2008年 07月 15日
マムルーク:白人奴隷 |
蒙古軍を撃退したマムルークの英雄、バイバルス(画像左)マムルークはアラビア語で「所有される者」、すなわち「奴隷」を意味する言葉ですが、普通はイスラム世界で活躍した白人奴隷出身の軍人を指します。
ここでいう白人奴隷の「白人」には、サハラ以南の黒人以外のトルコ人、カフカス人、モンゴル人、アルメニア人、ギリシャ人、スラブ人などが含まれます。
異教徒出身の白人奴隷を軍人として用いる制度はバグダードに都を置いたアッバース朝のときに、中央アジアのトルコ系遊牧民の奴隷を購入して、カリフ(君主)直属の私兵にしたのが始まりといわれています。
アラブ人やペルシャ人の軍人を差し置いて、わざわざトルコ系遊牧民の奴隷を軍人として重用したのは、これらトルコ系遊牧民が幼い頃から乗馬に慣れ親しんでいて、騎射に優れていて、素朴で主君にたいする忠誠心が篤かったからだといわれています。
しかし、軍事力をマムルークに依存する度合いが高まるにつれて、マムルーク自身が徐々に権力を持つようになり、地方で軍閥を形成したり、中央でカリフに代わって政治の実権を担ったりするようになります。
このへんの経緯は、当初は有力貴族の私兵にすぎなかった武士たちが、平安朝末期に相次いで起った保元の乱や平治の乱などの戦乱をとおして徐々に力を蓄えていき、最終的には、有力な武家の棟梁が将軍となって朝廷から政権を奪い取った日本とよく似ています。
日本では1192年に最初の武家政権である鎌倉幕府が誕生しますが、エジプトでは1250年にエジプトに攻め込んだフランス王、ルイ9世率いる十字軍を破ったマムルークが政権を奪取し、マムルーク朝、別名、奴隷王朝を開きます。
奴隷出身の金髪や赤毛の白人がエジプトの支配者になったのです。
マムルークは当初、戦争捕虜の中から選ばれたそうですが、マムルークの需要が高まるにつれて、戦争捕虜だけでは供給が追いつかなくなり、奴隷商人がウズベグ、タブリーズ、ルーム、バグダッドなどに赴いて奴隷の少年を買い求めるようになります。
ウズベグ地方ではトルコ人やスラブ人、モンゴル人などのマムルークが集められ、タブリーズはチェルケス人やアルメニア人奴隷の集積地になり、ビザンチン帝国領のルームからはギリシャ人マムルークがもたらされ、バグダードには奴隷取引のための大規模な奴隷市場が開設されたといいます。
バルカン半島もマムルークの供給地として知られ、遠くハンガリーからも少年奴隷が連れてこられたそうです。
ということはBel Amiのヨハン君みたいな美少年もいたんでしょうね。
セバスチャンとか(笑)
ここで注目すべきは、少年達の親が喜んで息子を奴隷商人に売ったという事実です。
奴隷といっても、将来はエリート軍人になる道が開かれていて、中には君主の地位にまで昇りつめる者もいたわけですから、少年の親としては、息子を奴隷に売るというより、奉公に出す感覚に近かったんじゃないでしょうか。
また少年を買った奴隷商人と買われた少年の間には、義理の親子にも似た親密な関係が生涯、続いたといいますから、同じ奴隷取引といっても、ヨーロッパ人が、太平洋を挟んでアフリカ大陸とアメリカ大陸を結んで行なった非人道的な黒人の奴隷貿易とはまったく性質の異なるものだったといえるでしょう。
スルタン(君主)やアミール(軍の指令官)によってマムルークとして購入された少年たちはスルタンやアミールの設立した教育施設に入れられて、イスラム教に改宗させられ、コーランとアラビア語、イスラム法の基礎、礼拝や祈祷の作法などを教えられたあと、乗馬、弓射、槍術などの軍事訓練を受けました。
軍事学校では、マムルークの少年たちの監督には宦官があたったそうです。
宦官が少年達の監督者になったのは、マムルークの少年達と監督者の間に同性愛関係が発生するのを防止するためだったそうですが、当時からイスラム世界では、女性と共に少年も成人男性の性愛の対象になっていたことが窺えます。
実際、マムルークの供給地である地方からは少女の白人奴隷も購入されており、彼女たちはスルタンやアミールのハレム(後宮)に入れられて、やはり宦官に監督、監視されたのです。
