2013年 08月 20日
ヘレン・ミアーズ「アメリカの鏡・日本」(3) |
☆パールハーバーへの道
1931年9月18日、南満州鉄道の沿線で日中両軍兵士が衝突、満州事変が勃発します。
この軍事衝突をきっかけに南満州鉄道の警備にあたっていた関東軍は国民党軍と戦闘状態に入り、わずか5ヵ月で満州全土を占領してしまいます。
ミアーズは、この満州事変は、日本が西洋の先生であるイギリスの事前同意を得ないでうって出た初めての事件だった、と述べています。
この日本の軍事行動に対してアメリカもイギリスも最初から及び腰だったと、ミアーズはいいます。
アメリカは事変から4か月経ってやっと日中両国に対して「九ヵ国条約」と「パリ不戦条約」を順守することを要請する公式声明を出すのですが、
後におこなったように日本を侵略者として非難はしていません。
下手に日本を「侵略者」呼ばわりすると自分に跳ね返ってくる可能性があったからです。
「九ヵ国条約」とは、中国に「権益」を持つ日本を含む8カ国と中国との間で1921年にワシントンで締結された、8カ国の中国における特権を保障することに合意した条約です。
アメリカが日本を非難するのにこの条約を持ち出してきたのは、日本の行動によって自分たちが中国に持つ権益を脅かされるのではないかと危惧したためです。
イギリスも日本の行動によって自国を含む条約締結国の中国における権益が損なわれることになるのではないかと危惧していましたが、
アメリカもイギリスも中国の独立や中国人の幸せよりも自国の中国における権益を優先していたことから、日本を道徳的に非難することはできなかった、とミアーズはいいます。
「日本は最初の教科で西洋列強から教えられた行動、すなわち列強が必要なときにはとっている行動をとったにすぎない。
つい二、三年前、イギリスをはじめとする西洋列強は、中国国内あるいは中国へのルートに総勢二万の軍隊を配備していた。
よその国が中国で軍隊や軍艦をつかえるのに、なぜ日本はいけないのか、日本には理解できなかったろう。」
中国は満州事変を国際連盟に提訴し、連盟はリットン調査団の派遣を決定します。
しかし、リットン調査団が満州に到着する前の1932年2月29日、満州人代表が瀋陽に集まり、中国からの独立と独立国家、満州国の樹立を宣言します。
そして調査団が報告書を連盟に提出する前の1932年9月15日、日本は満州国を新しい主権独立国家として承認するのです。
日本はかなりの確信をもって、リットン調査団の報告が自国に有利なものになると期待していた、とミアーズはいいます。
満州を自国の勢力下に置くために独立させるという手法は、日本が英米を初めとする欧米列強から学んだものであり、
アメリカは満州国の樹立に反対しているものの国際連盟に加盟していないし、連盟の主要国であるイギリスは日本の味方になってくれるだろうと信じていたというのです。
日本は新しい国家である満州国の皇帝に満州支配の皇統を継ぐ満州王朝の王位継承者、溥儀を即位させ、
1912年の中国革命によって満州族の王朝、清が倒されたのだから、清の皇帝、溥儀が故郷の満州に戻って満州国を設立するのは当然の行動である、との論理で満州国の建国を正当化します。
しかし、リットン調査団の報告は日本の期待に反するものでした。
報告は、日本の教唆によるものとしてしか考えられない満州の独立は認められないとし、満州は何らかの形の「国際」軍によって管理されるべきであると勧告したのです。
「国際軍による管理」は、現実には中国にいる日本のライバルによる管理を意味します。
すべての関係国は、自分たち自身の勢力圏は自分たちで管理しようとしているのだから、これは日本に対する差別であると日本は考えた、とミアーズはいいます。
「日本がリットン報告にびっくりしたのは、当然である。報告は日本の誇りを傷つけただけでなく、アジアの大国としての地位を根底から脅かすものであった。
心理的衝撃は、日本は西側先進国ではないとされたことである。日本は五大国の高い席から、アジアの後進民族と同じ地位に引きずりおろされたのである。」
明治の開国以来、日本は生き残るために必死に欧米を模倣し、富国強兵に努めてきました。そして日清、日露の両戦争に勝利し、第一次世界大戦では連合国側について戦勝国となり、世界五大国の一つに数えられるまでになりました。
日本人は自分たちは一等国民になって、白人の仲間入りをしたと考えていましたが、英米を初めとする欧米列強は日本を自分たちの仲間としては認めず、単なる将棋の駒としかみていなかったのです。
「そこで日本人は、こうした非難は日本の行動に対してではなく、人種に向けられたものだという結論に行きつく。中国人もリットン報告を仔細に読めば、同じ結論に達しただろう。
国際連盟がリットン報告を受け入れ、連盟とアメリカが満州国を承認しなかったことから、日本は連盟を脱退した。」
日本が満州に進出し、満州国を建設した背景として、当時、日本が置かれていた状況を理解する必要があります。
日本は農地にも原材料にも恵まれていない小さな島国で、近代に入ってから80年足らずで、人口は二倍以上にふくれあがっていました。
そのため、日本は食糧を自給するのが困難になり、海外への移民政策をとる必要に迫られていたのですが、
ヨーロッパ諸国とアメリカはアジア地域からの移民を規制していて、日本人移民は欧米諸国の本土はもとより、アジア、太平洋地域の多くの場所から締め出されていました。
その結果、日本には中国と満州しか出ていくところが残されていなかったのですが、中国はすでに人口過剰で、そこで日本の権益を確保しようとすると、先着の欧米列強との間で摩擦が生じる恐れがありました。
