2008年 02月 08日
ミシェル・グリーン 「地の果ての夢、タンジール」 (1) |
ミシェル・グリーン著、「地の果ての夢、タンジール」は、1940年代後半からモロッコのタンジールに住みついたアメリカのホモセクシュアルの作家、ポール・ボウルズ(1910-1999)とそのレスビアンの妻、ジェイン(1917-1972)を中心に、当時、タンジールに住みついていた多種多様な欧米人の生態を描いたノンフィクション作品です。
タンジールは、1912年にモロッコがフランス保護領とスペイン保護領に分割されたとき、欧米列強が共同で管理する国債管理地帯(インターナショナル・ゾーン)という特別な地位を獲得します。
第二次大戦後、タンジールにやってきた外国人にとって、そこは謎めいていて、異国情緒にあふれ、甘美に堕落したエデンの園のような地でした。
タンジールでは、殺人と強姦以外は何をしても許されるという風潮がはびこり、同性愛が容認され、ドラッグも容易に手に入り、風変わりであることは社会的に長所とされていたのです。
そのため、当時の抑圧的な西洋文化に適応できない欧米人たちが自由を求めてタンジールに流れ込んできたのですが、その中には多くの同性愛者が混じっていました。
60年代後半にアメリカでゲイリブの運動が始まるまで、アメリカやイギリスでは同性愛は犯罪行為とみなされていたのに対して、モロッコ人は同性愛に対して驚くほど寛大で、しかも男性の殆どが男女両方とセックスできるバイセクシュアルだったからです。
タンジールには、女性の売春宿だけでなく、少年の売春宿もありましたが、わざわざ売春宿に行かなくとも、街には、喜んで欧米人ホモの相手をする少年や若者があふれていました。
貧しいモロッコの青少年にとっては、金持ちのナザレン(キリスト教徒)と寝て、その庇護を受けることが貧困から脱出する唯一の手段だったのです。
ボウルズ夫婦がタンジールに落ち着いてから、トルーマン・カポーティ、テネシー・ウイリアムス、ウイリアム・バロウズ、ブライオン・ガイシン、アレン・ギンズバーグ、ジャック・ケルレアック、等、多くのアメリカの詩人や作家がタンジールに集ってきます。
ジャック・ケルレアックを除けば、全員、同性愛者です。
タンジールにやってきたアメリカ人作家の中で、ひときわ目立つ存在だったのがウイリアム・バロウズ(1914-1997)です。
アメリカ中西部の裕福な家庭に生まれたウイリアム・バロウズは、ハーバード大学卒業後は定職に就かず、各地を転々としながら、売れない小説を書いていました。
NYでは麻薬に溺れ、ビートニクの詩人、アレン・ギンズバーグや作家のジャック・ケルレアックと知り合います。
バロウズは当時、17歳だったギンズバーグに恋しますが、ギンズバーグはバロウズに対して精神的な友情は抱いたものの、ガリガリに痩せて注射針の跡だらけのバロウズの身体には性的魅力を感じることができず、バロウズとセックスすることを拒絶します。
その後、バロウズは、ドラッグ好きの若い女性と結婚し、幻覚剤や麻薬を求めて、中米や南米を旅行するのですが、妻と一緒にメキシコ・シティーに行ったとき、
知り合いのアメリカ人の家で開かれたパーティーの席で、ウイリアム・テルを気取って、妻の頭の上に載せたカクテル・グラスめがけて、至近距離からピストルを撃ち、手元が狂って妻を射殺してしまいます。
バロウズは、刑事上の罪に問われて逮捕されますが、保釈中にポール・ボウルズの小説「シェルタリング・スカイ」を読んで、自分の行くべきところはタンジールであると確信します。
バロウズは1954年にタンジールに到着しますが、タンジール在住のスノッブな欧米人たちは、ネズミみたいな顔をした貧相な風体の麻薬中毒患者であるバロウズを、自分たちの仲間に入れることを拒み、バロウズが憧れていたポール・ボウルズも彼にたいして冷淡な態度をとります。
その結果、バロウズは、タンジールで孤立することになるのですが、それでもタンジールを離れようとはしませんでした。
タンジールでは、彼が大好きな二つのもの:麻薬と少年が簡単に手に入ったし、物価が非常に安く、両親が毎月、送ってくれる200ドルで麻薬代と少年を買う金と生活費が十分にまかなえたからです。
タンジールに滞在するようになってからしばらくたって、バロウズはやっとポール・ボウルズの家に食事に招待され、彼とゆっくり話をする機会を持つのですが、ボウルズは、バロウズが見かけによらず才気煥発な話の面白い人間であることを発見します。
それ以後、バロウズはボウルズ夫婦の友人になるのですが、寂しがり屋の彼は、アレン・ギンズバーグとジャック・ケルレアックに自分に会いにタンジールに来るように懇願します。
最初にやってきたのはジャック・ケルレアックで、ケルレアックは、バロウズがドラッグをやりながらハイになった状態で書き散らかした原稿を読んで面白いと感じ、小説として出版することを勧めます。
この小説に「裸のランチ」というタイトルをつけたのはドルレアックです。
ドルレアックと入れ違いにタンジールにやってきたアレン・ギンズバーグは、バロウズのこの原稿をタイプで清書し、適当につなぎあわせて、小説としての体裁を整えます。
ギンズバーグの尽力で出版された「裸のランチ」は、欧米でセンセーションを巻き起こし、バロウズは一躍、ビートニクを代表する作家に祭りあげられます。
「裸のランチ」の成功後、しばらくヨーロッパやアメリカに滞在していたバロウズは、1963年に彼の信奉者である二人の美少年を伴ってタンジールに戻ってきますが、
そのときは、もうネズミ男とあだ名されたかってのジャンキーではなく、ビートニクとそれに続くヒッピーの若者たちの教祖になっていて、バロウズのタンジールの家には、彼の崇拝者である欧米人の若者が巡礼にやってくるようになるのです。
1997年にバロウズが死んだとき、新聞の片隅に載った小さな死亡記事で、バロウズが「ありとあらゆる種類の麻薬を試した」完全なジャンキーであったにもかかわらず、83歳まで長生きしたこと、晩年は、彼に似つかわしくない保守的なアメリカ中西部のカンサスに住んでいたことを知って、驚いたのを覚えています。
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by jack4africa
| 2008-02-08 00:18

