2010年 09月 07日
ジェンダーフリーとはなんぞや |
先日、「バックラッシュ なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?」という本を読みました。
日本の女性運動は、2000年に男女平等を推し進めることを目指した男女共同参画社会基本法なる法律が施行されたことで一応の目標を達したといわれています。
この男女共同参画社会基本法の成立を機に教育現場では、社会的性別(ジェンダー)に対する一般通念にとらわれず、
人それぞれの個性や資質に基づいて、自分の生き方を自己決定出来るようにするという理念を掲げたジェンダーフリー教育が導入されるのですが、
ジェンダーフリーの名の下に男女の性差を完全に否定した教育や、過激な性教育が行われているという批判が保守派から沸き起こって、
ジェンダーフリー教育を提唱してきたフェミニストたちが、バックラッシュと呼ぶ攻撃に晒されるようになり、
ついには、男女共同参画局より地方公共団体に対してジェンダーやジェンダーフリーという言葉を使用しないようにという通達が出される事態になったそうです。
この本では、フェミニスト業界で名前が知られているらしい10数人の執筆者が、現在、フェミニズムが置かれている状況を分析し、今後、運動をどのように進めていくべきかを様々な観点から考察しています。
その中で、私が面白いと思ったのは、山口智美というフェミニストが書いている「ジェンダーフリー再考」という文章で、彼女によると、
「ジェンダーフリー」という言葉は、アメリカから日本に輸入される過程で、誤まった意味づけと解釈がなされ、その間違った解釈を訂正しないまま、言葉だけが一人歩きをして現在に至っているのだそうです。
日本で初めてジェンダーフリーという言葉が登場したのは、若い教師や教員を目指す学生を対象にした東京女性財団ハンドブック「Gender Free:若い世代の教師のために」(1995)というタイトルの本の中だそうです。
このハンドブックの執筆者の一人である女性心理学者が表面的な男女平等の下に隠れている男女差別の意識をなくすことを目的とした「ジェンダーフリー教育」を唱えたといいます。
彼女はこのジェンダーフリーという言葉をアメリカの教育学者のバーバラ・ヒューストンの「公教育はジェンダー・フリーであるべきか?」という論文からとったそうですが、
山口智美によるとバーバラ・ヒューストンはその論文の中でジェンダーフリーという言葉を否定的な意味で使っていたというのです。
フリーという英語は、「自由」を意味するのではなく、チャイナフリーのように「・・・がない」という意味に解釈され、ジェンダーフリーは「性別がない」という意味になります。
つまり、ジェンダーフリーという教育は男女の性差を無視した教育ということになり、そのような教育が実践されたら、女の子には不利になってしまうので、
男女の性差を無視するのではなく、性差に配慮した(ジェンダー・センシティブな)教育をするべきだというのがバーバラ・ヒューストンの主張だったというのです。
男女の垣根を完全に取り払ったら女性が不利になるというバーバラ・ヒューストンの主張は、スポーツ競技にあてはめて考えるとよく理解できるような気がします。
例えば、水泳競技や陸上競技のような記録を競う競技を男女混合でやってみたらどうなるか。
上位は男子選手が独占して、女子選手の出る幕はなくなってしまうでしょう。
柔道やレスリングのような格闘競技も同様で、女子選手は逆立ちしても男子選手に敵わないだろうし、結局、女性がメダルを取れる競技はシンクロナイズドスイミングや新体操のような女性専用の競技に限定されてしまいます。
この「バックラッシュ」という本の中で、あるフェミニストは男女の性差よりも個人差の方が大きいと主張していますが、
水泳や陸上競技で同時代の男子の世界記録を超える世界記録を出した女子選手が一人もいないという事実は、男女の性差が厳然と存在することを示していると思います。
ジェンダーフリーという言葉を最初に日本に紹介した人間がその意味を誤まって使いはじめたお陰で、
現在、日本では、ジェンダーフリーという言葉を、それを擁護する側も、批判する側も、その本当の意味を理解しないまま使っているという滑稽な状況になっているそうですが、
このような混乱が生じた一番の原因は、ジェンダーフリーという英語の単語を日本語に翻訳せずに、英語の発音をカタカナに置き換えただけのカタカナ言葉として使っていることにあると思います。
例えば、男女共同参画という言葉は美しい日本語ではありませんが、漢字で書かれていることから少なくともその意味は理解できます。
