2013年 09月 24日
ザンジバルのからゆきさん(1) |
先日、白石顕二著、「ザンジバルの娘子軍」という本を読みました。
明治から大正にかけて当時、南洋と呼ばれていた東南アジアの娼館で娼婦として働いていた「からゆきさん」と呼ばれる一群の日本女性がいました。
その多くは長崎県の島原半島や熊本県天草出身の女性だったそうですが、彼女たちが最も集まったシンガポールには、
日露戦争後の1906年(明治39年)に娼館が100軒ほどあって、日本人娼婦が1000人ほど働いていたといいます。
しかし、中には南洋だけでは飽き足らず、遠くアフリカにまで足を伸ばしたからゆきさんもいました。
彼女たちは、ケニアのモンバサ、ザンジバル島、モザンビークのベイラ、マダガスカル、モーリシャス、南アフリカのケープタウン、ヨハネスブルグ、
さらには内陸部のローデシア(現ジンバウェ)のソールスベリー(現ハラレ)などに足跡を残しています。
アフリカで一番、多くからゆきさんがいたのはザンジバル島で、日清戦争が終わってまもない明治28年(1895年)には28人の日本女性が娼婦として働いていたといわれています。
上記の本に描かれている「おまきさん」というからゆきさんがザンジバルに到着した1914、5年(大正3、4年)頃には数は減っていたそうですが、
それでも10人ほどの日本女性がいて、ザンジバルのストーンタウンの「ジャパニーズバー」で働いていたそうです。
おまきさんは、ザンジバルに一番最後まで残留していた元からゆきさんで、1890年(明治23年)長崎生まれ、7人きょうだいの長女で、幼い弟妹を抱えた両親を助けるためにからゆきさんになったといいます。
彼女は1906年(明治39年)数え年18歳のときに、シンガポールにいた叔母を頼ってかの地に渡ったそうですが、
シンガポールに8年から9年滞在したあと、上記の叔母のほか、数人の日本女性と共にボンベイ経由でザンジバル島に向かいます。
なぜザンジバルを目指したかというと、当時のザンジバルは主要産物である香辛料のクローブの輸出で景気が良く、
ザンジバルの港には世界各地から船舶が寄港し、多くの船乗りが上陸していたことから、彼ら相手に商売をすると金になると考えたからだそうです。
実際、ザンジバルのからゆきさんたちは大金を稼いでいたそうで、中にはインドのボンベイの横浜正金銀行(東京銀行の前身)の支店経由で、故郷に一万円送金した女性もいたといいます。
巡査や小学校教員の初任給が10円から15円だった頃の一万円ですから、現在の貨幣価値に換算すると一億円くらいになるでしょうか。
おまきさんは、ザンジバルに到着すると先にザンジバルに来て定住していた日本人女性が経営する「珈琲店」で働くようになりますが、「珈琲店」というのは名ばかりで、実際には船員相手の娼館だったそうです。
この本にはおまきさんが20歳くらいのときにシンガポールで撮ったという和服姿の写真が掲載されていますが、写真を見る限り、彼女は決して美人ではありません。
しかし持前の面倒見のよさと気風のよさから、ほかの娼婦たちから頼りにされるようになり、珈琲店の「顔」になっていったといいます。
彼女と一緒にザンジバルに渡った叔母は、三、四年後に亡くなり、その後、おまきさんはザンジバルに流れてきた日本人の元船員の男と一緒になって、二人で「珈琲店」を経営するようになります。
つまり、一介の娼婦から娼館の経営者に出世したわけで、そのとき彼女は30歳になったばかりでした。
彼女はさらに内縁の夫が日本から輸入する商品を売る雑貨店も経営するようになります。
1926年(大正15年)には大阪商船がアフリカ定期航路を開設し、モンバサやザンジバルに日本の商船が寄港するようになり、
それをきっかけに、おまきさんの内縁の夫は、港に停泊する船舶に食料、日用品などを納入するシップ・チャンドラーと呼ばれる納入業者になります。
彼はその仕事のためにモンバサとザンジバルを往復していたそうですが、そのうち、ザンジバルの「珈琲店」でおまきさんの下で働いていた若い日本人の女と仲良くなり、
彼女とモンバサで同棲するようになって、ザンジバルには戻って来なくなったといいます。
しかし、おまきさんはくじけませんでした。
彼女は大阪商船のモンバサ駐在員の勧めもあって、去っていった内縁の夫に代わって、ザンジバルでシップ・チャンドラーとして働くようになるのです。
1930年(昭和5年)のことで、おまきさんは40歳になっていました。
この頃、彼女が経営する「珈琲店」は以前のような活気がなくなっていました。
1919年(大正8年)に日本政府が発令した廃娼令のお蔭で、新規のからゆきさんの流入が途絶え、彼女が抱える日本人娼婦たちが高齢化し、何人かの女性は日本に帰国し、数も減っていたからです。
そういう背景もあって、シップ・チャンドラーへの転身話は、彼女にとって文字どおり渡りに船だったようです。
当時のおまきさんを知る人の話によると、シップ・チャンドラーになったおまきさんは、大阪商船の船がザンジバルに入港すると、木綿の真っ白い洋服にゴム靴という格好でサンパンに乗って船にやってきて御用聞きをし、
出港近くになると船から注文を受けた野菜や果物を沢山積んだサンパンに乗って戻ってきたといいます。
彼女は大変、面倒見がよい女性で、船員をはじめ彼女の世話になった日本人は多かったそうです。
