2006年 11月 30日
浄の男道 |
南方熊楠(みなかた・くまぐす)(1867-1941)は18ヶ国語に通暁し、歩くエンサイクロペディア(百科事典)と呼ばれたほどの博覧強記の人物として知られた博物学者、菌類学者、民俗学者です。
子供の頃から神童と呼ばれるほどの驚異的な記憶力を誇り、和漢洋の書物を読み漁り、知識を蓄えますが、根っからの自由人で、勉強は好きだけれど、学校は性に合わず、いわゆる学歴というものはありません。
若干20歳のときに渡米して粘菌類の研究に打ち込み、その後、イギリスのロンドンに移って大英博物館に職を得、Natureなど欧米の有名科学雑誌に積極的に論文を投稿し、欧米の一流学者と対等に議論して負けなかったそうです。
また英国滞在中に中国の革命家、孫文と親交を結んだことでも知られています。
そのへんのことは、南方熊楠の伝記に詳しく書いてあるので、興味がある方はそちらの方を読んでください。
私が今回、ここで南方熊楠を取り上げる気になったのは、彼が少年愛者としても知られていて、「浄の男道」なるものを提唱したからです。
「浄の男道」とはどういうことかというと、実は、私もよく知らないのですが、古代ギリシャの少年愛や昔の日本のサムライの間に流行った衆道など、男同士の単なる肉欲を超えた精神的な愛を意味する、一種のプラトニック・ラブのことらしいです。
南方は浄愛(男道)と不浄愛(男色)を分けて考え、浄愛というのは文字通り、浄らかな(きよらかな)愛で、ただ少年とセックスさえできればよいといった、肉欲だけの不浄な愛とは異なるものであると主張したのです。
熊楠がこの「浄の男道」を唱えるようになった背景には、ある美貌の兄弟との若き日の交友があったといわれています。
その兄弟というのは、熊楠の故郷、和歌山県の和歌山中学の後輩で、熊楠が愛した美少年、羽山繁太郎とその弟の蕃次郎のことです。
羽山家は五人兄弟で、繁太郎はその長男、蕃次郎は次男で、二人とも結核で夭折しています。
熊楠は、この胸を病む羽山兄弟について「ゾッコンの美人なり」と語っていますが、当時は美少年のことも美人と呼んでいたみたいです。
熊楠が渡米する前にこの羽山家の次男の蕃次郎と一緒に撮った写真が残っているのですが、その写真を見る限り、蕃次郎は格別、美少年には見えません。
反対に熊楠の方は、白人と見まごうような、彫りの深い顔立ちの文句なしの美青年です。
ただ、目がおかしいんですね。
「天才となんとかは紙一重」といった目つきをしてるんです。
実際、熊楠は生前、数々の奇行で知られていて、大酒飲みで、酒乱の気があって、すぐに暴力を振るい、裸でいることが好きで、夏、家にいるときはコシマキ一枚で過ごし、粘菌類の採集のために山小屋で暮らしているときは、いつも素っ裸だったといわれています。
熊楠はアメリカに渡る前に、愛する羽山兄弟に別れを告げるために、和歌山県日高郡の羽山家を訪ね、二泊しています。
羽山家を去る日は、長男の繁太郎が熊楠を日高川の河畔まで見送り、お互い何度も振り返って別れを惜しんだといいます。
このとき繁太郎はすでに胸を病んでいて余命は限られ、熊楠の方もアメリカに一度渡ってしまえば、そう簡単には帰って来られないということで、これが今生の別れになるかもしれないという予感が双方にあったのでしょう。
事実、熊楠がアメリカに渡った6年後、熊楠が外国滞在中に、羽山兄弟は相次いでこの世を去ります。
熊楠は「外国にあった日も熊野におった夜も、かの死に失せ足る二人のことを片時忘れず、自分の亡父母とこの二人の姿が昼も夜も身を離れず見える」と書いています。
羽山兄弟が死んだあと、自分の亡き両親の魂と共に、兄弟の魂がいつも自分の傍にいて、彼らの姿を見ることができたというのです。
山の中で粘菌類の採集をしているときも、両親や羽山兄弟の魂の導きによって、珍しい粘菌を発見できたことが何度もあったそうです。
これを熊楠の妄想であると片付けてしまうのは簡単ですが、昔の日本人は、霊魂というものを今よりもずっと身近に感じていたんじゃないでしょうか。
熊楠が渡米前に羽山兄弟に暇乞いするために羽山家に滞在していたとき、偶然、羽山家では女の子が誕生します。
羽山兄弟の齢の離れた妹なのですが、熊楠は40数年後、中年の既婚夫人になっていたこの妹と再会します。
そのとき彼女は、熊楠の傍に幼い頃に死に別れた兄たちがいるような気がするといって泣いたそうです。
彼女も兄弟の魂が熊楠と一緒にいるのを感じたのではないでしょうか。
後に熊楠が熊野に行幸された昭和天皇に粘菌学のご進講を行なうという栄誉に与ったとき、熊楠は彼女に天皇陛下へのご進講がうまく行くように祈ってくれるように頼みます。
それで彼女はご進講が行なわれている間、もう一人の女性と一緒に海岸に座って一心不乱にお経を唱えたそうです。
熊楠と羽山兄弟の間には肉体関係はなかったようですが、もっと深いところ、つまり魂で結びついていたわけですから、肉体関係なんて必要なかったんでしょう。
熊楠は、このような愛の形を浄愛と呼んでいるのですが、私のような凡人には中々、到達しがたい境地です。
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by jack4africa
| 2006-11-30 19:36