一方、ジェンダーフリーというカタカナ言葉は、私も含めて大多数の日本人には何を意味するのかさっぱり理解できないでしょう。
かって日本が明治になって開国したとき、日本には西洋の科学や思想がいっせいに流入してきたのですが、日本人はそのような西洋の科学や思想に関連した外国語の言葉をすべて日本語に翻訳しました。
「中華人民共和国」の「中華」を除いた「人民」も「共和国」も明治以降に日本人が作った漢字の造語であることはよく知られていますが、日本人が翻訳の労をとったお陰で、
これら漢字の造語は漢字文化圏全体で共有され、この地域の人々が西洋の科学や思想を学ぶことに貢献したのです。
ところが、最近の日本では、学者たちは、外国の知識を日本に輸入するにあたって、関連用語を日本語に翻訳せず、英語の単語をそのままカタカナに置き換えて使うという、安易なやり方に頼るようになっていて、
その結果、日本の社会にジェンダーフリーのようなよく判らない曖昧なカタカナ言葉が氾濫し、それが日本語の乱れを引き起こし、同じ日本人同士で、言葉が通じないという事態になっているのです。
この「バックラッシュ」という本では、フェミニストの上野千鶴子がインタビューに答えていますが、
本来ならば、彼女のような著名なフェミニストが音頭をとって、率先してフェミ関連のカタカナ語を判りやすい日本語に翻訳して、その翻訳語の普及に尽力すべきだと思うのですが、
実際には、このオバハンは、フェミニストの先頭に立ってわけの判らないカタカナ言葉を使いまくってるんですよね。
例えば、インタビューで彼女は、ミソジニーとかミソジナスとかいったカタカナ言葉を使っていますが、どうして「女性蔑視」ではいけないのでしょうか。
「女性蔑視」であれば、その漢字を見ただけで「女性を軽蔑あるいは侮蔑して視る」ことと意味が判るのに、ミソジニーなんていわれても、一般庶民には何のことか判りませんヨ。
こういう外来語のカタカナ言葉ばかり使い続けたら、モンゴロイド丸出しの半島顔が少しでも白人ぽくなるとでも期待しているのか、
それとも「あたしはインテリの大学教授で、あんたら無知な大衆の知らないミソジナスなんてムツカシイ言葉を知ってるんだぞ!」と自慢したいのか、
そのへんの理由はよく判りませんが、こういう仲間内でしか通用しない符牒みたいなカタカナ言葉を使って高尚な(?)議論に耽っている学者フェミニストがいる一方で、
ジェンダーフリー教育を実践すべき教育現場では、
「…生徒はもちろん、教員の多くも「ジェンダー」自体、何のことだか理解していない・・・まして、認知度の低い「ジェンダー」に、使われ方しだいでさまざまな意味を持つ「フリー」という英語がくっついた「ジェンダーフリー」という用語を理解しろというのは無理な注文である」という状況にあったというのです。
(男女混合名簿を推進している高校の女教師の言葉)
その結果、どうなったかというと、教員一人ひとりが「ジェンダーフリー」を自分流に解釈して、自分が正しいと思う「ジェンダーフリー教育」を実践したということらしいですが、
実際に行われたのは「男女混合着替え」や「男女混合騎馬合戦」、「男女混合名簿」に基づいた「男女混合身体検査」など、男女の性差を完全に無視する教育で、
その意味では、バーバラ・ヒューストンが反対した本来の意味での「ジェンダーフリー教育」が行われたことになりますが、性差別ではなく、性差それ自体を撤廃することを目指すこのような教育が保守派の反発を招いたのは当然のことでしょう。
そのほかにも「ジェンダーフリー教育」に熱心な教師は、性同一性障害の人間を連れてきて、生徒に会わせたりしたそうです。
これは男(女)に生まれたからといって、男(女)らしく生きる必要はないというメッセージを生徒に伝えるのが目的だと思いますが、そこまでして男(女)らしさを否定しなければならない理由がわかりません。
過激な性教育については、なぜそれがジェンダーフリーに結びつくのかよく判りませんが、私が見たYOUTUBEの動画では、男の教師が服の上からですが、自分の股間におもちゃのペニスを押し当てて、
それをぶらんぶらん揺らしながら、女子生徒に近づいていって、それを見た女子生徒がキャーキャーいって逃げまどうという趣味の悪いセクハラゲームのようなことをやっていました。
あとこれは教育現場とは直接、関係ありませんが、2005年に関西のある私立大学で非常勤講師をやっている男に率いられた女性グループが、
奈良県の修験道の聖地である女人禁制の大峰山に地元住民の反対を押し切って登山するという事件がありました。