日本から輸入した商品を売る雑貨店や珈琲店も引き続き経営していて、シップ・チャンドラーとの仕事と合わせて商売は順調で、1931年(昭和6年)には日本から弟を呼び寄せています。
弟はしばらくザンジバルに滞在して日本に戻ったそうですが、その後、日本は徐々に戦争に向かって進みはじめ、1941年(昭和16年)にはついに太平洋戦争が勃発します。
その頃には、ザンジバルにはおまきさんを含め3人の日本人しか残っていなかったそうですが、ザンジバルは英領だったことから、日本人は「敵対国民」として全財産を没収され、ザンジバル島の東海岸の収容所に収容されます。
戦争が終わってやっと収容所から出ることができた彼女は、戦争のお蔭で無一文になり、知り合いのインド人に洗濯の仕事を世話してもらって細々と生活していたといいます。
1957年(昭和32年)、大阪商船が再びザンジバルに寄港するようになり、商船の古手の社員は、かってシップ・チャンドラーをやっていたおまきさんがまだザンジバルに残っていることを知って驚きます。
その社員から連絡を受けた大阪商船のモンバサ駐在員は一人暮らしのおまきさんをザンジバルに訪ねていって、船賃は無料にするからと日本への帰国を勧めます。
そして彼女は1959年(昭和34年)に50年ぶりに日本の土地を踏むのです。
そのとき、彼女は69歳になっていました。
船が着いた神戸港には彼女の弟妹が迎えに来ていたといいます。
これがこの「ザンジバルの娘子軍」という本に書かれているおまきさんの一生なのですが、本を読んでいる間、ひっかかりみたいなものをずっと感じていました。
なぜ違和感を覚えたかというと、著者のからゆきさんに対する見方と彼がこの本で描いたおまきさんというからゆきさんのイメージがかい離していたからです。
著者の白石顕二(2005年に死亡)はアフリカ文化研究家という肩書を持つ人物で、貧困ゆえに海外に出稼ぎに行かざるを得なかった不幸な女性という先入観をもってからゆきさんを見ているのですが、
彼がこの本の主人公として描いたおまきさんは、私の目には同情すべきカワイソーな人間にはちっとも見えないのです。
「女衒に売られて無理やり南洋に連れていかれて、現地で売春婦にさせられて悲惨な人生を送った気の毒な女性たち」
というのが著者の頭の中にあるからゆきさんのイメージみたいですが、おまきさんはそういうタイプの女性とはかけ離れています。
10代半ばで自分の意思でからゆきさんになることを決心して叔母のいるシンガポールに渡り、さらにはアフリカのザンジバルまで出稼ぎにいき、
ザンジバルでは30歳の若さで娼館の女将になり、それ以外にも日本からの輸入品を販売する雑貨店を経営したり、
女だてらに男の仕事であるといわれていたシップ・チャンドラーになったりと行動力とバイタリティーに溢れた人生を送ってきた女性です。
たしかに戦争によって全財産を失ったことは不幸でしたが、そのような悲劇に見舞われたのは彼女だけでなく、
アメリカやペルーの日系人をはじめとして、戦時中に敵国や敵国の領土に在住していた日本人は全員、同じ目に遭っているわけで、元からゆきさんだったからそんな仕打ちを受けたわけではありません。
彼女の老後についても、著者は孤独な暮らしだったと書いてますが、気さくな人柄のために近所の人間に好かれていて、
家には近所の子供がしょっちゅう遊びに来ていたという話を聞く限り、それほど孤独だったとは思えません。
日本に帰国するためにザンジバルを出たときは多くの住民が見送ったといいますし、日本に帰国したときも、ちゃんと弟妹が港に出迎えにきているのです。
迎えに来た妹は彼女が日本を出たあとに生まれたそうで、そのとき初対面だったそうですが、弟妹が彼女のことを忘れずにいたのは、彼女が長年にわたって彼らに送金していたからでしょう。
彼女は日本に帰国後、長男である弟の家に引き取られて7年後に76歳で亡くなったそうですが、これのどこが悲惨な人生なんでしょう。
むしろフツーの人間には体験できない面白い人生だったんじゃないでしょうか。
本人も自分が不幸だなんて思っていなかったはずです。
そもそも現在の貨幣価値で一億円にも相当する多額の送金ができるほど稼ぎがよかったザンジバルのからゆきさんを「カワイソー」とか「気の毒」といった言葉で表現すること自体、無理があるのではないかという気がします。
ザンジバルのからゆきさん(2)
参照文献:青木澄夫「アフリカに渡った日本人」
本日のつぶやき
北海道の温泉が刺青をしたマオリ族の女性の入浴を断ったという話、なんかおかしいと思っていたら、やっぱりアイヌ協会が仕掛けたマッチポンプだったみたいです。
わざと「刺青お断り」の入浴施設を選んで彼女を連れてゆき、入店を断られたら「待ってました!」とばかり「サベツされたニダ!」と騒ぎ出したというのです。
ゲイリブが仕組んだ「東京都府中青年の家裁判」の茶番劇を思い出しますが、こういう被サベツ利権団体は「サベツ」をアピールするためにこのような工作を繰り返しているのです。
【砂澤陣】加速する反日アイヌ政策の実態[桜H25/9/16]
http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=KODg8Qa1DUE
by jack4africa
| 2013-09-24 00:01
| アフリカの記憶