2012年 05月 08日
芭蕉とその弟子 |
「奥のほそ道」で有名な江戸時代前期の俳人、松尾芭蕉(1644‐1694)には男色趣味があったことが知られています。
そのため、一部のゲイリブのライターなどは当時の男色文化と現代の同性愛文化を意図的に混同して、「芭蕉は同性愛者だった!」みたいなことを書いていますが、
芭蕉を含め、この時代に男色行為に耽っていた人間を「同性愛者」と呼ぶのは適切ではないと思いますね。
同時代の井原西鶴の「男色大鏡」を読めばわかりますが、当時の日本では男色が盛行し、男同士のSEXは特別なことでもなんでもなく、殆どの男性が男色と女色の両方を楽しんでいたわけで、
芭蕉に内縁の妻がいたことからもわかるように、彼らは現在の同性愛者のように同性としかSEXできない種族ではなかったのです。
そもそも、当時の日本では(現在でも基本的に変わりありませんが)男色は趣味嗜好の一種としてみられていて、ゲイリブのいう「性的指向」のようなものではありませんでした。
梅柳さぞ若衆かな女かな 芭蕉
上の句は若衆の凛々しさを梅に女子のたおやかさを柳になぞらえた句ですが、男女両性の色香を愛でたこの時代の雰囲気をよく表しています。
芭蕉は正保元年(1664年)に伊賀国に生まれ、9歳の頃、伊賀国安濃津の城主藤堂氏の分家で、伊賀国上野の城代藤堂主計良忠(かずえよしただ)に稚児小姓として仕えたといわれています。
そのため、芭蕉の初めての男色相手は、主君である良忠であった可能性が高いといえます。
良忠は号を蟬吟(せんぎん)と称し、俳諧に造詣が深かったそうで、少年の芭蕉に衆道を教える傍ら、俳諧の道も手ほどきしたようです。
「悪党芭蕉」の著者、嵐山光三郎によると、「奥のほそ道」の「閑(しず)かさや岩にしみ入(いる)蟬の声」という句は、主君の蟬吟を追悼した句だそうです。
寛文五年(1665年)に開かれた句会で、当時、宋房(そうぼう)と名乗っていた芭蕉と主君の蟬吟が詠んだ連句をみると、二人の親密な関係が窺われます。
出し初(そむ)る船の行方を気遣(きづかは)れ 宋房
涙で暮らす旅の留守中 蟬吟
伊達(だて)なりしふり分(わけ)髪は延(のび)ぬるや 蟬吟
俤(おもかげ)に立つかの後(うしろ)つき 宋房
年玉(としだま)をいたう又々申請(またまたもうしう)け 蟬吟
子弟(してい)のむつみ長く久しき 宋房
いとも静かな舞(まひ)の手くだり 蟬吟
見かけより気はおとなしき小児(こちご)にて 宋房
芭蕉が23歳のとき、良忠が病気で急死。
自分を寵愛してくれた主君であると同時に俳道の同好の士でもあった良忠に死なれて芭蕉は悲嘆にくれたといわれていますが、
その後、仕官を退き、29歳のとき俳諧で身を立てる決心をして江戸に出ます。
江戸では神田上水の浚渫工事の請負の仕事をしながら俳諧の修行を行い、延宝六年(1678年)34歳のときに宗匠となり、新しい作風の俳諧師としてめきめき頭角を現し、多くの弟子を集めます。
芭蕉は美少年や美青年の弟子を特別、寵愛したといわれていますが、芭蕉と衆道関係を持っていたことが明らかになっている弟子は坪井杜国(とこく)だけです。
杜国は、芭蕉にその俳諧の才を認められて弟子になった名古屋の富裕な米穀商の若旦那で、女と見まがうような美貌の持ち主だったそうですが、
空米売りの罪を犯したため、御領内追放の刑で、伊良湖畔に近い保美の里に流刑になります。
芭蕉は、その3番目の紀行文「笈の小文」(おいのこぶみ)に綴られている、貞享四年(1687年)10月から翌年4月にかけて行った旅の途中で伊良湖畔の杜国に会いに行き、
そのまま彼と一緒に伊勢湾を渡り、伊賀上野,大和,吉野,京へと100日間の蜜月旅行をします。
「笈の小文」で、芭蕉は杜国を次のように紹介しています。
…かの伊良湖岬(いらこざき)にて契り置(おき)し人の、伊勢にて出迎(いでむか)ひ、ともに旅寝のあはれをも見、且(かつ)は、我為(わがため)に童子(どうじ)になりて、道の便りにもならんと、自(みずから)万菊丸(まんぎくまる)と名をいふ。
芭蕉と旅している間は、子供の名前である万菊丸を名乗って、少々、薹は立っているものの、芭蕉の稚児を気取ってみせたということらしいです。
寒けれど二人寝る夜ぞ頼もしき 芭蕉
杜国とのラブラブムードが伝わってくる句ですが、実は杜国のいびきがうるさくて、最初の二、三日はよく眠れなかったそうです。
伊賀上野の芭蕉翁記念館に芭蕉がいびきをかいて寝ている杜国を描いた「万菊丸いびきの図」が展示されているそうですが、
大きないびきをかいている年下の若い男の寝顔を見つめる芭蕉の眼は愛しさに満ちていたでしょう。
嵐山光三郎は、杜国のほかに、芭蕉35歳のときに18歳で芭蕉一門に入門した一番弟子の宝井其角(きかく)と芭蕉が衆道関係にあった可能性があると書いています。
其角が男色好きで男色に関する句を多く詠んでいるというのがその理由ですが、この時代の師弟関係の濃密さと男色に対する抵抗感の無さを考えると、
たとえそれほど男色好きでなくとも、師匠である芭蕉から求められれば、弟子は喜んでその相手をしたんじゃないかという気がします。
参照文献:
岩田準一「本朝男色考」
嵐山光三郎「悪党芭蕉」
「昔の日本人」の目次に戻る
by jack4africa
| 2012-05-08 00:01

