2011年 05月 03日
江戸のかげま茶屋 |
江戸時代の日本には、江戸や大坂、京などの大都市で男性または女性客相手に売春を行うかげま(陰間)と呼ばれる女装の少年を抱える施設である「かげま茶屋」が流行したことが知られています。
女装少年による売春は、若衆歌舞伎の女形役者が舞台を務めるかたわら、芝居客相手に色を売っていたのが始まりだそうですが、徐々に売色を専門にする少年が現れてきて、
売色が行われる場所も芝居茶屋からそれ専門のかげま茶屋に移行していったそうです。
江戸のかげま茶屋は、女色を禁じられた僧侶の多かった本郷の湯島天神門前町や、芝居小屋の多かった日本橋の芳町(葭町)に集中していて、
男色好きで有名だった蘭学者の平賀源内が明和五年(1775)に著した陰間茶屋のガイドブック「男色細見」によると、芳町には十二軒の陰間茶屋が建ち並び、合わせて六十七人のかげまがいたといいます。
かげまになる少年は、大半が京や大坂など上方から連れてこられたそうです。
上方の少年は言葉遣いが優しくて、動作なども江戸の少年と違って柔らかいというのがその理由で、
江戸の少年をかげまに仕立てても言語動作に柔らか味を欠き、いかつげな振る舞いが多かったため売れ行きは悪かったそうです。
少年たちは、かげまとして売り出す前にかげまとしての心得や行儀作法を教え込まれたそうですが、一番、重要だったのはアナルの開発だったといいます。
当時は、かげまを買う男の客は必ずアナルセックスを要求したことから、かげまになる少年は、客のイチモツを受け入れるためにアナルを拡張しなければならなかったのです。
そのための一番、簡単な方法は、指を使ってアナルを拡げる方法で、小指から順に薬指から中指、人差し指をアナルに挿入して、徐々にアナルをほぐしていったといいます。
指を使ってアナルをほぐしたあと、次の段階では、棒ぐすりという張形(ディルド)の一種を使ったそうです。
この棒ぐすりというのは、木の端を二寸五分ほどに切って、綿を巻いて、陽物ほどの太さにして、たんぱん(胆礬)をゴマの湯で溶いたものをその上に塗ったもので、
夜、寝しなに腰湯を使ってアナルを洗浄してから、それをアナルに挿入してそのままの状態で寝かせつけたといいます。
たんぱんというのは、硫酸銅のことで、某ウェブサイトによると、その毒性を利用して直腸の粘膜を腐食させ、痛覚を鈍化させると同時に掻痒感を生じさせて陰茎による刺激を欲するようにするために使われたそうです。
この棒ぐすりを使った訓練のあと、あるいはそれと並行して、ホンモノのペニスを使った訓練も行われ、
この本番の訓練でかげまになる少年の相手をしたのは金剛というかげまの従者になる男だったといいます。
かげまには身の回りをする金剛が必ず付き添っていて、かげまが客に呼ばれて客の家に行くときなど必ずこの金剛がお供をしたそうですが、当然のことながら、かげまと金剛の間には特別、親密な感情が生まれたそうです。
金剛は通和散という潤滑剤を口に入れて唾液で溶かしたものをかげまになる少年のアヌスにたっぷりと塗り付けて滑りをよくしてかしら、
自分のイチモツの先端を挿入し、徐々に深いところまで挿入していき、最後には全長が入るようになるまで仕込んだといいます。
このようなアナル拡張の訓練が終わり、そのほかのかげまとしての心得や行儀作法を教わったあと、かげまとしてデビューするのは12、3歳頃で、
岩田準一著「本朝男色考」には、このようにして一人前のかげまになった少年の様子が次のように描かれています。
「あの子はどうも見覚えがある。つい近い頃まで子守をさせられて、買い喰いばかりしていたハナタレ小僧で、よく豆腐屋へ使い歩きをしていたが」と、以前の育ちを知っている人にささやかれながら、その姿を顧みられるようになった頃には、もう一人前の商売人と成りきっていた。ハツカネズミを飼って喜んでいたり、犬をけしかけていたハナタレのガキが、いつの間にか女のような姿態をして、裾の長い着物をぞべぞべと引きずって、前のさばき具合を気にして歩き出すと、すれ違う人に秋波を送ったり、わざと伏し目をして通り過ぎたりしてまいる。昔のことはけろりと忘れてしまって、まるで幼少から公家の落胤でもあるかのように心得て、木綿物は膚にそぐわぬから風邪を引くの、少し歩けば踵にマメが出来たのなんぞのといい出す気ままを覚えて来る頃には、商売の方も玄人になって、客へのいわゆる手練手管を巧みに操って、地方から出てきた客などには、口でばかりうまいことを聞かせながら、腹の中では相手を軽蔑して、隙を見ては、少しでも金銭を取りあげようとたくらんだりするのは、下品なやり方だが男女売色者の古今を通じて変わらぬ心だてと見える。
