2015年 06月 02日
宝塚出身の女優たち |
私は宝塚歌劇にはまったく関心はありませんが、女優養成機関としての宝塚は評価しています。
宝塚出身の女優たちは、単に美貌であるだけでなく、演技ができて、歌えて踊れる本当の意味でのプロだからです。
また宝塚の女優たちは、和歌からとった芸名など優雅な芸名を持つ人が多いのも魅力です。
以下に戦前から戦後の日本映画界で活躍した宝塚出身の主な女優を紹介します。
霧立のぼる(1917- 1972)
芸名の由来:村雨(むらさめ)の 露もまだひぬ 槇(まき)の葉に 霧立ちのぼる 秋の夕暮れ (百人一首:寂蓮法師)
1930年宝塚少女歌劇団に入団。宝塚歌劇団20期生。娘役。1934年にスカウトされて歌劇団を退団して映画界に入る。
大変な美人で、戦前、戦時中にアイドル並みの人気があったそうです。
轟夕紀子(1917~1967)
1931年、宝塚少女歌劇団に入団。宝塚歌劇団21期生。娘役として活躍。
1937年に宝塚を退団して『宮本武蔵 地の巻』(尾崎純監督)のお通役で映画デビュー。
若い頃は、美人女優として鳴らしたそうですが、中年になってから太りはじめ、脇役に転身。多くの作品で印象的な演技をみせました。
月丘夢路(1922~
1937年、宝塚音楽歌劇学校に入学。宝塚歌劇団27期生。娘役として人気を博する。1940年、宝塚歌劇団在団中に宝塚映画『瞼の戦場』の主演で映画デビュー。1942年に主演した『新雪』が大ヒットし、映画界でもスターとなる。
この方も美人女優として有名でした。現在、90歳を超えてご存命のようです。
越路吹雪(1924年~1980)
宝塚歌劇団27期生。男役スターとして活躍。宝塚退団後は、東宝の専属女優としてミュージカルで活躍すると共にシャンソン歌手としても人気を博す。
メインはミュージカルとシャンソンでしたが、映画にもときどき出演してました。馬面で不美人だったけど、色っぽい人でした。
乙羽信子(1924~1994)
1937年、宝塚音楽歌劇学校に入学。宝塚歌劇団27期生。宝塚では娘役として淡島千景と人気を二分。1950年、淡島千景の後を追うようにして宝塚を退団、大映に入社。
大映では「百万ドルのえくぼ」というキャッチフレーズで清純派女優として売り出されるが、1952年に新藤兼人監督の作品「原爆の子」に大映の反対を押し切って出演。演技派女優に転身する。
その後、新藤監督の殆どの作品に主演。私生活でもパートナーになる。
私は、新藤兼人は脚本家としては評価しますが、映画監督としては好きなタイプではありません。『裸の島』(1960)みたいな作品は映画祭に出品したら賞は取れるだろうけど、観ていて面白くもなんともないし。
それでも乙羽信子が日本映画史上屈指の演技派女優であることに変わりはありません。
五所平之助監督の『大阪の宿』(1954)の芸者「うわばみ」は絶品だったし、木下恵介監督の大作『香華』(1964)では主役の岡田茉莉子を完全に喰ってました。
日本舞踊も得意らしく『女という城』(1953)では、素晴らしい人形振りを披露していました。
ちなみに山口淑子引退記念映画『東京の休日』(1958)では、乙羽信子、扇千景、新珠三千代、八千草薫の4人の宝塚出身女優が芸者姿で日舞を披露する豪華なシーンが見られます。
淡島千景(1924 ~2012)
芸名の由来:淡路島 かよふ千鳥の なく声に いく夜ね覚めぬ 須磨の関守(百人一首:源兼昌)
潤んだような大きな瞳が印象的な女優さんでした。漫画家の手塚治虫は宝塚時代の彼女のファンだったそうで「リボンの騎士」のサファイア王女は、彼女がモデルだそうです。
松竹に入社した時点でもう25 歳を過ぎていたせいか、最初から娘役ではなく、姉御肌のオトナの女性の役を演じていました。
代表作を1本挙げるとしたら、やはり森繁久彌と共演した『夫婦善哉』(1955)でしょう。この作品で彼女が演じた駄目な亭主に献身的に尽くす勝気でしっかり者の女房の役は、日本映画が描く日本女性の一つの類型になったと思います。
駄目亭主役の森繁久彌はこの『夫婦善哉』でブレークするのですが、以後、二人は84本もの作品で共演しているそうです。
生涯独身で、87歳で亡くなる直前まで現役を続けた彼女は、宝塚が生んだ最高の映画女優だったと思います。
