むと、著者がその研究対象とする地域やそこに住む人々に愛着を示す一方で、
自分が属する西欧文化の優越を自明の理としているところが随所にうかがえて、鼻白むおもいをすることが多いのですが、
この『ローンリー・アフリカン』では、ターンブルは完全にアフリカの黒人の視点に立って、白人の行政官や宣教師が、いかに無神経なやり方で土着の黒人文化を破壊したかを抑えた筆致ながら厳しく告発しています。
ターンブルが、アフリカの黒人の心情をこれほど深く理解できたのは、彼がホモセクシュアルであったことと無関係ではないと思います。
ターンブルは、自分が同性愛者であることを隠さずにオープンにしていたそうですが、著作では自分の性的嗜好については一切、触れていません。
それでも『ローンリー・アフリカン』に書かれている、ベルギー人行政官の愛人になった黒人の美少年の話や、
ケニアの首都ナイロビの公園などで白人旅行者相手に身体を売る黒人の若者の話を読んで、彼が同性愛者であることはピンときました。
ターンブルの死後、出版された彼の伝記、In the Arms of Africa by Roy Richard Grinkerによると、ターンブルは、イツリの森でピグミーと一緒に生活しているときに、ピグミーの若い男と性的関係を持ったことがあるそうです。
私がピグミーと暮らした経験からいうと(「ピグミー」を参照)、ピグミーには独特の強烈な体臭があって、とてもじゃないけど、セックスなんかする気にはなれなかったのですが、
ターンブルが愛し、研究助手に雇っていたケンゲという名前のピグミーの若者は、ターンブルがピグミー研究の基地にしていた街道沿いのエプルーという村で、西洋人が経営するホテルで下働きをしていたことのある、
文明化されたピグミーで、村のホテルでシャワーを浴びるときや、森の中の小川で水浴びするときは必ず、石鹸で身体を洗う習慣を持っていたのだそうです。
まぁ、そうじゃないと無理だろうなと思います。
私は森の中でピグミーと一緒に生活していたときは、テントを張って、折り畳み式のベッドで寝袋にくるまって寝ていましたが、
ターンブルは、森の中でピグミーと生活していたときは、他のピグミーと同様、木の枝を組み合わせて作った骨組みを木の葉で葺いたゴリラの巣に毛が生えたような小屋に住み、夜は小屋の中でケンゲと抱き合って寝ていたそうです。
抱き合って寝るのは、必ずしも性的な関係を意味するものではなく、赤道直下にもかかわらず、ジャングルの夜は寒いので、暖を取るために、ピグミーたちは夜、抱き合って寝る習慣があるのです。
しかし、若い男が抱き合って寝ていれば、特にホモ趣味がなくとも、成り行きで性的関係を持ってしまうことはよくあることです。
ましてやターンブルは、男好きだったわけですから、ケンゲとそういう関係を持っていたとしても不思議ではなでしょう。
ターンブルは、スコットランド系の大柄なイギリス人でしたが、ピグミーのような小柄な人種を好み、ピグミーのあと研究対象にしたウガンダのイク族も、やはり小柄な部族でした。
そして、彼が長年にわたって人生を共にしたパートナーであるアメリカの黒人、ジョセフ・タウルズ(1937-1988)、通称ジョーも、身長170センチそこそこのアメリカの黒人としては小柄な男性でした。
前記のターンブルの伝記は、このジョーとの30年に及ぶ事実上の「結婚生活」の実態について、赤裸々に語っています。
コリン・M・ターンブルとジョセフ・タウルズの関係は、ハッピーエンドにはなりませんでしたが、「マイ・フェア・レディ」のヒギンズ教授と花売り娘、イライザのゲイバージョンでした。
ターンブルは、アフリカでのピグミーの研究を終えたあと、NYのアメリカ自然史博物館のアフリカ民族学担当のキュレーターの職を得て、1959年にNYに移り住みます。
そしてNYのゲイバーで、アメリカ南部出身の俳優志願の貧しい黒人の若者、ジョーと出会うのです。
二人は出会ってすぐに恋に落ち、NYのターンブルのアパートで同棲するようになります。
そしてターンブルは、ジョーのためにアメリカ自然史博物館のボランティアの仕事をみつけます。
