2008年 01月 25日
足利将軍と寵臣たち (2) |
嘉吉の乱によって赤松家は滅び、赤松家の所領であった播磨、備前、美作はすべて、赤松満祐を討った功労者である山名持豊(宋全)に帰しますが、その結果、山名氏の勢いが盛んになります。
それをこころよく思わない管領家の細川成之は、山名氏の勢いを削ぐために、赤松満祐の甥の赤松則尚(のりなお)を立てて、赤松家の再興をはかります。
細川成之の要請を受けた、ときの将軍、足利義政は、赤松則尚の出仕をかなえさせた上に、山名氏の播磨の領地までも旧に復すべき許可を与えてしまいます。
義政という人は、もともと政治に興味がない人で、トラブルの種になるような命令を家臣のいいなりに簡単に出してしまうんですよね。
江戸時代の読本作家、滝沢馬琴は、義政が赤松則尚の出仕を許したのは、赤松則尚が美少年で、義政と男色関係にあったからだといっていますが、二人の生年を調べてみると、義政が永享8年(1436年)、則尚が応永28年(1425年)で、則尚の方が9歳も年上です。
則尚の少年時代には義政はまだ将軍にもなっていない子供だったわけで、この馬琴の説はあまり信憑性がないように思えます。
もしかしたら、馬琴は、則尚を後述する赤松政則(まさのり)と混同していたのかもしれません。
いずれにせよ、将軍、義政のこの軽率な決定は、播磨を所有していた山名持豊の憤激を買い、持豊は、直ちに兵をおこして播磨の赤松氏を襲い、赤松則尚を自害させてしまいます。
赤松則尚が山名氏と戦って敗れ、自害したあと、赤松家の旧臣たちが、後南朝勢力に奪われていた神爾(皇位継承の印である三種の神器)を奪回するという功績を挙げます。
この功績によって、幕府は赤松家の再興を許可することになるのですが、このときも、山名氏と対立する管領家の細川勝元が赤松家を強力にプッシュします。
細川勝元が赤松家の復興を後押ししたのは、ライバルである山名持豊を牽制するのが目的ですが、赤松家の家督を継いだ赤松政則(赤松満祐の弟の赤松義雅の孫)が大変な美少年で、勝元が彼に惚れこんでいたからだという説もあります。
赤松政則は後に細川勝元の娘と結婚して娘婿になっていますが、この時代、大名が自分の男色相手だった若者を自分の娘と結婚させるのは、めずらしいことではありません。
さらに赤松政則は、細川勝元だけでなく、将軍、義政にも寵愛され、政則の名前は、義政の「政」の一字をもらって付けたものだといわれています。
則尚と違って、政則は年齢からいっても義政と釣り合いますし、政則が美少年好きの義政と男色関係にあった可能性は十分、あると思いますね。
義政は、赤松家の再興を許して、赤松政則を加賀国の守護に任命するのですが、この義政の措置は当然のことながら、山名持豊を怒らせることになり、持豊と政則の後見人である細川勝元の対立を一層、激化させることになります。
細川、山名の両氏は、その後も、足利将軍家の後継争いや細川氏と並ぶ管領家である斯波氏と畠山氏の家督継承争いでもことごとく対立します。
そして畠山氏の家督を争っていた畠山正長と畠山義就(よしなり)の武力衝突がきっかけになって、各地の守護大名が、細川勝元を総大将とする東軍と山名持豊を総大将とする西軍に別れて戦う応仁の乱が始まるのです。
赤松政則は当然、東軍の細川勝元の側に立って参戦するのですが、応仁の乱を長引かせた張本人は、赤松政則だといわれています。
戦いが始まって六年後の文明四年(1472年)、西軍率いる山名持豊から和平提案がなされるのですが、赤松政則が強硬に反対した結果、和平案は流れてしまうのです。
政則の目的は、応仁の乱にかこつけて、嘉吉の乱によって山名持豊に奪われた赤松家の所領、播磨、備前、美作三国を奪回することであって、この時点ではまだその目的を達していなかったために、和平に強硬に反対したのです。
その翌年、文明五年には、西軍と東軍の総大将の山名勝豊と細川勝元が相継いで亡くなり、勝豊の後を継いだ孫の政豊と勝元の後を継いだ嫡男の政元の間で和議が結ばれます。
しかし、赤松政則はその後も戦い続け、最終的に播磨、備前、美作三国の奪回に成功するのですが、11年も続いた応仁の乱が終わったときには、幕府の権威は完全に失墜し、実力のある家臣が主君を倒して大名になる下克上の世の中になっていて、
政則が必死で回復した赤松家の所領も、政則の息子の義村の代に、家臣の浦上氏によって奪われてしまうのです。
参照文献:岩田準一著「本朝男色考」

②六代将軍、義教と男色関係
③六代将軍、義教を暗殺
④八代将軍、義政と男色関係(?)
⑤八代将軍、義政および管領、細川勝元と男色関係(?)
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by jack4africa
| 2008-01-25 00:47

