2010年 11月 16日
デレク・フリーマン「マーガレット・ミードとサモア」(1) |
本書は、1983年に出版されるやいなやアメリカ合衆国で「地震のような衝撃」を引き起こしたという「問題の書」です。
なぜそのような騒ぎになったかというと、本書の著者で、40年にわたってサモア諸島の住民を研究対象としてきた人類学者であるデレク・フリーマンが、
アメリカの人類学の大御所であったマーガレット・ミードの古典的名著、「サモアの思春期」がずさんな調査にもとづいた、実態とはかけ離れた嘘八百の物語であることを豊富な反証を挙げて暴いてしまったからです。
マーガレット・ミードがアメリカ領サモアに赴いたのは1925年のことでした。
彼女は、そのときまだ23歳の大学院生でしたが、恩師であるコロンビア大学の教授、フランツ・ボワズの指示を受けて、思春期特有の行動がどの程度生得的に規定され、どの程度文化的に規定されているかを、
西ポリネシアのサモア島民について調べるために単身、サモアに渡ったのです。
この頃、アメリカでは、人間の性格や知能は遺伝的に形成されるという「生物学的決定論」を主張する生物学者と環境によって形成されるという「文化決定論」を主張する文化人類学者の間で激しい論争が起こっていました。
この「氏」(nature)か「育ち」(nurture)かの論争の一方の旗頭がマーガレット・ミードの恩師であるフランツ・ボワズだったのです。
彼がミードにサモア島民の思春期の行動を調査するように命じた背景には、当時、アメリカではしばしば犯罪や自殺につながる思春期の若者に特有の情緒不安定や反抗的な態度が問題になっていたことがあります。
熱心な文化決定論者であるボアズがミードに期待したのは、ミードがサモアの思春期の少年少女の行動を調査することで、
このような思春期特有の問題は、生理学的なものではなく、文化的、環境的なものであることを証明することでした。
そして、ミードはその期待に答えて、「サモアには思春期の問題は存在しない」という調査結果を携えてアメリカに帰国したのです。
サモアから帰国したミードは「サモアの思春期」という本を出版するのですが、この本でミードは、サモア社会を人間関係の緊張が存在しない、争いのない、気楽でストレスのない社会であると説明し、
サモアの若者は性的に自由で、不特定多数の相手と婚前セックスを楽しんでおり、アメリカの若者が経験するような思春期の苦悩と困難はサモアの若者には無縁であると主張したのです。
もしこれが本当であれば、思春期の苦悩とストレスは人類全体に共通する普遍的な現象ではなく、個別の文化や社会環境によって生み出されることになるわけで、
ミードの恩師であるボアズをはじめとする文化決定論者は、このミードの調査結果を自説の正しさを証明する具体的事例であるとみなし、熱狂的に歓迎したのです。
さらにミードの「サモアの思春期」のサモア人のフリーセックスに関する描写は、性的に抑圧された当時のアメリカ人の「南海の楽園」に対する憧憬をかきたてました。
その結果、この本はアメリカで一躍ベストセラーになり、ミードは若くして人類学者としての名声を確立することになったのです。
ミードのこの「サモアの楽園」はまた、当時、アメリカで勃興しつつあったウーマンリブの運動にも大きな影響を与えました。
ウーマンリブの活動家は、よく知られているように、男女の性差は生まれつきではなく、後天的に学習によって獲得されるという「文化決定論」の熱心な支持者です。
ミードの「サモアの思春期」は、人間の性格は生物学的にではなく、文化的・社会的環境によって形成されるというこのウーマンリブの主張と完全に合致し、
その結果、この「サモアの思春期」はウーマンリブ活動家の間でバイブル視され、ミード自身もウーマンリブの旗手となったのです。
このミードの作り出したサモアの神話を完膚なきまでに叩きのめしたのが、このデレク・フリーマンの「マーガレット・ミードとサモア」でした。
この本の中で、デレク・フリーマンは、サモア諸島はミードが描いたような性の楽園ではなく、
サモア人は、性に対して寛容であることで知られている東ポリネシアのタヒチ人とは対照的に、性に関しては非常に保守的で、処女性が尊ばれると主張しています。
この処女性の尊重は、結婚式のときに、花婿が裸で立つ花嫁の処女膜を2本の指を用いて破り、血の付いた指を結婚式の参列者に見せて、
花嫁が処女であったことを示す処女喪失の儀礼が行われることでも明らかであるとフリーマンは述べています。
もし万一、花嫁が出血せず、処女でなかったことが判明した場合、花婿はただちに彼女との結婚を拒否し、
花嫁は家族の名誉を汚したとして、棍棒を持った父親や兄弟に襲われ、酷い場合には殴り殺されるといいます。
またフリーマンによると、サモアでのレイプ事件の発生率はアメリカの2倍に上るそうです。
サモアでは、若い男が自分の好きな娘の家に夜這いをかけて、寝ている彼女の性器に指を突っ込み、処女膜を破ってしまう習慣があるのだそうです。
前述したように、サモアでは処女性が非常に尊重されることから、処女膜を破られた娘はほかの男と結婚できなくなり、自分の処女膜を破った男の言いなりにならざるを得なくなるといいます。
その結果、サモアではデキちゃった婚ではなく、破られちゃった婚が多くなるそうですが、これは性の自由とは対極にある現象でしょう。
そのほかにも、フリーマンはサモア人はミードが「サモアの思春期」で描いたような穏やかで、温和で、優雅で、屈託なく、楽しく、そして幸福な人々などではなく、
非常に嫉妬深く、攻撃的で、闘争心が強く、部族間、氏族間、家族間での争いが絶えず、
子供は親に対して完全な服従を強いられ、少しでも反抗的な態度を見せると、厳しい体罰に処せられ、体罰が原因で死ぬ子供も多いと書いています。
またミードの書いたようにサモアには思春期の問題が存在しないどころか、サモアの思春期の若者の犯罪率はアメリカやイギリスと変わらず、
さらにサモアの十代の青少年には、「ムス」と呼ばれるサモア人に特有の心理状態が頻繁に見られると書いています。
ムスというのは字義どおりには不機嫌という意味だそうですが、親や目上の人間に激しく折檻されて自分の感情を押さえつけることを強制されてきた少年や少女の反抗心の現れで、
ムスになってしまうと、仕事をまったくしなくなり、人の指示に従わなくなり、むっつりした悲しげな表情で歩き回り、最悪の場合には、自殺に至るそうです。
要約すると、ミードが「サモアの思春期」に書いたことは一から百まで嘘だったというのです。
なぜ、ミードはそんな嘘八百を書いたのでしょうか?
なぜ、その嘘がフリーマンが本書を著すまで60年近くも疑われずにまかり通っていたのでしょうか?
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by jack4africa
| 2010-11-16 00:00