当時はアメリカではまだ同性愛が社会的に認知されておらず、ターンブルの同僚の人類学者が館長に宛てて、
「ターンブルとジョセフ・タウルズのようなホモ・カップルを博物館で雇用すべきではない」
という告発の手紙を出したそうですが、逆にその手紙を書いた本人が博物館をクビになったそうです。
1961年にターンブルが出版した「森の猟人、ピグミー」が世界的なベストセラーになってターンブルの名声が高まり、ターンブルが働いていることは博物館にとって名誉なことになっていたのです。
ターンブルは、ジョーを自分と同様、一流の文化人類学者に育てるという野心を持ち、学費を出してジョーを大学に入れて、人類学の勉強をさせます。
しかし、ジョーはなんとか大学院を卒業し、博士号を取って、人類学者の卵にはなったものの、学者としては大した業績を挙げることはできませんでした。
ターンブルは、アメリカ自然史博物館で働いた後、アメリカのいくつかの大学で教えるようになりますが、彼は、大学教師としても有能で、彼の講義は大変人気があり、多くの学生が集まったといいます。
そのため、ターンブルの元には、全米の大学から教授に迎えたいというオファーが舞い込んだそうですが、彼は必ず自分と一緒にジョーを助教授として雇うという条件を出し、その条件が満たされない限り、オファーを受けなかったそうです。
大学の多くは、ターンブルという名物教授を手に入れるためなら、助教授の1人くらい雇ってもかまわないという考えだったので、ジョーは簡単に助教授の職を得ることができました。
しかし、彼の助教授としての評判はよくありませんでした。学生の間では、彼は、教え方が下手くそで、ヒステリックで、すぐにかんしゃくを爆発させるといわれ、嫌われていました。
ジョーはもともと、キャリア志向はなく、料理が得意な家庭的なタイプで、専業主夫として家庭にいるのが似合っていたのです。
しかし、ターンブルはジョーが家庭に入ることを許さず、あくまでも人類学者として成功することを望みました。
当時、アメリカの黒人差別はまだ厳しく、ターンブルは、黒人であっても努力すれば優秀な学者になれることをジョーを使って証明したかったのです。
しかし、このターンブルの期待はジョーにとって重荷になり、彼は徐々に、子供が父親に反抗するように、ターンブルに反抗するようになります。
1960年代の後半に、2人は、バージニア州のジョーの故郷の町に豪邸を建てて移り住みますが、
2人が住む豪邸には、夜ごと、ジョーの幼馴染の黒人の若者たちが訪れるようになり、ジョーは彼らと遊び歩いて、セックスとドラッグに溺れるようになります。
さらにジョーは精神的にもおかしくなり、ターンブルに向かって暴力を振るうようになります。
ジョーが斧を手にして「殺してやる」と叫びながら、屋敷中、ターンブルを追い回したときには、さすがのターンブルも生命の危険を感じ、心配した友人たちの忠告を受け入れてジョーと別居することに決めます。
しかし、1982年にジョーはHIVに感染していることが判明し、エイズを発症します。
ジョーがエイズを発症したとき、彼と性関係をもっていたターンブルは、当然のことながら、自分も感染しているのではないかと疑い、HIV検査を受けます。
検査の結果が陽性であると判明したとき、彼はむしろ喜んだといいます。愛するジョーと同じ病気にかかって嬉しかったというのです。
ターンブルは大学を辞めて、ジョーを献身的に看病しますが、1988年にジョーが亡くなると、自分とジョーの合同の葬式をあげて共同の墓を作り、全財産をアメリカの黒人支援団体に寄付して出家します。
そして1994年に自身もまたエイズで死亡するまで、ダライラマの長兄に師事するチベット仏教僧、Lobsong Ridgolとして余生を送るのです。
コリン・ターンブルとジョー、1972年、コンゴ、イツリの森
ターンブルとピグミー
チベット僧になった晩年のターンブル
本日のお知らせ:
「北欧の個人主義と「釜ヶ崎の語源」を一部、加筆修正しました。
by jack4africa
| 2010-07-13 07:26
| アフリカの記憶