2012年 05月 01日
徳川五代将軍綱吉と寵臣柳沢吉保 |
歴代徳川将軍の中で男色好きで有名なのは、三代将軍家光と五代将軍綱吉です。
初代将軍家康、二代将軍秀忠、そして四代将軍家綱にも美少年の寵童がいたことが知られていますが、
男色将軍というと必ず家光と綱吉の名前が挙がるのは、この二人が特別、男色に耽溺したからです。
家光のごときは男色に耽るあまり女色を疎かにし、世継ぎが中々、生まれず、周囲をやきもきさせたといいます。
綱吉の場合は、男色だけでなく女色も好んだといわれていますが、どちらかといえば、女性については世継ぎを作る道具とみなし、真の寵愛は美少年に注いだといわれています。
綱吉はその生涯で、名前が知られているだけで36人の美童を寵愛したそうですが、その多くの美童の中で特別な寵愛を受けたのが柳沢吉保です。
彼は綱吉に寵愛されることで、一介の小姓から将軍の側用人に取り立てられ、綱吉の側近として幕府内で権勢を振るい、晩年は甲府15万石を領し、松平姓を許される老臣の地位まで登り詰めたのです。
柳沢吉保は15歳のとき、館林藩主であった綱吉に初めてお目見えします。
綱吉は一回り上の27歳で、当時、房安(ふさやす)と名乗っていたこの少年の美貌に一目惚れし、直ぐに小姓として召し抱えます。
小姓となった房安は、まもなく「お座直し」になります。
お座直しというのは小姓や側室が主君の夜伽の相手を務めるようになることを意味します。
通常、小姓が主君の夜伽の相手をするのは元服前の前髪姿の頃で、前髪を落として元服すると「御褥(おしとね)御免」になり、閨房の務めから解放されます。
当時の男色というのはオトナの男が年下の少年を愛するのが基本で、少年が前髪を落として元服して一人前の男となると最早、性の対象とはみなされなかったのです。
しかし、房安の場合は17歳のときに前髪を切って元服し、家督を継いで保明(やすあき)と改名したのちも綱吉の枕席に侍ったそうで、それだけ綱吉の寵愛が深かったことが窺われます。
綱吉はまた愛妾のお伝の方と愛童であった房安を自分の左右に寝かせて同衾したといわれています。
3Pという奴ですね。
寵童である房安の見ている前で愛妾のお伝の方を抱き、房安が快感によがり泣くお伝の方の狂態を眺めて興奮する様を楽しみ、お伝の方を抱いたあと、
興奮のあまりフンドシの前を突っ張らせている房安を抱き、先走りで濡れているビンビンにおっ勃った房安のイチモツをしごきながら、その菊門を犯して愉しむ。
そして房安が堪え切れずに上げる苦痛と快感の入り混じったあえぎ声をお伝の方に聞かせ、お伝の方が興奮してしとどに濡れる頃を見計らってまた彼女を抱く。
あるいはお伝の方と房安に命じて自分の見ている前で交わらせ、最初は恥ずかしがっていた二人が次第に快感に我を忘れて行為に没頭していく様を見て愉しみ、
お伝の方と交合している房安の背後に回って彼の菊門を指で弄び、菊門がほぐれたところでおのれの陽物でその菊門を差し貫き、
お伝の方と綱吉のサンドイッチの具状態になった房安を犯しながら、房安が苦痛と喜悦にあえぐのを見て愉しむ。
等々、痴態の限りを尽くしたものと思われます。
その後、第四代将軍家綱が没し、世継ぎがなかったことから、家綱の弟である綱吉が第五代将軍に就くのですが、
将軍になってからも綱吉の男色趣味は下火になるどころか、ますます勢いを増していきます。
綱吉は能楽を好み、能役者や狂言師を数多く京から呼び寄せたのですが、能役者の中の容貌美麗な者は、綱吉に「芸よりも尻にてご奉公」するようになります。
しまいには能役者だけでは足らなくなって、旗本御家人の子弟の中から美童の噂高い者を召し出して、能楽、小鼓、太鼓、笛などを教え込んだといいます。
これらの美童たちは「桐の間御番」と呼ばれたそうですが、綱吉は、元禄4年に桐の間御番の美童の中、お手付きの少年だけを集めて別の宿舎に収容します。
この宿舎は「桐御殿」と呼ばれたそうですが、なんとこの桐御殿はかっての寵童、柳沢保明の屋敷内に置かれたそうです。
このとき柳沢保明は33歳、当然のことながら、とっくの昔におしとね御免になっていますが、綱吉の寵愛は変わらず、綱吉が将軍になってからは、禄高三万二千石を賜り、お側御用人に取り立てられています。
この桐御殿には数十人の美童が収容されたそうですが、彼らは柳沢家士の厳重な監視の下に置かれ、夕方になると美しく化粧して、いつ綱吉のお召しがあってもいいように待機していたといいます。
つまり桐御殿は綱吉のための美少年のハーレムだったわけですが、このハーレムをかっての寵童、柳沢保明に監督させたのは、やはり蛇の道は蛇、というか、
綱吉の男色に関する趣味嗜好を知り尽くしている保明に預けるのが一番相応しいと考えたのでしょう。
この頃、保明自身、大名として小姓を抱える身分になっていたのですが、その小姓の中からも何人かの美少年がこの桐御殿に入ったといいます。
この時代、家臣のお手付きの少年を将軍に献上するのは将軍に対して失礼にあたるということでタブーだったそうですが、綱吉は保明の寵童だった少年と契ることに抵抗がなかったといいます。
かって自分の寵童だった保明が寵愛した美童を自分もまた寵愛することで、保明に対する変わらぬ愛を確かめていたのかもしれません。
将軍綱吉は寵臣である柳沢保明と美童だけでなく、女性も共有していたという噂があります。
