2006年 10月 16日
稚児灌頂(ちごかんじょう) |
日本仏教の天台宗や真言宗には、古くから稚児灌頂(ちごかんじょう)という秘儀が伝えられていました。
稚児にカンチョーする儀式かって?
違いますヨ! カンチョーじゃなくて、カンジョウ!!
灌頂とは元々は頭の頂きに水をそそぐことを意味し、古くインドにおいて帝王の即位や立太子式に行なわれていた儀式ですが、仏教でもこれをとり入れて、阿闍梨(あじゃり)と呼ばれる高僧が、仏の教えを弟子に印可伝授する儀式となったものです。
ただし、稚児灌頂の儀式はこれとはちょっと違うというか、だいぶ異なります。
これは稚児が高僧と初めてセックスする初夜の前に行なう儀式のことで、あるアメリカ人の研究家は稚児と高僧の婚礼の儀式であるといっています。
かって日本の仏教の僧侶は戒律により女性とのセックスが禁じられていました。
そのため、僧侶たちは、稚児と呼ばれる本来は僧侶の身の回りの世話をする役目の少年を相手にその性欲を満たしていたのです。
少年たちは10歳前後で、僧院に入って稚児となり、師事する高僧から行儀作法、読み書きなどを教わるのですが、数え年で13歳くらいになると、灌頂の儀式を受け、正式に僧侶の「妻」となったのです。
僧侶は、この灌頂の儀式を受けた稚児としかセックスすることが許されず、儀式を受けていない稚児とのセックスは禁じられていました。
平安時代中期の天台宗の高僧、恵心僧都(けいしんそうず)作と伝えられる、稚児灌頂の儀式の式次第が詳しく記されている弘児聖教秘伝(こうちごしょうぎょうひでん)には「稚児は灌頂を受けることで観世音菩薩となり、慈悲をもって一切衆生を救う」と書かれてあるそうです。
灌頂を受ける前の稚児は、ただの子供だからセックスはできないが、灌頂を受けたあとの稚児は菩薩の化身となるので、信仰の対象としての稚児を崇拝し、それと交わることはかまわないということらしいです。
なんか、無理にこじつけているように聞こえますが・・・(笑)
高僧により稚児に灌頂が授けられたあと、いよいよ床入りとなります。
弘児聖教秘伝には、次のような床入りの作法が記されています(稲垣足穂訳「少年愛の美学」より)
大講堂の庭の鐘が初夜をしらせた頃、稚児は湯あみをすませて、華やかな小袖に綸子の帯(帯は女性の場合とは逆に、結びを左脇へ廻す)をしめて、奥の寝床へ案内される。
そこで用意された丁字(香料)を口に入れ、湯呑茶碗の湯を一口飲み、楊枝を使って口をすすぐ。つきそいの童は、手燭を吹き消し、手さぐりで稚児の手に小菊紙をわたして、静かに去る。
稚児は、大和絵の衝立障子をへだてて三尺ほどはなれたところに静かに休んでいる師の僧の衾の左方へにじり寄り、小袖を脱いで添い臥すが、僧が稚児の帯の結びめに手をかけるのを心得て、稚児自身がさりげなく、もの静かに帯を解かねばならない。
このとき、帯の置き場所が師の邪魔にならないように注意する。稚児もまた、そっと僧の帯に手をかける。僧はうなずき、稚児が解こうとするのを、自分から静かに解いていく。僧も解いた帯が稚児の目につかないよう、片隅へ置く。
やがて、僧の左手が稚児の腰のあたりから入ってくると、稚児はしぜん腰をすこし浮かせる。僧がゆっくり手をのばして手枕をすると、稚児のみどり髪が、ちょうど僧のあごのあたりへくる。僧は、稚児の右手をとって自身の胸へつけ、左手が僧の背中へとどくようになる。
初めての夜は、稚児の背より下へ手をまわすのは無礼なこととされており、まして稚児のほうから僧の脚に足をかけるなど、有りうべからざることだが、馴れてからなら、それも苦しくない。
僧が稚児の背を指すときは、稚児は背を向ける。中指とくすり指で臍のあたりを指すとき、稚児は前へ向く。これらの作法は、あらかじめ知っておかなければならない。
ところで、これより先に稚児は湯浴みして、先ず自身の法性花を清浄に洗い、柔らかな紙を揉んで拭い、香油、もしくは唾を指先につけて法性花をよく慣らせ、あとで人差し指と中指と、次に親指と中指とくすり指で誘導しておかねばならない。
(この後、かなり赤裸々な性行為の描写が続きますが、そこはカットします)
こうして無明火が萎えしぼんだときに、本有具足の八葉蓮華に譬えられた、稚児の無垢清浄な法性花は開かれる。それは、仏性の開顕にもひとしい、我性の開眼ともいうことができる。
と最後は結ばれていますが、上でいう法性花(ほっしょうか)は、稚児の肛門を指し、無明火(むみょうか)は、僧侶の陰茎を指します。
しかし、稚児のお尻の穴が開通したことが、なぜ仏性の開顕にもひとしい、我性の開眼になるんですかね。
不信心な私にはさっぱり判りません (--)
参照文献:「少年愛の美学」稲垣足穂
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by jack4africa
| 2006-10-16 22:23