2011年 08月 19日
原節子 - 永遠の処女 - (1920~2015) |
1962年、まだ若いうちに映画界を引退し、その後、公の場所に一切、姿を現さず、現在まで隠遁生活を送っていることから、今もなお伝説の女優として語り継がれています。
原節子は14歳のとき、経済的に困窮していた家庭を救うために、義兄の映画監督、熊谷久虎の勧めで、女学校を中退して映画界入りします。
1936年、16歳のときに日独合作映画「新しき土地」のヒロインを探していたドイツ人監督、アーノルド・ファンクの目にとまり、この作品に主演して一躍人気スターになります。
ただあまりに早く人気が出たことから、実力(演技力)が追いつかず、戦前は大根女優呼ばわりされて、女優としての評価はそれほど高くなかったそうです。
彼女が女優として花開くのは戦後のことで、戦後の自由にモノが言えるようになった空気と明るくはっきりした彼女のイメージが合い、
黒澤明監督の「わが青春に悔いなし」(1946)、今井正監督の「青い山脈」(1949)、木下恵介監督の「お嬢さん乾杯」(1949)など、実力派の監督の作品に次々と出演して好評を得ます。
そして女優人生における師ともいうべき小津安二郎監督と出会います。
彼女はぜんぶで6本の小津作品に出演するのですが、最初の3本、「晩春」(1949)、「麦秋」(1951)、「東京物語」(1953)で演じた役名がすべて紀子(のりこ)で、これら3作品は「紀子三部作」と呼ばれています。
この三部作の最後の作品、「東京物語」は小津監督の最高傑作で、原節子もまたこの作品で女優として頂上を極めます。
しかしその後、まもなく彼女は「40歳の壁」に突き当たります。
「40歳の壁」というのは、美人女優が40歳近くになって容色が衰えて引退していく現象を指す言葉で、原節子もまた母親役などに挑戦するものの中年になった自分の役柄がイメージできず、
1962年に稲垣浩監督の「忠臣蔵」に出演したのを最後に映画界を去ってしまうのです。
原節子と同時期に活躍していた高峰秀子、田中絹代、山田五十鈴などの女優はこの40歳の壁を乗り越えて晩年まで女優を続けるのですが、彼女たちと原節子の違いは、
前者が「演技派女優」であったのにたいして、原節子は「スタア女優」だったことにあると思います。
小津安二郎監督は原節子の演技を絶賛していたし、少なくとも戦後の作品を見る限り、大根などでは決してありませんが、それでも彼女に「演技派」のイメージはありません。
彼女は演技派女優になるには美しすぎたのです。
スクリーンに登場しただけで周囲がパッと明るくなる大輪の牡丹のような美貌に恵まれた彼女は言葉の本来の意味でのスタア女優だったし、自分の美貌の衰えをファンの前には晒したくなかったのでしょう。
彼女が映画界を去った翌年の1963年には小津安二郎監督が死去します。
この1962年から1963年は、日本人の娯楽の主役が映画からテレビに移行する過渡期で、その時期に日本を代表する女優と監督が相次いで映画界から消えていったのは非常に象徴的です。
東京物語(1953)
by jack4africa
| 2011-08-19 07:16
| 思い出の女優たち