2010年 07月 20日
井口村事件 |
明治維新の原動力となった薩摩藩の武士の間で男色が盛んだったことは、すでに「少年愛の美学(2)」や「両性具有の美(1)」などのエントリーで取り上げていますが、
薩長同盟の締結に大きな功績のあった坂本龍馬を輩出した土佐藩も薩摩藩に負けず劣らず男色が盛んな土地柄だったようです。
氏家幹人著「武士道とエロス」によると、土佐藩では、武士の若者が美少年を見つけると、集団でその少年の家まで押しかけていって、嫌がるのを無理やり強姦する習慣があったそうです。
その間、少年の家族は黙って、少年が隣室で犯されるままにしていたといいます。
武士の少年にとって、衆道と呼ばれた男色を経験することは、一種の通過儀礼とみなされていて、少々、痛くても我慢しなければならないこととされていたというのです。
この土佐藩の武士には上士と郷士(下士)の二種類があり、ことあるごとに対立していました。
上士は、関が原の戦いの功績により土佐国を与えられた初代土佐藩主、山内一豊が旧領地の掛川から連れてきた山内家の家臣で、郷士は旧領主、長宗我部氏の家臣だった土着の武士です。
土佐藩では、上級から中級の武士の身分はすべて上士により占められ、郷士は下級武士として藩主に仕えるだけで、出世の道は閉ざされていました。
このような差別的な取り扱いの結果、上士と郷士は対立するようになるのですが、文久元年(1861年)に上士と郷士の間で井口村事件という刃傷事件が起こり、その対立は一層、深まります。
文久元年3月4日の夜、上士の山田広衛と益永繁斎が節句祝いの宴会の帰りに永福寺という寺の門前で郷士の中平忠次郎と宇賀喜久馬の二人連れとすれ違ったとき、山田と中平の肩がぶつかり、口論に発展します。
口論の末、逆上した山田は抜刀し、中平も応戦する形で抜刀しますが、山田は鬼山田と恐れられるほどの剣道の達人で、忠次郎は山田に切り殺されてしまいます。
忠次郎に同行していた宇賀喜久馬は、忠次郎の兄、池田寅之進に急を知らせ、寅之進は喜久馬を伴って現場へ駆けつけます。
そして、近くの小川で喉の乾きを潤している山田を発見し、背後から袈裟懸けに斬って殺害し、近くから提灯を借用して現場に戻ってきた繁斎も殺害します。
翌朝には事件は人々の知るところとなり、山田の家には上士たちが、池田寅之進の家には郷士たちが集まります。
一部の上士たちは、池田の家に乗り込んでいって、当事者である池田寅之進と宇賀喜久馬の身柄の引渡しを要求しますが、郷士のリーダーである坂本龍馬はこの要求を拒否します。
押し問答が続く中、寅之進が突発的に刀を腹に突き刺し割腹します。皆に迷惑が掛かることを恐れた上での切腹でした。
これを見た上士側は「宇賀喜久馬も切腹させよ」と要求。龍馬は喜久馬はまだ歳若く、事件には一切関わっていないと庇いますが、結局、上士側の要求を受け入れて、喜久馬も切腹することになります。
これが事件のあらましですが、実は鬼山田に切り殺された中平忠次郎と宇賀喜久馬は衆道関係にあったのです。
小説家、安岡章太郎の祖先は土佐藩の郷士で、宇賀喜久馬とは遠縁にあたります。
幕末維新の時代の波に翻弄された一族の人間模様を書いた歴史小説、「流離譚」で、安岡は、忠次郎と喜久馬が男色関係にあったことを知って、忠次郎が鬼山田に向かって刀を抜いた理由が一層、理解できるような気がした、と書いています。
「おそらく山田は、中平が稚児さんを連れているのを見て、口汚くそれをからかったのではないか。当時、男色はべつに禁じられてはいなかったものの、それはやはり男の羞恥心に触れられる事柄であったわけだ」
と安岡は推測していますが、この推測には男色を恥ずかしいものだとみなす現代人である安岡の主観がかなり入っているような気がします。
冒頭に記したエピソードからも分かるように、当時の土佐藩では、男色は「べつに禁じられていなかった」どころか、むしろ奨励されていて、
山田が稚児を連れた中平をからかった可能性はあるものの、それは現代の男が女連れの男をからかうのとなんら変わりはなく、またからかわれた中平が羞恥心を感じたとしても、
それは現代の男が女連れであることをからかわれたときに感じる羞恥心を超えるものではなかったと思います。
中平忠次郎と宇賀喜久馬の男色関係が当時はタブーでもなんでもなかったことは、明治時代にこの事件を取り上げた土佐出身の小説家、坂崎紫瀾(さかざき・しらん)の小説、「汗血千里駒」が全国的なベストセラーになり、
芝居にもなって美少年、宇賀喜久馬の悲運が子女の紅涙を絞ったという事実からも明らかでしょう。
腐女子に限らず、日本人は、昔からこの手の話が好きなのです!
