2008年 08月 22日
鉱山の妻たち |
鉱夫たちの日常風景
19世紀後半に南アフリカで豊富な埋蔵量を誇るダイヤモンド鉱山や金鉱が発見されると、これらの鉱山で鉱夫として働くために多くの黒人労働者が移住してきました。
これらの黒人労働者は、妻子を故郷の村に残して単身、出稼ぎにきていたのですが、彼らが鉱夫として働く鉱山では、鉱夫たちが一時的に少年と結婚して夫婦として暮らすという特異な習慣が広まりました。
この南アの鉱山における男同士の結婚の習慣は、20世紀初頭には完全に制度化され、結婚に伴う細かい規則も制定されて、鉱山の白人経営者と黒人鉱夫たちの調整役として働く、黒人の中間管理職によって管理されていたそうです。
鉱夫と結婚する少年妻の年齢は12、3歳から19歳くらいまで、中には20歳を過ぎた「妻」もいたそうですが、大半は20歳を過ぎると妻であることを卒業して鉱夫になり、自分の妻となる少年を見つけて結婚したといいます。
鉱夫は、自分の妻にしたい少年を見つけると、やはり鉱夫として働いているその少年の長兄に「花嫁代」を支払って少年と結婚し、結婚披露宴を開いて、少年との結婚を仲間に公表したそうです。
少年妻は、女性の妻と同様、料理、洗濯、掃除などの日常の家事をこなし、夜は夫とベッドを共にして、その欲望を満たしました。
セックスの体位は「夫」が自分のペニスを少年妻の太ももの間に挿入する「素股」がメインで、アナル・セックスは一般的ではなかったそうです。
少年妻はパーティーのときなど、詰め物をしたブラジャーを身につけて踊ったりしたそうですが、日常生活では女装はせず、ごくフツーの少年の格好をしていたといいます。
ただし、髭を生やすことは禁止されていたそうです
夫にとってベッドの中で自分の女房が髭を生やしているのを見るのは、やはり興ざめだったのでしょう。
「鉱山の妻」になりたがる少年は多く、少年妻を見つけるのはむつかしくなかったといいます。
鉱夫の妻になると、夫である鉱夫から花嫁代に加えて、家事やセックスなど妻としての労働に対する報酬も得られ、また多くの鉱夫は、少年妻に気に入られるために、彼らが欲しがる洋服や自転車などの贅沢品を気前よく買い与えたからです。
中には将来、故郷の村に帰って女性と結婚するための「花嫁代」を稼ぐために、鉱山の妻になった若者もいたそうです。
彼らは夫になるために、まず妻になったのです!
鉱夫の夫と少年妻の間では、男女の夫婦と同様、夫婦喧嘩や浮気も起ったそうで、ときには離婚にいたるケースもあったといいます。
離婚の原因は、その大半が少年妻がほかの鉱夫と恋に落ちて、心移りすることにあったそうで、鉱夫の夫としても、少年妻の心を繋ぎとめておくために、少年妻の欲しがるモノをプレゼントしたりして、少年妻のご機嫌をとる必要があったみたいです。
少年妻が20歳を過ぎて一人前の鉱夫になったときに、それまで夫だった鉱夫と一緒に夫か少年妻のどちらかの故郷の村に里帰りする習慣もあったそうで、彼らは故郷の村で親族や村人達から歓待されたといわれています。
このことは故郷の村ではだれもが「鉱山の妻」の制度を知っていて、それを容認していたことを意味します。
村人にとって、鉱山に働きに行くことは、鉱夫になるか、それとも鉱夫の妻になるかのどちらかであり、中には鉱夫として働く自分の夫が女性と浮気しないように監視させる目的で、知り合いの少年を少年妻として夫に同伴させた妻もいたといいます。
この「鉱山の妻」の制度はかなり最近まで続いていたとのことですが、近代化に伴う農村地域の村落共同体の崩壊によって、
かっては単身赴任していた鉱夫たちが、鉱山の近くにできたスラムに故郷の家族を呼び寄せて一緒に暮らすようになってから、徐々に廃れていったそうです。
そういう意味では、「鉱山の妻」の制度は、刑務所や軍隊など男だけの集団で、一時的に少年を女性の代用品として使用する制度であったとみなすことができますが、
