2008年 01月 18日
喝食(かっしき) |
喝食(かっしき)とは、禅寺の僧堂で給仕をする有髪の童子のことをいいますが、禅寺の小僧一般を指して使われることもあるようです。
前回、水上勉「男色」(だんじき)で、小説家の水上勉が、少年の頃、京都の禅寺で小僧として修行した話を紹介しましたが、水上は回想録で、自分は喝食になったと語っています。
禅宗は、鎌倉時代初期に中国から日本に伝えられ、主に武家階級の信仰を集め、鎌倉時代末期には次々と大寺院が建設されます。
鎌倉幕府は、宋の五山制度にならい、鎌倉の最も格式の高い五つの禅寺、五山を制定し、官寺として幕府の保護、統制化に置くようになります。
鎌倉幕府のあとを継いだ室町幕府も、足利尊氏をはじめ代々の将軍が禅宗に帰依していたことから、京都に五山を制定します。
これら五山の僧侶は、中国文化に通じ、漢文をよくしたことから、宋や明との交易に際しては、外交文書を起草するなどして幕府に協力するのですが、それにともなって、鎌倉時代末期から室町時代に、五山の禅僧による漢文学が盛んになり、これを五山文学と呼びます。
喝食に話を戻しますと、当初は、寺の僧堂で給仕をしたり、僧侶の身の回りの世話をするのが仕事でしたが、そのうち、他宗派の寺院の稚児と同様、僧侶の男色の相手も務めるようになります。
喝食になるのは、武家の子弟が多かったそうですが、喝食が男色の対象になるにつれて、容貌に優れた少年であれば、階級に関係なく喝食に採用されるようになり、しまいには美貌の少年をさらってきて、男色用の喝食として寺院に売る人買いも現れるようになったといいます。
このような男色の対象となった喝食は、髪型が異なるだけで、他宗派の寺院の稚児と同様、美しい色彩のあでやかな衣服をまとい、顔には白粉を塗って化粧していたそうです。
「足利将軍と芸能者たち」に書いたように、代々の足利将軍には男色趣味の傾向が強く、世阿弥など猿楽の芸能者だけでなく、禅寺の喝食もまたその対象となりました。
禅宗に帰依した足利家の将軍たちは、しばしば五山の禅寺を訪問したそうですが、そういうときには、寺院の方ではとびっきりの美少年の喝食を用意して、給仕として侍らせたといいます。
そのような喝食で将軍のめがねにかなった少年は、御所に連れていかれて将軍の寵愛を受けたそうですが、そのような喝食を出した寺院は、それを光栄として喜んだそうです。
また地方の大名なども、自分の子弟をこれらの禅寺に喝食として出仕させて、あわよくば、将軍来訪のおりに将軍の目にとまって、将軍の寵愛を受けるようになることを願ったそうです。
当時の禅寺は男色好きの将軍のための美少年供給センターも兼ねていたということになりますが、男色の習慣が僧侶だけでなく、武家階級にも深く浸透していたこの時代にあって、それを異常と感じる人間はいなかったようです。
禅寺と男色の関係がいかに深かったかは、五山文学と呼ばれた、禅僧によって作られた漢詩や漢文の中に禅僧が喝食に送った艶詩艶文が多数、含まれていることからも明らかです。
艶詩艶文というのは、少年の美しさを讃えた漢詩や漢文の艶書(ラブレター)のことで、このような艶書が多数、書かれたということは、僧侶が喝食を単なる性欲の捌け口とはみなさず、ロマンチックな恋愛の対象としてみていたことを表しています。
また喝食たちが自分に送られた難解な漢詩や漢文を読みこなすだけの教養を身につけていたことも示しています。
このような艶書では、僧侶が愛する渇食と性的関係をもつことを「交義」あるいは「義を交わす」と呼んだそうですが、このような大仰な呼び方からも、僧侶が渇食との関係において精神性を重視していたことが窺えます。
もちろんこれはあくまでもタテマエであって、中には意地汚く少年の尻を追いかけまわす坊主もいたでしょうが、だからといって、日本の過去の歴史における仏教の僧侶と稚児や渇食の関係が肉欲一辺倒で、精神的な要素に欠けていたとみなすのも誤りだと思います。
ちなみにアニメの「一休さん」でお馴染みの一休禅師も美少年を愛し、
少年十五、月出づるが如し、一笑の紅顔、花開くに似たり、
などという艶詩を残しています。
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by jack4africa
| 2008-01-18 08:18