もうひとつ、二人の関係がタブーでもなんでもなかったことを窺わせるのは、宇賀喜久馬の一族の間で、現在まで、喜久馬が「宇賀のとんと」と呼ばれているという事実です。
「とんと」とは土佐弁でお稚児さんのことで、外部の人間ではなく、身内の人間が喜久馬を「とんと」と呼んで抵抗がないということは、喜久馬と忠次郎の関係が一族公認の関係であった証拠でしょう。
喜久馬が切腹するとき、一族の人間は、
「腹を切っても痛いというて泣いちゃいかん、見ともないきに泣かれんぜよ。泣いたらとんとじゃというて、また、てがわれるきに(からかわれるから)」
と言い聞かせたそうです。
「腹を切ることも教えて可愛がり」という川柳を思い起こさせる話ですが、冒頭のエピソードに出てくる少年に対しても、家族は、
「(強姦されても)痛いというて泣いちゃいかん、見ともないきに泣かれんぜよ。泣いたら、てがわれるきに」
と言い聞かせたのではないでしょうか。
喜久馬が切腹を迫られたのも、喜久馬が単なる忠次郎の友人ではなく、稚児であったという事実が影響しているように思われます。
武士の間の男色が衆道と呼ばれて公認されていたということは、衆道=男色もまた武士としての生き方、つまり、武士道に組み込まれていたということで、
武士道=衆道の美学に則って、弟分の喜久馬は兄分の忠次郎のあとを追って殉死すべきであるという暗黙の了解が周囲に存在したのではないでしょうか。
切腹した喜久馬を介錯したのは、喜久馬の兄、利正で、伝承ではそのとき喜久馬13歳、利正16歳ということになっていますが、実際には喜久馬は19歳、利正は25歳だったそうです。
なぜ、実際の年齢よりも若く伝えられたかというと、小説家、坂崎紫瀾が喜久馬の切腹の悲劇性を高めるために年齢を若く設定したからだそうです。
それでも、たとえ25歳であっても実の弟の首を切るのは相当、辛いことであったようで、その後、利正は頭がおかしくなったといいます。
この利正の息子が夏目漱石の高弟で、物理学者、随筆家として知られた寺田寅彦で、彼は叔父の喜久馬については、随筆でちらっと触れているだけで、
それがかえって一族が喜久馬の死によって受けた衝撃の大きさを物語っていると安岡章太郎はいいます。
井口村事件の半年後、土佐藩の郷士たちは、幕府方であった土佐藩主の意向に背いて坂本龍馬をリーダーとする土佐勤皇党を結成するのですが、
そのきっかけになったのは、井口村事件のときに見せた郷士たちの結束だったといわれています。
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本日のつぶやき
「国益に資する形で、自分自身の身の振り方を考えていきたい」by ルーピー
本当に国益を考えるなら、当然、政界を引退して、二度と政治に関わるべきじゃないでしょう。
by jack4africa
| 2010-07-20 00:04

