2007年 12月 21日
院政期の日本人(4) |
☆後白河院の寵臣たち
後白河天皇(1127~1192)は、久寿2年(1155)に即位、保元3年(1158)に二条天皇に譲位して上皇になってから、二条天皇、六条天皇、高倉天皇、安徳天皇、後鳥羽天皇の5代にわたって院政を敷き、権勢を振るった人物です。
後白河院は、それ以前に院政を行なった白河院や鳥羽院と同様、男女両色を好み、多くの寵臣たちを近臣に取り立てて、側近政治を行なったことから、政治と男色の癒着はこの時代にピークに達します。
以下に後白河院の寵愛を受けた主な人物を紹介します。
● 藤原信頼
藤原信頼は、後白河院が天皇のときから寵愛を受けた近臣です。
天皇による信頼の寵愛は人目もはばからず、周囲から「あさましき程」(「愚管抄」)といわれるほどだったそうですが、そのお蔭で、信頼は、保元2年からわずか2年弱で官位を5段階も昇る異例の出世を遂げます。
さらに寵愛に奢った信頼は、後白河天皇に近衛大将の官職をオネダリするのですが、保元の乱で頭角を現し、事実上、後白河天皇の執政として政治的実権を握っていた藤原信西に阻止されます。
有能なテクノラートである信西からみれば、「文にもあらず、武にもあらず、能もなく、芸もない」(「平治物語」)信頼をそんな高い官職に就けるのは、もってのほかだったのでしょう。
しかし、このことで信頼は信西を深く恨み、同じく信西に冷遇されて不満を抱いていた源義朝を味方に付け、平清盛が熊野詣でに出かけて都を留守にしている間を狙って兵を挙げ、後白河上皇と二条天皇を御所に幽閉するという暴挙に出るのです。
これが平治の乱で、信西は逃亡して自害しますが、熊野から急ぎ都に戻った清盛が上皇や天皇を奪回し、信頼と義朝を相手にした合戦にも勝ちます。敗軍の将となった信頼は加茂の河原で打ち首にされ、義朝は敗走中に味方の裏切りで殺されてしまいます。
この平治の乱で敗れたことで源氏一門は没落し、勝った平氏一門は栄華を極めることになります。
● 藤原成親
平治の乱に勝利した平氏一門は、「平氏にあらずんば、人にあらず」といわれるほどの繁栄を誇るようになるのですが、後白河院とその近臣たちは、このような平氏一門の台頭を快く思わず、鹿ケ谷にあった俊寛僧都の別荘に集って、密かに平氏打倒の陰謀をこらします。
これが安元3年(1171)に起こった鹿ケ谷の謀議で、その首謀者が院の近臣だった西光と藤原成親でした。
藤原成親は、例の「悪左府」藤原頼長とも男色関係を持っていましたが、その後、後白河院の寵臣になって「芙蓉の若殿上人」と呼ばれて、羽ぶりをきかせた人物です。
謀議は、参加者の一人が清盛に密告したお蔭で発覚し、謀議に参加した一味は後白河院を除いて、全員、逮捕されます。
首謀者の西光は拷問の上、打ち首にされますが、同じ首謀者の成親は、清盛の嫡男、重盛の懇願によって命を助けられ、配流になります。
実は、成親は、平治の乱のときも藤原信頼の側についていて、本来、信頼と一緒に打ち首にされるところを重盛の懇願によって罪一等を減じられ、配流になっているのです。
なぜ、重盛がそれだけ成親の助命に熱心に働いたかというと、表面的には重盛が成親の妹を正室にし、重盛の嫡男の維盛が成親の娘と結婚していて、姻戚関係にあったからだということになっていますが、実は重盛と成親は男色関係にあったのだそうです。
この時代の公家には、表の姻戚関係と裏の男色関係という二重の絆を結んでいる例がよくみられますが、これはもちろん政略的なもので、このような絆を結ぶことで、自身と一門の安泰をはかったわけです。
事実、成親の場合はこの「保険」がきいて、二度も重盛に命を助けられることになるのです。
ただし、二度目の配流のときは、清盛の命令で配流される途中で謀殺されてしまいます。
で、話はややこしいのですが、重盛もまた後白河院と男色関係にあったのだそうです。
● 平重盛と資盛
平家物語によると、重盛は、鹿ケ谷の謀議が発覚したときに激怒して、後白河院を捕らえる準備をしていた父、清盛のところに駆けつけて、
「大恩ある上皇に弓を引くとは何事ですか!」
と諫言して、清盛の暴走を食い止めた感心な息子ということになっていますが、もしこの重盛が後白河上皇と男色関係にあったのであれば、重盛にたいする見方もおのずから変わってきます。
後白河院の寵愛を受けていた重盛は、平氏一門では院に一番近い存在で、それゆえ父、清盛と院の仲介役を務めていたのではないかと考えられます。
それからまもなく重盛が40そこそこの若さで病死すると、重盛という仲介役=歯止めを失った清盛は暴走してしまい、クーデーターを起こして後白河院を幽閉してしまうのです。
実は重盛の次男の資盛も院と男色関係にあったそうで、本来は、重盛亡きあとは、資盛が仲介役を引き継ぐべきだったのでしょうが、重盛が亡くなったときにはまだ18歳かそこらで、その任に就くには若すぎたようです。
資盛は、平氏一門が源氏勢に追われて都落ちするときに、後白河院に頼って都に残ろうと画策するのですが、叡山に避難した院と連絡が取れず、泣く泣く都を離れます。
都落ちした後も、院のもとに「君とお別れして悲しくてたまりません。もう一度、都に戻って、是非、お顔を拝見したいです」と未練たらしい手紙を出しています。
● 近衛基通
平家側であったにもかかわらず、後白河院との関係を利用して平家が都落ちしたときに、都に残ることに成功した人間がいます。
安徳天皇の摂政を務めていた近衛基通です。
近衛基通は、悪左府頼長と関白の座を争った忠通の孫にあたる人物ですが、平清盛の娘を正室にし、平氏一族の後押しを受けて、やはり清盛の娘で、高倉天皇の中宮になった建礼門院徳子が生んだ安徳天皇の摂政の地位に就きます。
そのため、平氏一門が都落ちするときには、当然、基通も同行するとみられていたのですが、基通は平氏の支援を受ける一方で、後白河院とも情を通じていて、そのお蔭で平氏が都落ちしたあとも、院の寵臣として都に留まるのです。
基通と仲が悪かった叔父の九条兼実は、院と基通の関係を知って、その日記「玉葉」で「君臣合体の議、これを以て至極となすべきか」と揶揄しています。
● 平業房
平業房も後白河院の近臣の一人で、鹿ケ谷の謀議に連座して捕らえられるのですが、院の再三の要請によって放免されています。
事件に関わった人間の中で放免されたのは、業房ただ一人で、いかに院の寵愛が深かったかよくわかります。
しかし、治承3年(1179)に清盛がクーデターを起こして、後白河院を幽閉したときに流罪に処され、配流先で亡くなります。
この平業房には丹後の局という妻がいたのですが、未亡人となった彼女は後白河院の寵愛を受けるようになり、後白河院の晩年の治世に権勢を振るうようになります。
夫婦共々、寵愛した例は、中国の皇帝にもあるそうですが、後白河院が男女ともにお盛んだったのは、本当だったみたいです。
続く
「昔の日本人」
by jack4africa
| 2007-12-21 00:27