2012年 09月 04日
山口淑子(李香蘭)(1920 ‐ 2014) |
山口淑子は、戦前、日本人でありながら、李香蘭という名前の中国人歌手・女優として一世を風靡した人です。
戦後は日本人として山口淑子という名前で女優に復帰しますが、「波乱万丈」という言葉がこれほど似合う人生を歩んだ女性はほかにいないでしょう。
彼女は1920年に中国の撫順で日本人の両親の間に生まれますが、父の親友の中国人有力者の養女になり、李香蘭という名前を与えられます。
歌が得意で、先生について声楽を勉強していましたが、そのエキゾティックな美貌と日本語と中国語(北京官話)の両方に堪能であることを買われて、
満州国の国策映画会社、満洲映畫協會(満映)にスカウトされ、1938年に満映専属の中国人女優、李香蘭としてデビューします。
李香蘭は、当時の人気スター、長谷川一夫と共演した大陸三部作、「白蘭の歌」(1939)、「支那の夜」(1940)、「熱砂の誓ひ」(1940)や佐野周二と共演した「蘇州の夜」(1941)で、
最初は抗日だったのが、日本人の男性に親切にされているうちにその日本人男性を好きになってしまう中国娘を演じ、日本や満州で大人気を博します。
1941年に来日したときは、彼女の出演した日劇の周囲を観客が七回り半も取り巻いたために騎馬警官が出動して観客を蹴散らすという事件が起こります(日劇七周り半事件)。
当時の日本人青年の「大陸熱」は今では想像もできないほど強かったそうで、大陸へ雄飛することを夢見る日本の青年たちの目には、日本人の男性に抵抗を覚えながらも恋してしまう彼女は理想の中国人女性に映ったのでしょう。
しかし、反対に中国人の目から見ると、中国人でありながら、日本人に媚びへつらう彼女は許しがたい存在で、中国で開いた記者会見で、中国人記者から、
「なぜあなたは中国人のくせに「支那の夜」のような国辱映画に出たのか」
と難詰されます。
「支那の夜」では特に長谷川一夫が李香蘭扮する聞き分けのない中国娘を殴るシーンが「国辱」として問題になったそうです。
その記者会見のあと、彼女はこれ以上、中国人と偽って映画に出演し続けることを辞めようと決心するのですが、父の友人の中国人に、
「あなたを中国人と信じている多くの中国人ファンを失望させることになる」
と止められます。
彼女が自分の出演作品で歌った「支那の夜」や「蘇州夜曲」などの曲は日本や満州だけでなく、中国全土や当時、日本軍が進出していた東南アジア各地でも大ヒットしていて、中国人のファンも多かったのです。
その後、満映を辞めて上海に移り、上海で中国映画に出たり、歌のリサイタルを開きながら日本人であることを告白するタイミングを狙っていたのですが、
その前に戦争が終わってしまい、中国当局によって漢奸(売国奴)として逮捕されてしまいます。
逮捕後、銃殺刑に処せられることに決まるのですが、間一髪のところで戸籍謄本が届き、日本人であることが証明されて、無罪放免で国外退去処分になります。
上海の港から命からがら日本への引揚げ船に乗り込み、船のデッキから去りゆく上海の景色を万感の想いで眺めていたら、船内から自分が歌う「夜光香」のメロディーが流れてきたそうです。
戦後は本名の山口淑子に戻って日本人女優として再スタートを切り、シャーリー山口の芸名でアメリカ映画に出演したり、ブロードウェイの舞台に立ったりします。
NYではチャップリンと親交を深め、ハリウッドではジェームス・ディーンとデートしたこともあるそうです。
1951年にNYで知り合った日米混血の彫刻家、イサム・ノグチと結婚。戦時中、イサム・ノグチは日米の狭間に、彼女は日中の狭間に立って苦労したことで通じるところがあったそうですが、4年後に離婚してしまいます。
主な原因はすれ違いで、4年間の結婚生活で一緒に暮らした期間は1年にも満たなかったそうです。
あと日米の価値観の違いやイサム・ノグチの美意識の強さも結婚生活の障害になったといいます。
新婚時代、鎌倉の北大路魯山人の邸宅の民芸風茶室に住んでいたとき、履物までもこの茶室のトーンに合わせた木とわらで出来たごつごつした草履を履くように命じられ、
足の皮がめくれて血が出ても、履きやすいビニールのサンダルを履くことは許されなかったといいます。
イサム・ノグチと離婚後、1958年にやはりNYで知り合った日本人外交官と再婚、女優業を引退します。
彼女は小柄な女性ですが、アソコが大きいので有名だったんですよね。
「暁の脱走」(1950)で共演した池部良と仲良くなってナニしていたときに、「指輪が痛いからはずして」といったら、「これは腕時計だよ」と答えたという笑い話があるくらいで。
最初の結婚相手のイサム・ノグチは日米混血といっても外見はフツーの白人だったから、サイズもアメリカンで問題はなかったのでしょう。
再婚相手は日本人の外交官でしたが、この人は外務省きってのデカマラの持ち主として有名だったそうで、サイズが合ったので結婚することに決めたんだそうです。
一等書記官の夫と共にスイスのジュネーブに住んでいたときは、日本大使館が開くパーティーでは、大使夫人を差し置いて、一等書記官夫人の彼女の方が圧倒的に人気があったといいます。
日中英仏4ヶ国語に堪能で、いつもチャイナドレスに身を包み、華やかな美貌を持つ彼女の方が人気があったのは当然だと思いますが、パーティーでは特に彼女の高笑いが有名だったそうです。
その後、1969年にフジテレビのワイドショー「3時のあなた」の司会者として芸能界にカムバックして、番組でその有名な高笑いをときどき披露していましたが、
「オ~ホホホホホホホホホホ~~~」
といった感じの豪快な笑いで、根は陽気な人だったのでしょう。
テレビの司会業のあと1974年に政治家に転身。1992年まで参議院議員を務めます。
中国には1972年の日中国交回復後、何度か足を運び、満映時代の俳優仲間とも再会を果たしたそうですが、
日中関係の狭間で翻弄されたその前半生を書いた自伝「李香蘭 私の半生」は単なる自伝の域を超えて貴重な昭和史の記録となっています。
支那の夜-李香蘭
http://www.youtube.com/watch?v=iqtpH41rw0g
蘇州夜曲 - 李香蘭
http://www.youtube.com/watch?v=w0ht7Wkkc3s
荒城の月 山口淑子
http://www.youtube.com/watch?v=RxDdLOMwjc8&feature=related
by jack4africa
| 2012-09-04 00:00
| 思い出の女優たち