久慈あさみ(1922~1996)
1939年、宝塚音楽舞踏学校に進む。1941年、宝塚歌劇団に入団。宝塚歌劇団29期生。男役。相手役だった淡島千景が松竹入社したことなどに刺激を受け、1950年、宝塚を退団。新東宝と出演契約を結び『愛染香』で映画デビュー。
森繁の社長シリーズで、ずっと社長夫人を演じていました。元男役だけあって、足が長くて、プロポーション抜群でした。
新珠三千代(1930~2001)
1943年に宝塚音楽舞踊学校に入学、1945年に宝塚歌劇団に入団。宝塚歌劇団33期生。娘役として活躍。1951年、東宝『袴だれ保輔』で映画デビュー。
1955年に宝塚を退団し、日活に入社して映画女優として活躍、月丘夢路と共に看板スターに。1957年には東宝に移籍し、以後亡くなるまで東宝所属(東宝芸能所属)。
和服の似合う清楚な人妻から悪女まで幅広い役を演じましたが、どんな役でもこなせるので便利屋的に使われた感がなきにしもあらず。
『こころ』(1955).『神阪四郎の犯罪』(1956)、『女の中にいる他人』(1966)など見かけは大人しいけれど、腹の中では何を考えているか分からない人妻をやらせたら巧かったですね。
個人的には川島雄三監督の『洲崎パラダイス赤信号』(1956)が好きです。
この作品は私の好きな日本映画のベスト3に入りますが、新珠三千代演じる女がいったん別れた男(三橋達也)とよりを戻す気になって、その気持ちを言葉ではなくて男をじっと見つめて、目で伝えるところが色っぽかった。
あと小津安二郎監督の『小早川家の秋』(1961)の長女役も何気によかった。関西弁が完璧なので驚いたら奈良県の出身なんですね。なんとなく東京出身のイメージが強かったのですが。
八千草薫(1931~
1947年に宝塚歌劇団入団。宝塚歌劇団34期生。娘役として人気を博す。宝塚在団中から東宝映画などの映画に出演。1957年に退団。
若い頃の彼女の写真を見ると本当に綺麗! 整形とは縁のない天然の美しさです。息の長い女優さんで、今年、84歳の主演映画『ゆずり葉の頃』が公開されました。
個人的には、1980年にNHKで放送された向田邦子脚本のテレビドラマ『阿修羅のごとく』の次女役が印象に残っています。
有馬稲子(1932 ~
芸名の由来:有馬山 猪名の笹原 風吹けば いでそよ人を 忘れやはする(百人一首:大弐三位)
1949年、宝塚歌劇団に入団。宝塚歌劇団36期生。在団中の1951年、東宝『寳塚夫人』で映画デビュー。1953年に宝塚歌劇団を退団し東宝の専属女優となる。
『浪速の恋の物語』(1959)の共演がきっかけで1961年に俳優の中村錦之助と結婚。人気スター同士の結婚で話題を呼んだそうですが、3年半後に離婚。
理由は「主婦業に疲れたから」。錦之助が次から次へと友人を家に連れてきて泊めるので、応対が大変だったとか。その友人の中には錦之助の『男友達』もいたとかで、いろいろ苦労したみたいです。
現在は、介護付きマンションで一人暮らし、朗読の仕事や講演で忙しい毎日をおくっておられるそうです。
扇千景(1933-~
宝塚音楽学校卒業後、1954年に宝塚に入団。宝塚歌劇団41期生。娘役。1957年に歌舞伎役者の二代目中村扇雀(四代目坂田藤十郎)と結婚のために退団。
1977年、参議院議員に当選。運輸大臣 建設大臣 北海道開発庁長官、国土交通大臣などを歴任後、2004年に参院議長に就任。
私がリアルタイムで知っている彼女は、「私にも写せます」というキャッチフレーズで有名になったインスタント・カメラのテレビCMに出演していた中年の頃とその後の政治家になってからの姿だけで、
数年前に川島雄三監督の『暖簾』(1958)のDVDをみて、若い頃の彼女のあまりの愛らしさ、美しさに衝撃を受けました。扇雀が惚れたのも頷けます。
政治家時代
宝塚出身者の中では、参院議長まで昇りつめた彼女が出世頭でしょう。
現在、活躍中の黒木瞳とか天海祐希などの宝塚出身女優は、映画女優というよりはテレビタレントと呼ぶ方がふさわしいので取り上げませんでした。
これはもちろん、彼女たちのせいではありません。映画産業が衰退して女優の活動の場から映画からテレビ、舞台に移ったということです。
by jack4africa
| 2015-06-02 00:01
| 思い出の女優たち