こうしてみると殆ど女の売春婦と変わりませんが、女のようだった少年も成長するにつれて段々と本来の男の部分が出てきます。
そのような年頃になると、男の客はあまりつかなくなり、代わりに女客の相手をするようになったといいます。
芳町で年増の方は二役し
芳町の年がいったかげまは、男女両性の客を相手にし、男客の相手をするときは女役、女客の相手をするときは男役の二役を務めるという意味です。
かげまを買う女客は裕福な商家の後家さんや御殿女中が多かったといいます。
御殿女中はたまにしか外出許可が出ないので性欲が激しく相手をするのは大変だったそうですが、その分、金払いはよかったそうです。
後家出家かげま前後に敵を受け
後家(女客)には身体の前についているイチモツで相手をし、出家(僧侶=男役)には後ろの穴で奉仕するという意味です。
芳町で化けそうなのを後家に出し
とても男客に出せるような代物ではない、髭の剃り跡が青々した薹(とう)の立った年増のかげまは女客に出したという意味です。
かげまは17、8歳から20歳位で引退したそうですが、これを「上がり」といい、
情けのあるパトロンは、かげまが仕事を辞めたあとも身を立てていけるように便宜を計り、小役人の株を買ったり、寺侍に仕立てたり、資金を出して商売を営ませたりしたそうです。
有名なかげま上がりには、フィクションですが、歌舞伎の演目の白波五人男の女装の盗賊、弁天小僧菊之助がいます。
かげま上がりは女装がうまいので、そういう設定になったみたいです。
あと弥次喜多道中で有名な「東海道中膝栗毛」の喜多さんこと喜多八がかげま上がりだと知ってました?
私も比較的最近になって知ったのですが、弥次さんこと弥次郎兵衛はもともとは裕福な商家の息子で、喜多八は弥次郎兵衛の馴染みのかげまだったという設定になっています。
弥次郎兵衛は放蕩が祟って今は江戸の長屋で逼塞し、喜多八の方もかげまを辞めてからパッとせず、厄落としにお伊勢参りでもしようかということになって一緒に旅に出るのですが、
二人とも大の女好きで、道中では茶屋の娘にちょっかいを出したり、旅館の女中や女の泊り客に手を出そうとして振られたりで、とてもじゃないけどこの二人がかって男色関係にあったとは思えません。
「東海道中膝栗毛」は滑稽本で、作者の十返舎 一九は話を面白くするためにそういう設定にしたのでしょうが、
いくらフィクションでもリアリティーがまったくなければ読者に受けなかった筈で、江戸の庶民にとってはそれだけかげまが身近な存在だったということでしょう。
かげま茶屋に話を戻しますと、一時は隆盛を誇ったかげま茶屋も、質素倹約を旨とする徳川八代将軍吉宗の享保の改革によってその数が半減し、さらに幕末の天保の改革で殆ど絶滅してしまったといいます。
唯一の例外は、上野三十六坊と呼ばれた上野寛永寺を中心とする寺院群の僧侶たちを得意客としていた湯島天神のかげま茶屋で、
湯島天神は、法親王を門主としていただくこの上野三十六坊の寺領で、江戸幕府も容易に干渉できなかったことから、天保の改革後も営業を続けたそうです。
しかし、慶応4年(1868)に上野を舞台に彰義隊ら旧幕府軍と薩摩藩、長州藩を中心とする新政府軍の間で戦われた上野戦争によって上野三十六坊は焼失してしまいます。
この戦いに敗れて逃げてきた彰義隊の兵士を湯島天神のかげま茶屋が匿って、かげまの格好をさせて追手の目をごまかしたというエピソードもあったそうですが、
戦いで上野三十六坊が焼失してしまったことから、湯島天神のかげま茶屋はその得意客であった僧侶を失ってすべて廃業してしまったそうです。
それでも上野にはかげま茶屋の伝統を受け継いだのか、戦前には女装の男娼の私娼窟があったそうで、戦後はゲイバーも沢山できて、日本の男色文化の中心の一つであり続けています。
おかまの語源については、釜ヶ崎から来たとか、サンスクリット語の性愛を意味するカーマから来たとか諸説あるそうですが、私は「かげま」が縮まって「かま」になったという説が一番、説得力があるような気がします。
参照文献:
「本朝男色考」岩田準一
「南方熊楠稚児談義抗議」稲垣足穂
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by jack4africa
| 2011-05-03 00:03