2010年 11月 19日
デレク・フリーマン「マーガレット・ミードとサモア」(2) |
マーガレット・ミードがその著書「サモアの思春期」で、実態とはかけ離れたサモアの若者像を紹介した理由の一つとして、
「マーガレット・ミードとサモア」の著者、デレク・フリーマンは、ミードの人類学者としての経験不足とずさんな調査方法を挙げています。
調査のためにサモアに赴いたとき、ミードはまだ23歳の大学院生で実地調査の経験がなく、また実地調査がなにかということもよく理解していませんでした。
さらにミードはサモア語が話せず、サモアに着いてから6週間ほどサモア語を学んだそうですが、その程度の学習では、基本的な単語や語句を覚えるのが精一杯だったでしょう。
また人類学の実地調査では、調査の対象となる人々の家に住み込んで、彼らと寝食を共にするのが鉄則になっていますが、
ミードは一つ部屋に半ダースもの人間が寝起きするサモア人の家庭に住み込むことを嫌がり、知り合いの白人一家と一緒に住むことを選びます。
ミードは、その白人の家にサモア人の思春期の少女を呼んで、聞き取り調査を行うのですが、思春期の調査といいながら、ミードが接触したのは女の子だけで、男の子とは一切、接触しませんでした。
そして、わずか3ヶ月ほど調査しただけで、アメリカに帰国し、「サモアの思春期」を書いたのです。
それにしてもミードのサモア人に関する記述、特に性行動に関する記述があまりにも現実とかけ離れているのは調査方法の稚拙さだけでは説明できない、
少女たちがミードをからかって楽しんでいたのではないかとフリーマンは推測しています。
以前、紹介した夜這いの研究で有名な民俗学者の赤松啓介は、その著書で、よく民俗学の研究者がノート片手に農村を訪れて聞き取り調査などをやっているが、
そういうよそ者の研究者に対して村人が心を開いて語ることはめったにないと語っています。
特にどの集団においても、性に関する事柄は秘め事であって、そのような秘め事を初対面の外部の人間に簡単に漏らすようなことは絶対しないと断言しています。
また人類学者の卵が南の島の未開部族を訪れて、彼らと1年か2年、一緒に暮らして、
本国に戻ってからその未開部族をネタに修士論文や博士論文を書く魂胆でいることを当の未開部族が見抜いていないと思ったら大間違いだともいっています。
ミードのインタビューを受けたサモアの少女たちが、ミードが自分たちに関する本を書く予定でいることを知っていたかどうかは判りませんが、
少なくとも、少女たちは人前で口にできないような性的な事柄について根堀り葉堀り訊いてくるミードの態度にある種の胡散臭さを嗅ぎ取り、ミードの質問に真面目に答えなかった可能性はあると思います。
これはフリーマンの解釈ですが、私自身の解釈はもっと単純で、ミードは最初から客観的な調査などする気はなかったのではないかというものです。
前述したとおり、当時、アメリカでは人間の性格は、遺伝学的に決定されると主張する生物学者と環境によって形成されるという文化人類学者の間で激しい論争が起こっていたのですが、
ミードの恩師であるフランツ・ボアズはその論争において文化決定論を主張する側のリーダーでした。
ミードは、恩師のボワズが、自分をサモアに派遣したのは、この論争に決着をつける決定的な証拠を発見させるためであることをよく承知していて、
その期待に答えるために「生物学的決定論」を葬り去る調査結果を意図的に作り上げたのではないかと思うのです。
つまり、ミードは元祖オボカタさんだったのではないかというのが私の推測です。
当時のアメリカでは、生物学的決定論と文化的決定論の論争は、学問的対立を超えて、イデオロギー的対立の様相を帯びていたそうですが、
そういう意味で、マーガレット・ミードは学者というよりは、自分が信奉する文化決定論というイデオロギーの伝道者として自身を位置づけていたのではないかという気がします。
その後、ミードは、ニューギニアの未開部族を調査して、あたかも男女の役割が逆になっている部族が存在するかのような印象を与える研究結果を発表するのですが、