そのような見方に真っ向から異議を唱えるのが、自身、「鉱山の妻」ならぬ「刑務所の妻」になった経験をもつ南アの人権活動家、ザッキー・アクマットです。
アクマットにいわせると、鉱夫が少年とセックスしたのは、もっと単純で明快な理由、「少年とセックスするのが好きだった」からなんだそうです。
スワジ族の男同士のセックスに書いたように、南アフリカの多くの部族では、思春期の少年たちの間にホモセックスの習慣が存在し、そのような習慣は通過儀礼の一種として村落共同体の成員から認められていました。
このような男同士の「友情」が思春期を過ぎて成人に達しても継続することも珍しくなかったといいます。
そのため、多くの黒人部族の男にとって男同士のセックスは抵抗がないどころか、むしろ好まれていたというのです。
「鉱山の妻」のそもそもの起源は、南アフリカでダイヤモンドや金の鉱山が発見され、大規模な黒人労働者の移住が起った1890年代に、ヨハネスブルグ南方の丘陵地帯を根城にしていた反体制的なギャング団、
「丘の連隊」のズールー族出身の首領、ノンゴローザ・マテブラが、ギャング団のメンバーに女性とセックスすることを禁じ、年長のメンバーに新入りの若い男や少年を「妻」として割り当てたことにあるといわれています。
ノンゴローザがなぜ、そのような措置をとったのか、はっきりしませんが、当時の南アでは鉱山労働者として大量の黒人男性が流入した結果、黒人男性の比率が黒人女性と比較して極端に高くなったことと、
女性の売春婦は性病持ちが多く、性病を防止するために男同士のセックスを奨励したという背景があったみたいです。
ノンゴローザは1900年に逮捕されますが、彼の組織は拡大を続け、その少年妻の制度は逮捕されたギャング団のメンバーによって刑務所に伝えられ、その後、鉱山のキャンプに伝わったといわれています。
刑務所では、鉱山と同様、少年妻が制度化され、「丘の連隊」のメンバーによって厳格に管理されていたそうです。
前述の南アの人権活動家、ザッキー・アクマットは、1978年、16歳のときに反アパルトヘイト活動を行なった罪で政治犯として逮捕され、刑務所に収監されます。
彼はまず最初に雑居房に入れられるのですが、そのとき、刑務所内の「規則」に従って、その雑居房のボスである古参ギャングの少年妻になります。
ザッキーは、刑務所内で「夫」とおこなったセックスについて、次のように回想しています。
刑務所に入る前、丘陵地帯にいたときから、すでに男同士のセックスが日常的に行なわれていたことを明言しています。
元々、南アフリカの黒人の間では男同士の結婚はめずらしくなく、1950年代には、ダーバン近郊の黒人居住区「ムクンバニ」では、平均して月に1回の割合で男同士の結婚式が挙げられていたといいます。
結婚式では「新婦」は、西洋式の純白のウェディング・ドレスに身を包むか、または伝統的なズールー族の花嫁衣裳を身につけていたそうです。
「新郎」の中には、すでに女性の妻を何人かもっている男性もいたそうですが、彼の女性の妻たちは、男性の妻は子供を産まないのでライバルにならないことから、
自分の夫が女性よりも男性と結婚することを歓迎し、新しい男性の妻を自分達の「シスター」として受け入れたといいます。
アメリカでゲイリブの運動が起こる何十年も前に、南アの黒人社会では、男同士のセックスはもちろんのこと、男同士の結婚さえもごく自然に受け入れられていたのです。
参照文献:Boy Wives and Female Husbands by Will Rascoe
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19世紀後半に南アフリカで豊富な埋蔵量を誇るダイヤモンド鉱山や金鉱が発見されると、これらの鉱山で鉱夫として働くために多くの黒人労働者が移住してきました。
これらの黒人労働者は、妻子を故郷の村に残して単身、出稼ぎにきていたのですが、彼らが鉱夫として働く鉱山では、鉱夫たちが一時的に少年と結婚して夫婦として暮らすという特異な習慣が広まりました。
