2007年 11月 09日
足利将軍と芸能者たち |
杉本苑子著、「華の碑文」を読みました。
猿楽(能)の大成者で、「風姿花伝」など能に関する多くの著作を残した、室町時代の猿楽師、世阿弥(ぜあみ)元清の生涯を描いた小説です。
私は能についてはまったく素人で、なにも知らないのですが、それでもわざわざこの小説を図書館から借りて読んだのは、この小説には、けっこう赤裸々な男色シーンの描写があると聞いたからです。
実際、読んでみると、それほど大胆な描写はなかったですが、それでも当時の猿楽師など芸能者が舞台で芸を披露する一方で、ときの権力者と男色関係を結び、その庇護を受けていた事実が隠さずに書かれてあり、当時の芸能者が置かれていた状況や権力者との関係がよく理解でき、面白かったです。
このように芸能者が特定の権力者と結びついている状況では、権力者が交代すると、以前の権力者に寵愛されていた芸能者は落ち目になり、新しい権力者の寵愛を受ける別の芸能者の羽振りがよくなるわけで、その結果、政治的な権力の変遷が直接、芸能者と彼が率いる一座の浮沈に影響を及ぼすことになるわけです。
世阿弥が生きた室町時代の権力者は、ご存知、足利将軍で、代々の足利将軍は、猿楽や田楽などの芸能を演じる少年を近くに侍らせて寵愛したことで知られています。
この小説の主人公である世阿弥とその父の観阿弥(かんあみ)が率いる猿楽一座が台頭するきっかけを掴んだのも、京都今熊野権現社の神事能で、観阿弥一座が能を上演したとき、見物していた足利三代将軍、義満(よしみつ)が観阿弥と共に能を舞った当時、藤若と名乗っていた12歳の少年、世阿弥の美貌にひと目惚れしたことにあります。
そのとき、まだ足利義満は17歳でしたが、藤若に対する寵愛があまりに甚だしかったために、将軍に追従する大名、公家、僧侶たちから藤若の下に高価な贈り物が続々と届き、「乞食と変わらない芸人の子供をあそこまで優遇するのは非常識きわまる」と批判の声があがったといいます。
それでも義満は藤若を寵愛し続けるのですが、藤若はその寵愛に奢ることなく、芸を磨き、父、観阿弥が亡くなると、観世太夫を継ぎ、世阿弥を名乗るようになります。
世阿弥の芸人としての絶頂はおそらく、応永15年(1408年)、義満が新築なった北山第にときの天皇、後小松天皇をお迎えして催した花見の宴で、天皇の前で能を演じたときでしょう。
天皇が猿楽能をご覧になるのはこのときが始めてだったそうです。
しかし、この花見の宴からわずか一ヵ月後、義満は病気で急逝してしまいます。
義満は生前、将軍職を嫡男の義持(よしもち)に譲り、後継者争いのゴタゴタを避けるために、義持以外の息子は全員、出家させていました。
しかし、唯一例外として、義持の異腹弟の義嗣(よしつぐ)だけは、いったん出家させたあと還俗させて、この息子を偏愛します。
そのため、義満は、現将軍の義持を引退させて、代わりにこの義嗣を将軍にする気でいるのではないかという憶測が流れます。
そして、その義嗣の寵童になったのが世阿弥の長男、雅元だったのです。
さらに、義満には、出家して僧侶になった義円(ぎえん)という息子がいるのですが、この義円の寵童には、世阿弥の弟の元仲の長男、元重がなります。
つまり、イトコ関係にある雅元と元重が、それぞれ同じ義満の息子である義嗣と義円の寵童になるわけですが、これがその後の二人の運命の明暗を分けることになります。
義満の後を継いだ新将軍、義持は、自分を疎んじた父、義満に対する反発から、義満に寵愛された世阿弥を遠ざけ、代わりに世阿弥のライバルである田楽の増阿弥(ぞうあみ)を贔屓にし、その息子の栄王丸を寵愛します。
その結果、世阿弥の観世座は、義持が将軍の座にいる間は冷遇され、逼塞することになります。
また義持は、義満に偏愛されていた異母弟の義嗣を出家させて、寺院に幽閉したあと、殺してしまいます。
義持は38歳のときに、将軍職を嫡子の義量(よしかず)に譲りますが、義量将軍は酒と女色に溺れ、19歳の若さで病死してしまいます。
義量は跡継ぎに恵まれなかったため、後継の将軍は、残っている義満の息子で出家していた者の中からくじ引きで選ばれることになり、そのくじ引きで奇しくも選ばれたのが、世阿弥の甥の元重が寵愛を受けていた義円だったのです。
義円は還俗して第六代将軍、義教(よしのり)になりますが、自分を出家させた父、義満と義満に偏愛された義嗣に対する恨みから、義満と義嗣の寵愛を受けていた世阿弥とその息子の雅元を御所に出入り禁止にし、自分が寵愛する世阿弥の甥の元重をお抱えの猿楽師として重用するようになります。
この措置に反発した雅元は観世座を離れ、自身の猿楽座を結成しますが、巡業先で客死、次男の元能は出家してしまいます。
さらに世阿弥は義教将軍によって佐渡に流刑にされ、結局、義教に寵愛された甥の元重(後の音阿弥(おんあみ))が観世座を継ぎ、三世観世太夫を名乗ることになるのです。
その後も音阿弥の子、蓮阿弥(れんあみ)が八代将軍、義政(よしまさ)に寵愛されるなど、観世流の猿楽は代々の将軍の庇護を受けていきます。
義政の息子の第九代将軍、義尚(よしひさ)に至っては、観世座の彦次郎という猿楽師を寵愛するあまり、広沢尚正という名前を与えて、一族の武士に取り立てて周囲の顰蹙を買っていますが、
日本を代表する二大古典芸能である能と歌舞伎が両方とも、その創生期に男色と深い関係があったのは非常に興味深いことです。
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by jack4africa
| 2007-11-09 08:21