これも彼女が信奉するウーマンリブの思想に迎合した結果であることは明らかです。
その後、別の人類学者がこの同じ部族を調査して、この部族の男女の役割分担は、ほかの部族と変わりない伝統的なものであるとして、ミードの誤りを指摘し、
ミードは「自分はこれまで男女の役割が逆転した社会を一つも発見した覚えはない」との弁明に追いやられます。
このような客観的事実よりもイデオロギーを優先する学者が、なぜ、アメリカを代表する文化人類学者として長年、尊敬を集め続けてきたのか、私にはよく理解できませんが、
おそらく、彼女が文化決定論者やウーマンリブ活動家、さらには性の解放を主張する人々がどのような研究結果を欲しがっているかをよく理解し、
彼らの要望にぴったり合う研究結果を提供し続けたことが、人気を博した理由ではないかと想像します。
しかし、当然のことながら、ミードによって誤ったイメージを世界中にばらまかれた当のサモア人はミードに対して激しく反発しました。
特にミードがサモアでは「自分の信念のために苦しんだり、特別の目的のために死を賭けて闘う者などだれもいない」と断言したことに対して、
サモア人はミードが自分たちのことを「意気地のない腑抜け」として描いたと憤慨したといいます。
実際には、サモアでは、自分の信念のためには死をも厭わない勇気ある人間が賞賛され、現実のサモアの歴史にもそのようなヒーローが多数、存在するからです。
1970年代には、欧米に留学していたサモア人の学生たちが、ミードのサモアに関する描写を激しく非難し、「サモアの思春期」の内容を訂正するように強く迫ったそうですが、
ミードは、学生たちが生まれるずっと前の1925年に自分がサモアで見聞きしたことは正しかったと強弁して、学生たちの訂正要求を拒絶したといいます。
事実は、フリーマンが本書で詳しく述べているように、1925年時点に限定してもミードの記述は誤りだらけなのですが。
それにしてもサモアを研究対象に選んだ人類学者はフリーマン自身も含めてミード以外にもいた筈です。
彼らはミードを批判しなかったのでしょうか?
フリーマンは、ミードの人類学者としての名声があまりに早く確立してしまったために、ミードの主張に反する事例を発見しても、それを堂々と主張する勇気のある学者は少なかったと語っています。
フリーマン自身は、1960年代にミードと会う機会があったときに、自分の見解を述べたと語っていますが、
この本がミードの死後、5年経ってやっと出版されたのも、アメリカでミード批判がタブー視されていた証拠でしょう。
文化決定論の根拠として一世を風靡したジョン・マネーの「双子の症例」を批判したミルトン・ダイアモンドが、その批判論文を出版してくれる出版社を中々、見つけることができずに苦労したという話が思い出されますが、
男女の性差は生まれつきではなく、環境によって形成されるというフェミニズムの主張の根拠になっていた、
このジョン・マネーの「双子の症例」とマーガレット・ミードの「サモアの思春期」が二つとも完全な捏造であることが判明した現在、
当然のことながら、アメリカのフェミニストで「文化決定論」を支持する人間は減ってきているそうです。
ところが、日本では相変わらず、ミードの「サモアの思春期」やジョン・マネーの「双子の症例」を自著で引用するフェミニストが多いといいます。
これはどういうことかというと「タイムラグ」(時差)のせいだと思いますね。
日本のフェミニズムの研究というのは完全なアメリカの模倣で、その時点でアメリカで流行っていた理論を輸入して、日本で広めている間に、
本家アメリカでは、その理論はもう時代遅れになっていて、気がついたら、日本のフェミニストは、アメリカのはるか後方を走っているという滑稽なことになっているようなのです。
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by jack4africa
| 2010-11-19 00:04