このような防止措置がとられたにもかかわらず、マムルークの間では同性愛が盛んに行なわれていたといいます。
性欲が一番強い年頃の青少年を女性から完全に隔離して兵舎に閉じ込めておけば、彼らの間で同性愛関係が発生するのは自然の成り行きですし、また古代ギリシャの戦士や日本のサムライ、ニューギニアの首狩り族など、古今東西、勇猛な戦士として知られる種族には戦士間の同性愛はつき物です。
さらにマムルークの場合、女性と結婚して子供を作ることにそれほどメリットがないという特殊な事情が存在しました。
世襲による有力なマムルーク一族の出現を防止するために、マムルークの身分は一代限りとされ、その身分や財産を自分の子供に相続させることを禁じられていたのです。
またイスラム教の観点からいっても、マムルークの息子をマムルークにすることはできませんでした。
イスラム世界では原則としてイスラム教徒を奴隷にすることはできず、マムルークの場合は、奴隷として買われた時点ではキリスト教徒などの異教徒だったので奴隷にできたのですが、
その後、イスラム教に改宗するので、その息子は生まれつきのイスラム教徒ということになり、彼らをマムルーク(奴隷)にすることはできなかったのです。
またマムルークが子供を作らなくても、新しくマムルークとなる異教徒の少年たちは定期的に非イスラム地域から供給されたので、マムルークの後継者が不足することもありませんでした。
マムルークが権力を掌握してスルタンとなったマムルーク朝でも、スルタンの位は世襲制ではなく、スルタンが死ぬたびに有力なマムルークの間で血で血を洗う後継者争いが繰り広げられ、その闘いに勝利したマムルークが次のスルタンになったといいます。
マムルークのスルタンたちがカイロの町に現在も多く残るモスクやマドラサ(学校)を建設したのは、財産を息子に譲れないので、モスクやマドラサを建てて、息子をその運営財団の理事長にして、経済的な保障を与えるためだったといわれています。
この特異な奴隷軍人であるマムルークは町に出て酔っ払って乱暴を働いたりすることが多かったので、カイロ市民の恐怖の的だったそうですが、いざというときには、エジプトを外敵から守ってくれる頼もしい存在でした。
実際、エジプトのマムルークは、バグダードのアッバース朝を攻め滅ぼした蒙古の軍勢を瀬戸際で食い止め、キリスト教徒の十字軍もエジプトやシリアの地から追い払ったのです。
マムルークは勇敢で誇り高く、日本の武士道に似た騎士道精神を持ち、一対一の白兵戦を好み、日本のサムライと同様、鉄砲を卑怯な飛び道具として嫌いました。
この銃火器にたいする軽蔑とその軽視が後のマムルークの凋落の原因となります。
1516年にオスマンとルコと戦ったとき、オスマントルコの火器で武装した奴隷軍団イェニチェリに敗北してしまうのです。
この敗北の結果、マムルーク朝は滅び、エジプトはオスマン帝国の領土の一部になりますが、マムルークはそのままエジプトの支配者として留まります。
次にエジプトを侵略したのはナポレオンのフランスで、有名な「ピラミッドの戦い」で、近代装備のフランス軍に中世の騎士そのままの武装で立ち向かったマムルークはフランス軍の圧倒的な火砲を前にして、なすすべもなく完敗してしまいます。
近代戦を戦うにはマムルークの装備や戦法は、あまりにも時代遅れになっていたのです。
「イスラム世界を外敵から守る」。それがマムルークに課せられた任務でした。
その任務の遂行に失敗したとき、マムルークの存在意義は失われたのです。
わずかに残ったマムルークの残党も、1811年に、フランス軍が去ったあとエジプトの支配者となったオスマントルコの傭兵隊長あがりのモハメッド・アリの罠にかかって皆殺しにされてしまいます。
これにより、アッバース朝の時代から1000年にわたってイスラム世界で活躍した、勇猛を謳われたマムルークは歴史の舞台から完全に姿を消してしまうのです。
参照文献:
マムルーク、佐藤次高
Islamic Homosexualities by Will Rascoe
「世界男色帯」
by jack4africa
| 2008-07-15 00:21