このグループが大峰山を守る地元の人間に出した「質問書」なるものをみたことがありますが、これが実に下劣な内容で、よくもまあ、こんなアホな質問を考えたものだと呆れました。
その内容があまりに酷いので、ここに転載する気には到底、ならないのですが、興味のある人はこのへんを見てください。
この愚行もまたジェンダーフリーの名の下に行われたわけで、この非常識な行動がジェンダーフリーを叫ぶ人間にロクな人間はいないという印象を世間に与えるのに大きく貢献したことは間違いないと思います。
フェミニストは、一口にフェミニストといっても様々で、一枚岩ではなく、過激な行動を取る人間は全体の一部でしかなく、
そのような一部の過激派の行動だけをみてフェミニスト全体を判断してもらいたくないというかもしれませんが、
たとえ少数であっても、このような過激な行動は、世間の注目を浴びますし、こういう非常識な行動を取った人間がほかのフェミニストたちから厳しく批判されたという話も聞きません。
ジェンダーフリーを批判する保守派は、そのへんのフェミ陣営のワキの甘さをうまく突いて、フェミ=過激派というイメージを振りまいて、フェミ陣営との情報戦に勝利したのではないでしょうか。
現在、地方自治体などでジェンダーやジェンダーフリーという言葉を使わなくなってきていることについて、この本に寄稿しているフェミニストたちは保守派の陰謀だと非難していますが、
こういう曖昧なカタカナ言葉が教育現場で混乱を招いたことは事実で、二度と同じような混乱を招かないためにも、
今後、学者や行政は安易にカタカナ言葉を使うのをやめて、それに代わる判りやすい日本語を使うように心がけるべきでしょう。
まずジェンダーですが、この言葉は「性」あるいは「性別」という日本語に置き換えるべきだと思いますネ。
実際、私は、この「バックラッシュ」という本を読んだとき、ジェンダーという言葉が出てくるたびに、頭の中で「性」とか「性別」に置き換えて読んでいましたが、その方が文章の意味がずっとよく理解できました。
フェミニストがジェンダーという言葉にこだわるのは、男らしさ、女らしさというものは、先天的なものではなく、社会的、文化的環境によって構築されるというフェミニズムの理論に従って、
セックスを生物学的性、ジェンダーを社会的・文化的性と定義付けして区別しているせいだと思いますが、実際にはジェンダーという言葉には生物学的な性という意味も含まれているのだそうです。
セックスという言葉は性行為を連想させることから、同じ意味でも、より穏やかな言葉であるジェンダーを使うことがあるそうで、
そういえば、以前、どこかの国に入国したときに、入国カードの性別欄にSexではなくGenderと記載されていたことを思い出します。
それにもかかわらず、ジェンダーという言葉を社会的・文化的性という狭い定義に限定して使うことはまた新しい誤解を生み出すことにつながりかねませんし、
どうしてもフェミ的な意味づけをしたいのであれば、「文化的性」あるいは「社会的性」と書けばいいだけの話です。
そもそも性というものは、「生物学的性」と「社会的・文化的性」に明確に区分できるものなのでしょうか。
最近、脳科学の発達によって、男女の性差を決定するのは、後天的な環境ではなく、先天的な要因であるという説が唱えられるようになってきています。
現時点では、先天的な要因と後天的な環境の両方が男女の性差を形成するということになっているそうですが、ボーヴォワールのオバハンが「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」といっていた頃に較べると、
男らしさ、女らしさは後天的な社会的・文化的環境で形成されるというフェミニズムの理論が劣勢に立たされていることは明らかで、
今後、さらに脳科学が発達して、男女の性差は先天的な要因によるものであることが決定的になった場合、社会的・文化的性という意味合いのジェンダーという言葉は不要になってしまうのです。
いずれにせよ、フェミニストがカタカナ言葉を多用することを止めない限り、ゲイリブの運動と同様、その運動が一般の日本人に広く理解されることはないだろうし、
そういう意味では、ジェンダーだけでなく、フェミニストやフェミニズムという言葉も判りやすい日本語に翻訳すべきだと思いますネ。
あとバックラッシュという言葉も、ただの「反動」でいいんじゃないでしょうか。
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by jack4africa
| 2010-09-07 00:01