この南アの鉱山における男同士の結婚の習慣は、20世紀初頭には完全に制度化され、結婚に伴う細かい規則も制定されて、鉱山の白人経営者と黒人鉱夫たちの調整役として働く、黒人の中間管理職によって管理されていたそうです。
鉱夫と結婚する少年妻の年齢は12、3歳から19歳くらいまで、中には20歳を過ぎた「妻」もいたそうですが、大半は20歳を過ぎると妻であることを卒業して鉱夫になり、自分の妻となる少年を見つけて結婚したといいます。
鉱夫は、自分の妻にしたい少年を見つけると、やはり鉱夫として働いているその少年の長兄に「花嫁代」を支払って少年と結婚し、結婚披露宴を開いて、少年との結婚を仲間に公表したそうです。
少年妻は、女性の妻と同様、料理、洗濯、掃除などの日常の家事をこなし、夜は夫とベッドを共にして、その欲望を満たしました。
セックスの体位は「夫」が自分のペニスを少年妻の太ももの間に挿入する「素股」がメインで、アナル・セックスは一般的ではなかったそうです。
少年妻はパーティーのときなど、詰め物をしたブラジャーを身につけて踊ったりしたそうですが、日常生活では女装はせず、ごくフツーの少年の格好をしていたといいます。
ただし、髭を生やすことは禁止されていたそうです
夫にとってベッドの中で自分の女房が髭を生やしているのを見るのは、やはり興ざめだったのでしょう。
「鉱山の妻」になりたがる少年は多く、少年妻を見つけるのはむつかしくなかったといいます。
鉱夫の妻になると、夫である鉱夫から花嫁代に加えて、家事やセックスなど妻としての労働に対する報酬も得られ、また多くの鉱夫は、少年妻に気に入られるために、彼らが欲しがる洋服や自転車などの贅沢品を気前よく買い与えたからです。
中には将来、故郷の村に帰って女性と結婚するための「花嫁代」を稼ぐために、鉱山の妻になった若者もいたそうです。
彼らは夫になるために、まず妻になったのです!
鉱夫の夫と少年妻の間では、男女の夫婦と同様、夫婦喧嘩や浮気も起ったそうで、ときには離婚にいたるケースもあったといいます。
離婚の原因は、その大半が少年妻がほかの鉱夫と恋に落ちて、心移りすることにあったそうで、鉱夫の夫としても、少年妻の心を繋ぎとめておくために、少年妻の欲しがるモノをプレゼントしたりして、少年妻のご機嫌をとる必要があったみたいです。
少年妻が20歳を過ぎて一人前の鉱夫になったときに、それまで夫だった鉱夫と一緒に夫か少年妻のどちらかの故郷の村に里帰りする習慣もあったそうで、彼らは故郷の村で親族や村人達から歓待されたといわれています。
このことは故郷の村ではだれもが「鉱山の妻」の制度を知っていて、それを容認していたことを意味します。
村人にとって、鉱山に働きに行くことは、鉱夫になるか、それとも鉱夫の妻になるかのどちらかであり、中には鉱夫として働く自分の夫が女性と浮気しないように監視させる目的で、知り合いの少年を少年妻として夫に同伴させた妻もいたといいます。
この「鉱山の妻」の制度はかなり最近まで続いていたとのことですが、近代化に伴う農村地域の村落共同体の崩壊によって、
かっては単身赴任していた鉱夫たちが、鉱山の近くにできたスラムに故郷の家族を呼び寄せて一緒に暮らすようになってから、徐々に廃れていったそうです。
そういう意味では、「鉱山の妻」の制度は、刑務所や軍隊など男だけの集団で、一時的に少年を女性の代用品として使用する制度であったとみなすことができますが、
そのような見方に真っ向から異議を唱えるのが、自身、「鉱山の妻」ならぬ「刑務所の妻」になった経験をもつ南アの人権活動家、ザッキー・アクマットです。
アクマットにいわせると、鉱夫が少年とセックスしたのは、もっと単純で明快な理由、「少年とセックスするのが好きだった」からなんだそうです。
スワジ族の男同士のセックスに書いたように、南アフリカの多くの部族では、思春期の少年たちの間にホモセックスの習慣が存在し、そのような習慣は通過儀礼の一種として村落共同体の成員から認められていました。