しかし、満州なら困難ながら道を開けそうでした。1931年当時、満州の人口は比較的少なく、資源は未開発だったからです。
現地の情勢が「安定」すれば、移住者に生活の場を、紡織産業には綿などの原材料を、軍需産業や近代型産業には石炭と鉄を与えることができると、日本は考えたのです。
しかし、アメリカは日本の満州進出に反対し、横槍を入れてきます。
「アメリカは自国から遠く離れたところで物を売ったり、資源を開発する権利を主張している。そして、自分たちの権益擁護のために必要とみれば、武力まで行使しているのに、
日本が混迷の未開発隣接地域で同じことをしようとすると、何で邪魔だてするのか、日本には理解できなかった。」
アメリカは日本の満州侵略を非難し、満州国を承認することを拒絶したものの、1941年に経済制裁を課すまで、日本を懲罰する具体的な行動は取りませんでした。
もし1931年のこの時点でアメリカが日本に経済制裁を課していたら、日本の暴走を食い止めることができたかもしれない、とミアーズはいいます。
しかし、アメリカは何もせず、その間に日本は着々と満州国の存在を既成事実化していきます。
1935年後半までに日本は軍事力より外交的、経済的手段で中国での目的をかなりのところまで達成していた、とミアーズはいいます。
日本の狙いは、満州に戦略拠点を確保し、日本帝国圏(韓国と台湾)と満州、華北からなる経済ブロックを作って、経済の安全保障を確立することでした。
そうすれば、これまでのように原材料物資と市場をアメリカ、イギリス、フランス、オランダに依存しなくてもすむからです。
1935年、日本は華北を蒋介石の「悪政」からほとんど「解放」していました。日本は華北三省を統治する将軍たち(軍閥)の協力でこれを達成したのです。
将軍たちは華北の「自治」確立と、満州国と日本の緊密な経済関係を支持すると宣言していましたし、汪精衛(後に南京「傀儡」政権を率いる)も日本についていました。
しかし、イギリスは華北が独立を宣言し、日本と満州が共同して関税ブロックを結成する可能性が強まってくると、危機感を抱くようになります。
イギリスは華北に大きな「権益」をもっていたからです。
そこでイギリスは蒋介石を外交的にも財政的にも強化して、日本に対抗させようとします。同じ頃、汪精衛は何者かに銃で狙撃されます。
日本のよき理解者は入院し、蒋介石はイギリスの財政援助で威信を高めます。このために日本は華北の「解放」計画を断念せざるをえなくなります。
「イギリスに代わって華北を包み込もうとした経済ブロック計画(日本が武力によらず「合法的に」達成寸前だった)は阻まれ、日本は一歩一歩、日華事変の泥沼にはまり込んでいった。
問題が日中間にだけ留まるものなら、日本は寛容を装っても、大幅な戦略撤退をしていただろう。しかし、戦争の終結条件を決めているのが中国ではなく大国である以上、日本は行くところまで行くしかなかった。」
イギリスにより華北を包み込もうとした経済ブロック計画を阻止された日本は、東南アジアに目を向けるようになり、「大東亜共栄圏」の構想を打ち出します。
「大東亜の民のために共栄圏を建設するという日本の構想は、アジアを自由経済から引き離すことを意図したものではない。アジアの植民地にはもともと自由経済などというものは存在しなかった。
日本は自分たちの周囲に築かれた障壁を破って、自分たちの域内に人と物を自由に流通させようとしたのだ。
日本が抱えていたのは、過剰な人口、日本人移民を入れない世界の障壁、対外貿易への過度の依存、国民に雇用と食糧を保障するための物資購入、そのために必要な輸出の拡大、という生き死にかかわる問題だった。
そんな中で、日本人は人種的に差別されているという確信が、ついには感情的迫力を帯びていったのである。」
そしてついに来るべきものが来ます。
1941年7月、アメリカ、イギリス、オランダは共同で各統治領内の日本資産を凍結し、貿易関係を全面的に中止します。
これら諸国の物資がなければ、日本はアメリカ、イギリス、オランダのいう条件で中国と満州から撤退するしかありません。
日本は戦うか、三国の条件を飲んで小国に身を落とすかの決断を迫られます。
「次にくるのは必然的にパールハーバーとシンガポールの攻撃である。日本にいわせれば、これは当然の自衛行為であり、「帝国の存立」をかけた攻撃であった。」
パールハーバーはアメリカ合衆国の征服を企んで日本により仕掛けられた「一方的攻撃」ではなく、アメリカが日本に仕掛けた経済戦争への反撃だったと、ミアーズは結論づけています。
これは日本の言い分を完全に認めるものです。
さらにミアーズは、アメリカ政府と軍は、かなり前から日本との戦争が不可避であることを知っていて、未然に防ごうとはしなかったと主張しています。
戦後、アメリカにおいて行われた研究によって、ルーズベルト大統領が日本に真珠湾を攻撃させるために、意図的に日本を追い込んでいったという、いわゆる「ルーズベルト陰謀説」が唱えられるようになります。
それによると、ルーズベルトは、日米開戦が不可避であると考えていただけでなく、むしろ積極的に日本との戦争を望んでいて、
アメリカの世論を納得させるために、日本が絶対に受け入れることのできない最後通告(ハルノート)を突き付けて、日本に最初に攻撃させるように仕向けたというのです。
もしそれが真実であれば、解くべき難問は「なぜ日本はパールハーバーを攻撃したのか?」ではなく、「なぜアメリカは日本にパールハーバーを攻撃させたのか?」になってくるのです。
ヘレン・ミアーズ「アメリカの鏡・日本」(4)
by jack4africa
| 2013-08-20 00:01
| 国際関係