江戸中期の実録体小説「護国女太平記」によると、保明の側室の染子は綱吉のお手付きの女性で、綱吉によって保明に下賜されたそうで、
保明の側室になったあとも綱吉と関係を持ち続け、染子の生んだ保明の嫡男、吉里の本当の父親は将軍綱吉だったということになっています。
これはあくまでも俗説であって、史実とは異なるそうですが、そのような噂が出るほど、綱吉と保明の中が親密であったということでしょう。
中国の史家、司馬遷は、容色が優れているという理由だけで、能力のない人間を高官に引き立てて、国政に関与させることの弊害を説いていますが、
柳沢保明の場合、非常に有能なテクノクラートで、頭の切れる人物であったといわれています。
ただ彼はその頭の良さを天下国家のために使わず、ひたすら綱吉へのゴマすりとみずからの私利私欲のために用いたのです。
たとえば、綱吉が天下の悪法、生類憐みの令を発令したときには、忠臣としてその愚挙を諌めるどころか、唯々諾々としてそれに従っています。
生類憐みの令が出されるようになったそもそもの原因は綱吉の側室、お伝の方が生んだ世継ぎの男児、徳松が4歳で早世し、その後、中々、世継ぎが生まれなかったことにあります。
このことを心配した綱吉の生母、桂昌院は隆光という僧侶に頼んで世継ぎ誕生の祈祷をさせたのですがいっこうに効果が現れません。
するとこのインチキ坊主は自分の法力の無さをごまかすために、
「綱吉公に世継ぎが生まれないのは前世で多くの殺生をなした報いである。そのため世継ぎを得るためには生き物を愛護し、殺生を禁じなければならない。綱吉公は戌年生まれなので、特に犬を大切にする必要がある」
と進言したのです。
偶然にも保明もまた綱吉より一まわり下の戌年でした。
この「生類憐みの令」は何度も発令されたのですが、その度に内容が厳しくなり、しまいには鳥を撃っただけで切腹を命じられたり、犬を斬っただけで打ち首になったり、猫を傷つけただけで流罪になるなどしたそうです。
この愚劣な法令は綱吉が死ぬまで22年間も続いたそうですが、綱吉を継いで次期将軍となった家宣は将軍職に就くと同時にこの悪法を廃止し、
それによりこの法令に違反して牢に入れられていた者6737人、遠島追放禁極の刑に服していた者8634人が赦免されたといわれています。
保明はまた綱吉の生母、桂昌院が朝廷から女性最高位の従一位の官位を賜るように自分の側室である公家の娘、町子を通して朝廷に働きかけ、それに成功したといわれています。
桂昌院というのは元はといえば京の八百屋の娘だったそうで、そういう下賤の出身にありがちな名誉欲の強い人間だったみたいです。
そのため、それまでの徳川家の女性としては最高位の従一位に叙せられたことを非常に喜んだといいますが、
この功績により保明は本来ならば徳川一族の人間にしか許されない松平の姓を名乗ることを許され、名前も綱吉の「吉」の字を取って吉保と改名します。
この頃が柳沢吉保の全盛期で、幕閣の実力者として大老格の権限を振るう彼に楯突くことができる者は一人もいなかったそうですが、
元禄14年に起こった赤穂藩主、浅野内匠頭の殿中刃傷事件では、事件の内容を十分に吟味することなく浅野内匠頭に即日、切腹を命じる一方で、
他方の当事者、吉良上野介にはお咎めなしの片手落ちの処分を行ったことで批判され、忠臣蔵の芝居や映画では悪役にされています。
綱吉に世継ぎの男子が生まれる気配がないことから、そのまま行くと次期将軍は水戸光圀公が強力に推していた三代将軍家光の孫で綱吉の甥にあたる甲府藩主、松平綱豊が就任する可能性が強かったのですが、
お伝の方は自分が生んだ綱吉の唯一の実子である鶴姫の婿である紀州藩主、徳川綱教を次期将軍にすることを望み、綱吉もそれに賛成します。
柳沢吉保は、お伝の方と綱吉の意を汲んで綱教を次期将軍にするための工作を開始するのですが、鶴姫と婿の綱教が流行り病に罹って呆気なく死んでしまったことからこの計画はとん挫してしまいます。
綱教が死んだことから、綱吉は結局、松平綱豊を後継者に指名せざるを得なくなり、綱豊は江戸城西の丸に移り、徳川家宣と改名します。
そして柳沢吉保は綱豊が次期将軍となることで藩主が不在になった甲府藩の新しい藩主に封じられ、15万石を賜るのです。
甲府藩主に徳川一族以外の人間が封じられた前例はなく、この人事は極めて異例のことだったそうですが、綱吉としてはそのような形で寵臣吉保の長年の忠誠に報いたかったのでしょう。
徳川家宣が次期将軍に決定したあとは、吉保は早速、家宣にゴマをすりはじめるのですが、
家宣は吉保が家宣のライバルであった綱教を将軍にするために様々な工作を行ったことを知っていて、綱吉の死後、将軍職に就くと直ちに吉保にお役御免を申し渡します。
その結果、吉保は家督を嫡男の吉里に譲って引退、5年後にひっそりと亡くなりますが、嫡男の吉里が吉保から受け継いだ領地を召し上げられることもなく、
甲府藩主として無事に一生を終えることができたのは、吉里=綱吉のご落胤説が流布していたことと無関係ではないでしょう。
参照文献:南条範夫「五代将軍」
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by jack4africa
| 2012-05-01 11:40