このような男同士の「友情」が思春期を過ぎて成人に達しても継続することも珍しくなかったといいます。
そのため、多くの黒人部族の男にとって男同士のセックスは抵抗がないどころか、むしろ好まれていたというのです。
「鉱山の妻」のそもそもの起源は、南アフリカでダイヤモンドや金の鉱山が発見され、大規模な黒人労働者の移住が起った1890年代に、ヨハネスブルグ南方の丘陵地帯を根城にしていた反体制的なギャング団、
「丘の連隊」のズールー族出身の首領、ノンゴローザ・マテブラが、ギャング団のメンバーに女性とセックスすることを禁じ、年長のメンバーに新入りの若い男や少年を「妻」として割り当てたことにあるといわれています。
ノンゴローザがなぜ、そのような措置をとったのか、はっきりしませんが、当時の南アでは鉱山労働者として大量の黒人男性が流入した結果、黒人男性の比率が黒人女性と比較して極端に高くなったことと、
女性の売春婦は性病持ちが多く、性病を防止するために男同士のセックスを奨励したという背景があったみたいです。
ノンゴローザは1900年に逮捕されますが、彼の組織は拡大を続け、その少年妻の制度は逮捕されたギャング団のメンバーによって刑務所に伝えられ、その後、鉱山のキャンプに伝わったといわれています。
刑務所では、鉱山と同様、少年妻が制度化され、「丘の連隊」のメンバーによって厳格に管理されていたそうです。
前述の南アの人権活動家、ザッキー・アクマットは、1978年、16歳のときに反アパルトヘイト活動を行なった罪で政治犯として逮捕され、刑務所に収監されます。
彼はまず最初に雑居房に入れられるのですが、そのとき、刑務所内の「規則」に従って、その雑居房のボスである古参ギャングの少年妻になります。
ザッキーは、刑務所内で「夫」とおこなったセックスについて、次のように回想しています。
ボクは彼と何時間もセックスした。彼はボクのバックを犯し、ボクにキスし、ボクのモノを手でしごいた・・・ボクは彼のモノをしゃぶり、しまいにはシックス・ナインまでやった・・・これを読む限り、鉱山の妻に較べて、刑務所の妻の方がセックスのバリエーションは豊富だったみたいです。
刑務所ではだれも男同士のセックスを恥ずかしいことだとは思っていなかった、『ここは刑務所で男しかいないから、しょうがなく男とセックスする』なんて言いわけは必要なかった。だれもが男の肉体に欲情し、自分から望んで男とセックスしていたんだ。とザッキーは主張していますが、ノンゴローザ自身、晩年、社会学者から受けたインタビューで、彼のギャング団のメンバーが男同士でセックスするようになったのは、刑務所という特殊な環境におかれたせいではなく、
刑務所に入る前、丘陵地帯にいたときから、すでに男同士のセックスが日常的に行なわれていたことを明言しています。
元々、南アフリカの黒人の間では男同士の結婚はめずらしくなく、1950年代には、ダーバン近郊の黒人居住区「ムクンバニ」では、平均して月に1回の割合で男同士の結婚式が挙げられていたといいます。
結婚式では「新婦」は、西洋式の純白のウェディング・ドレスに身を包むか、または伝統的なズールー族の花嫁衣裳を身につけていたそうです。
「新郎」の中には、すでに女性の妻を何人かもっている男性もいたそうですが、彼の女性の妻たちは、男性の妻は子供を産まないのでライバルにならないことから、
自分の夫が女性よりも男性と結婚することを歓迎し、新しい男性の妻を自分達の「シスター」として受け入れたといいます。
アメリカでゲイリブの運動が起こる何十年も前に、南アの黒人社会では、男同士のセックスはもちろんのこと、男同士の結婚さえもごく自然に受け入れられていたのです。
参照文献:Boy Wives and Female Husbands by Will Rascoe
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by jack4africa
| 2008-08-22 00:16

