2014年 01月 10日
マレー半島南端周遊(8) |
☆詩人 金子光晴が滞在した町 バトゥパハ
マラッカで泊まったゲストハウスのオーナーに、
「マラッカの次はどこへ行くんだ」
と訊かれて、
「バトゥパハへ行く」
といったら、
「あんな何もない田舎町に行ってどうするんだ」
と不思議そうにいわれました。
「日本の有名な詩人が昔バトゥパハに逗留していたことがあって、それを紀行文に書いているから」
と答えたら、
「なるほど、それで日本人の旅行者がみんなバトゥパハに行きたがる理由がわかったよ。前から不思議に思ってたんだ」
と納得した顔になりました。
実際、バトゥパハに行きたがる旅行者なんて日本人以外にいないだろうし、日本人だって金子光晴の「マレー蘭印紀行」の愛読者でない限り、わざわざバトゥパハくんだりまで行く気にならないでしょう。
今回の私の旅行の一番の目的はマラッカ観光でしたが、二番目の目的は金子光晴がその著書「マレー蘭印紀行」や「西ひがし」に描いた町、バトゥパハを訪れることだったのです。
詩人の金子光晴と妻の森三千代は、1928年に上海に渡り、そこから香港、シンガポールを経由してパリに行き、パリで2年間、大変な貧乏暮らしを経験したあと1932年に帰国するのですが、
金子夫婦の旅は、行き先々の土地に在留する邦人を頼って、彼らに金子が描いた絵を売って旅費の足しにするというものでした。
金子は若い頃、画学校に通った経験があり、絵心はあったようですが、素人に毛の生えたような水彩画を同じ日本人であるというだけで売りつけられる方も相当、迷惑だったに違いありません。
本人もそのへんは重々承知で、こんな卑屈でみじめな思いをしてまで下手くそな絵を売るくらいなら、手に職でもつけておけばよかったと述懐しています。
それでも「男娼以外はなんでもやった」という壮絶な貧困を経験したパリでの生活のあと、日本への帰国の途中で再びシンガポールに上陸したときは、
神経も相当図太くなっていて、絵を売って歩くことにもそれほど屈辱を感じなくなっていたといいます。
シンガポールで船を降りた金子は、ヨーロッパに残っている妻の三千代の日本までの船賃とシンガポールから日本までの自分の船賃を稼ぐために、
マレー半島を北上し、スマトラやジャワにも足を伸ばして、行商人よろしく絵を売ってまわるのですが、その旅の拠点になったのがバトゥパハでした。
バトゥパハは、マラッカとジョホールバルの中間にある町で、戦前は近郊に日本企業が所有する鉄鉱山や日本人が経営するゴム園があったことから、多くの日本人が住み着いていたのです。
バトゥパハの町には日本人倶楽部の建物があって、日本人であれば無料で宿泊できたことから、金子はここを拠点にして、
日本人倶楽部の直ぐ横を流れているバトゥパハ川の埠頭から船に乗って、上流の鉄鉱山やゴム園を巡回して絵を売って歩いたといいます。
「マレー蘭印紀行」や「西ひがし」にはこのバトゥパハで知り合った、同じ日本人倶楽部の宿舎で寝起きしている、バトゥパハの日本人学校で教師をやっている二十代の青年の話が出てきます。
彼はこんな辺鄙な南洋の町で小学校の教師をして若い日を過ごすのが耐えられない様子で、「なんで俺さまがここに居らんならんのやろ?」というのが口癖なのですが、
日本人倶楽部の書記をやっている松原という中年の独身男はこの日本人学校の教師の若者のことを毛嫌いしていて、彼が生徒の母親と関係を持っているので困っていると金子に愚痴をこぼします。
金子の方は「若いから仕方ないでしょう。町うらの広東人の娼婦では味気ないし。。。」と青年に同情的です。
バトゥパハの町にはかってはからゆきさんと呼ばれる日本人娼婦のいる娼館もあったそうですが、金子がヨーロッパからの帰途に立ち寄った頃は新しいからゆきさんの流入はとっくの昔に禁止されていて、
かってからゆきさんをやっていて、日本に帰国しなかった女性たちの多くは日本人相手の飲み屋や宿屋を経営していたといいます。
この小学校の教師をしている若者が関係を持っている飲み屋の女将も元からゆきさんで、金子は彼と一緒にこの飲み屋に遊びにいって女将に会います。
彼女はもう40代半ばで、新任の教師である若者にシンガポールの知り合いに預けてある娘をバトゥパハに呼び寄せて日本人学校に通わせることに決めたので、どうか娘をよろしく頼むとくどくどと頼み込むのですが、
酔っぱらっている教師の若者はロクに女将の話を聞かず、自分の母親ほどの年齢の彼女に抱きついて愛撫を加え、
女将の方は若者の愛撫に応えて喘ぎながらも、「どうか自分の娘を頼む」と何度も繰り返していたそうで、その光景は、金子の目には滑稽というよりもの哀しく映ったことでしょう。
また金子は、当時、在留邦人の間で有名だった小野芳子という日本女性が小舟に乗ってバトゥパハ川を遡っていく姿を目にします。
彼女の夫は軍人で、日露戦争に従軍するのですが、ロシア軍の捕虜になり、「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓のために日本に帰国することを断念して南洋に渡ったといいます。
夫が南洋にいるという噂を耳にした彼女は夫を見つけるためにみずから南洋までやって来るのですが、夫はいくら探してもみつからず、
いつしか彼女自身もからゆきさんの群れに身を投じ、やがてマレー人の土方の親方に身請けされてその愛人になります。
そんな彼女の境遇に同情した日本人倶楽部の書記が日本までの旅費を工面して彼女を日本に帰国させるのですが、彼女はすぐにまたバトゥパハへ戻ってきて、そのマレー人の土方の親方と一緒に暮らしはじめたといいます。
なんでもマレー人は魔術を使うそうで、マレー人の親方が魔術を使って再び彼女を呼び寄せたともっぱらの噂だったそうです。
金子が目撃したとき、小野芳子はもう40を過ぎていたそうですが、マレー女性の服装である丈の詰まったぴっちりと身体に張り付いたブラウスを着た中々色っぽい女性だったといいます。
当時、南洋と呼ばれていた東南アジアには日本を食い詰めて流れてきた人間や、わけありの日本人が沢山、住みついていたそうですが、金子の彼らに向ける視線は限りなく優しいです。
それは決して上から目線の同情などではなく、自らも堕ちるところまで堕ちて、どん底の生活を味わった金子が彼らに対して抱く同病相哀れむ心情というか、
自らも含めた人間の生の営みの卑小さに対して、心の奥底から湧き出てくる憐憫の情であったような気がします。
2013 マレーシアの旅 目次
by jack4africa
| 2014-01-10 00:01